第2話 ジャズ研
来たる高校生活に向けての先生からの熱い励ましの言葉と、高校生たる態度と責任を持って過ごすようにという身を引き締めるお叱りを受け、無事に下校の時間を迎えた。
「みなこ、帰ろうー」
軽音部がないことなどすっかり忘れているような笑みを浮かべて、スクールバックを抱えた七海がみなこの席の前に現れた。
「うん。今片付けてるから、ちょっとまって。あ、奏ちゃんも誘おうや」
「そうやな。えーっと奏はっと……あ、おった奏ー」
ちょうど、席を立とうとしていた奏は、七海に呼ばれてこちらへ寄って来た。少しカールした毛先がふわふわと彼女が歩くのに合わせて揺れる。
「なに?」
「一緒に帰ろうや」
「もちろんいいよ。二人の家はどこなの?」
「私たちは、
「ウグイスの森?」
「そっか、奏ちゃんは、一昨年こっちに来たばっかやもんな。
「それなら私も阪急だけど、宝塚だから反対側だ」
「駅まで割とあるし、喋りもって行こうや」
少し残念そうな顔をした奏の背中を七海が軽く叩いた。
*
兵庫県立宝塚南高校は、阪急雲雀丘花屋敷駅から続く長い勾配を登って行った丘の上にある。校舎からは大阪平野が見渡せ、視界のいい日にはあべのハルカスも見えるらしい。毎日、この坂を上り下りしなければいけないと思うとぞっとするが、良い運動だと割り切るしかない。ちなみに、雲雀丘と花屋敷は別々の地名で、雲雀丘は宝塚市、花屋敷は川西市にある。
照りつける春の陽射しを正面から受けながら、みなこたちは駅を目指し延々と続く坂を下っていた。
「奏ちゃんは、なんで東京からこっちに引っ越して来たん?」
「普通にお父さんの転勤だよ。うちは転勤族っていうやつだから。小学校の時も途中で転校してるんだ。中学校も卒業までいたかったんだけどね。途中からだとどうしてもみんなと思い出を共有できないから」
「そりゃ、そうやんな。友達と離れるのめっちゃ悲しいはずやで。うちは中学の卒業の時なんか寂しくて寂しくて」
七海は、しくしくと鳴き真似の素振りをする。その中学の卒業式、思い出の仲間と迎えられなかったことを奏は悲しんでいるのだから、言うべきことではないとみなこは思うのだが、奏はあまり気に止めていないようなので注意の代わりに軽く七海の脇の辺りを肘で小突く。
「でも親の都合やから仕方ないやんな……」
「うん。だけど、高校ではもし転勤になっても最後までいるって決めたんだ。もしもの時は、一人暮らしをさしてもらえるように頼んであるから」
意外と芯の強い子らしい。はじめは気弱そうに見えたのだが、この歳で親に自分の意見や考えをしっかり言う難しさをみなこは知っている。
「一人暮らし! スゴっ!」
七海はリアクションがいちいち大きい。見慣れたみなこはなんとも思わないが、奏はそれを見てクスリと笑みをこぼした。
「七海ちゃん驚きすぎ。まだすると決まったわけじゃないから」
「でも一人で暮らすってなったら、料理洗濯掃除を全部一人でしなあかんねんで。うちには無理やわ」
「七海は少しくらい出来るようにならな、お嫁にいかれんで」
「そのうち出来るようになりますぅ」
嫌味に尖らせた七海の唇をみなこは指で摘んでみる。「痛いっ!」とこれまたオーバーなリアクションが返って来た。
「練習もせずに出来るようにはならんて。楽器も料理も一緒」
楽器という言葉に奏が反応した。まるで餌を見つけた小動物のように並んで歩いていた奏の顔が素早い動きでこちらに視線が向く。きっとうさぎのように耳もピクリと動いていたに違いない。
「そう言えば、軽音部に入りたいって言ってけど、二人は楽器やってるの?」
「うん。私がギターで七海がドラム。高校に入ったら軽音部に入ってバンドをやろうと約束してたんやけど、まさか軽音部がないなんて」
はぁ、とため息を吐いたみなこの腕が強く叩かれた。見やれば、七海が随分苦しそうな表情をしている。ついうっかり手を離すのを忘れていた。
「ぱぁーっ! あー死ぬかと思った」
「そんな大げさな」
「花粉症で鼻詰まってるから息できんかったって」
荒い呼吸をしながら、腕で七海は額を拭う。嘘っぽいリアクションだが、息が苦しかったことは本当だろう。申し訳ないと、みなこは苦笑いを浮かべた。
