第50話『教頭 田中米造』


乙女と栞と小姫山・50

 『教頭 田中米造』           





 皮のすり切れた肩下げカバンから、田中教頭は二つの真新しい写真立てを出した。


 微かに野鳥の声がしたが、屋内の仏壇式納骨堂だったので幻覚かもしれないと思った。


 幅五十センチ、高さ百八十センチ程の納骨式仏壇は、まるで職員室のロッカーのようだった……いや、奥行きが三十センチあるなしの薄さなので、ロッカーよりも貧弱に見える。 


 二十数年前、親類の紹介で見合いし、妻といっしょになった。妻は、娘といっしょに下段の納骨スペースに収まってている。

 事務所で、お経を上げる坊主を付けましょうかと言われたが断った。坊主といっても仏教系大学の学生アルバイトであることは百も招致である。自分で正信偈(しょうしんげ)の小さな経本を持ってきている。子どものお道具箱のような引き出しを開け、鈴(りん)と鈴棒を出し、花生けには妻が好きだった菫の造花を差した。

「おっと、水だ。もう、ダンドリも忘れてしもたな……」

 ひとりごちて、田中はママゴトのそれのような湯飲みに水を汲みに行った。


 この仏壇式納骨檀は、妻の祖父の強い勧めで買った。百万もしたが、半分出してやると言われては、断るわけにもいかず購入した。一応真宗の門徒ではあるが、生まれた家が真宗であったというだけである。納骨を済ませたあとは、お参りに来たこともない。三年前十三回忌を済ませたが、もう終わりにしようと思っている。

 田中は、これでも仏教系の大学を出て得度も受けている。法名を釋触留(しゃくしょくる)といい、自分ではシャクに障るだと、シニカルに思っている。


 帰命無量寿如来 南無不可思議光(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 (とけんしょぶつじょうどいん こくどにんでんしぜんまく)……。


 と、やり始めた。教師というのは声が大きい。正信偈も真宗では、基本中の基本である。彼の声明(しょうみょう)は堂内に響き渡り、中には、高名なお坊さんが経を唱えているのかと手を合わせていく年寄りもいた。


 写真は、娘が中学を卒業したときに、卒業式の看板の前で撮った妻と娘の写真。もう一つは、こないだ乙女先生からもらった制服姿の美玲の写真であった。


「佐藤先生の娘さん。碧(みどり)と同じ、森ノ宮女学院や。雰囲気が碧そっくりやし、持ってきた。好子、すまなんだな。ほったらかしで……わしは人間は死んだらゼロや思てた。真宗では、このゼロのことを極楽と言う。好子も碧も、そこにいてる。そやさかい墓参りにも来んかった……今日は気まぐれや。お天気もええし、美玲ちゃんの写真もろたんも、なんかの縁。それに学校も問題多いし、これから仕事忙しなる思てな……ハハ、わし、なに言い訳してんねんやろなあ……そや、ただワシは来たいから来ただけや。来たいから来ただけ……」


 そう言うと、田中は水を飲み干し、仏具を片づけ、写真と造花をカバンにしまった。


 田中は、ゆっくりと納骨堂の玄関にもどった。人が少なく、堂内に、やけに自分の足音が響くのに閉口した。

「タクシー呼びましょか?」

 玄関の係員の申し出も断った。

「いや、新緑の中、ちょっと歩きますわ」

 そうは言ったが、実のところ、あまりな新緑の輝きに泣き出しそうな自分を見られたくなかったからである。


 ……しばらく行くと、植え込みの陰で人の気配がした、それも、ごく親しい人のそれである。


「……好子……碧……」


「ごくろうさま」

 妻が軽く頭を下げた。


「ありがとう、お父さん」

 碧が、森ノ宮女学院の制服姿で、ハニカミながら言った。


「これ、美玲ちゃんの借りたの。制服姿で、お父さんに会えてよかった」

 田中は、慌ててカバンの中の写真を見た。卒業写真から二人の姿は消え、美玲は、下着姿で恥ずかしそうにしていた。

「そんなん見たげたら、あかんよ。お父さんのエッチ」

「ほんまに、好子と碧やねんな!」


「うん、そうよ」


 母子の声が揃って、十五年ぶりに親子三人で笑った。

 そして、なにをしゃべるでもなく、親子三人は、霊園の門までの百メートルあまりを歩いた。

 門が見えてきたとき、好子と碧が、ニッコリ手を繋いで来た。田中は十五年ぶりの幸福に心が満たされた。


 そして……ちょうど門を出るところで、田中はこときれた。四十九年の生涯であった。


「はあ、なんや、楽しそうに納骨堂から歩いてきはりましてな。ほんで、両脇をニッコリ見たかと思うと、まるで人に支えられるようにゆっくり倒れていかはりましたわ」


 警備員のオッチャンは、見たとおりに警察官に話した。