「それで軽音部か。でもどうするの? ないなら作るってパターンもあると思うけど」
「おー、創部か! あれ、でも人数集めなあかんよな?」
「そりゃたいてい五人以上とかそういうのやろ」
みなこに同調するように奏が頷いた。詳しい校則を知らないが、部活動結成に人数が必要であることはどこの学校も同じだろう。それを聞いた七海は、うなだれながら深く息を吐いた。
「人集めかー。うちらの場合、ボーカルも誘わなあかんねんで」
「ボーカル? どっちかがやるんじゃないの?」
「まさかぁ。うちはともかくみなこは、めっちゃ音痴やから」
「めっちゃとはなんや。そりゃ、うまくはないけど」
「小学校の合唱コンクールん時とか外しまくって、やばかったやん」
そのことはやめてくれ、とみなこは七海の口元に手を添える。自分の技量がわかっていなかった頃の苦い思い出なのだ。今では考えられないほど、七海のように積極的だったみなこは大声で歌を歌った。その音が外れているとはつゆ知らず。そのせいなのか、いつの間にかあまり前には出ない性格へと変わっていった。
「今は、あの頃より少しはマシやから」
「カラオケとかで練習したもんな。流石にあの頃よりかはなぁ」
ケラケラと笑う七海に、みなこは頬を膨らませる。事実だから仕方ないが、小馬鹿にされるのは癪にさわるのだ。
「にしても人数集めるのは確かに難しいかもなぁ。この学校そこまで人数も多くないし」
ひと学年四クラス。全校生徒は五百人もいないはずだ。みんな入りたい部活はあるだろうし、新設するのは中々に難しく思えた。
「そうやなぁ。あ、でも奏、ジャズ研がどうとか言ってなかった?」
「あー軽音部はないけど、ジャズ研ならあるって言ってたな」
二人の視線が、すっと奏の方を向く。同時に見られたことが恥ずかしかったのか、少し頬を染め奏がコクリと頷いた。
「私はジャズ研に入りたくて。二人が軽音部の話をしてたから、楽器をやりたいのかなって」
「奏ちゃんはジャズ研に入りたいってことは、なにか楽器やってるん?」
「小学生の時からベースをやってるよ」
「おぉ、小学校の時から! ってことはかなりのキャリア!」
「キャリアっていうのは大げさだけど、もう七年くらいかな」
七海のリアクションに慣れてきたのだろう。奏は柔らかく口端を緩ませた。七海は顎の下に指を据えて、ブツブツと一人ごちる。
「でも、七年もやってるなら結構うまいんちゃう? 奏を誘って軽音部を……」
「いや、奏ちゃんはジャズ研に入りたいんやろ? そもそも存在しない部活に無理に引っ張るのはよくないって」
「それもそうか……」
がっかりとした七海の影が長い坂に伸びる。遠くに見える駅には、マルーン色の電車が桜吹雪の中を抜けて入ってきていた。
「二人はジャズに興味ないの?」
埃っぽい花粉混じりの空気が山から吹き降りて来た。ふんわりとしたなめらかな奏の声が、みなこの鼓膜を甘く揺らす。少しだけ茶色掛かった髪がゆるくなびき、優しいシャンプーの匂いが鼻をかすめた。奏の瞳はうるうるとしている。綺麗なその目を見て、勇気を振り絞って誘ってくれていることがわかった。
「ジャズかぁ。七海はどう?」
「バンドを組もうってみなこと約束したけど、それはロックバンドを組もうって約束したわけちゃうで」
ニタっと笑んだ七海の口元に真っ白な歯が覗いた。軽く弾みをつけながら坂を登り、少し背の高い奏の顔を覗き込む。
「一緒に入って欲しそうな顔」
七海の悪戯な表情に一瞬だけ臆して、負けじと奏は喉を震わせた。
「うん。二人と一緒に演奏したい。ジャズ研、入ってみない?」
キラキラとした青い空が奏と重なる。遠くまで伸びる飛行機雲。夏を待ちわびる若い緑の梢枝たちがカサカサと静寂にリズムを添えた。ぐっと力の込められた奏の薄い唇はほんのりと白くなっている。
きっと七海も同じ気持ちのはずだ。奏と一緒に演奏がしてみたい。みなこと七海は同時に頷き、声がユニゾンする。
「いいよ」
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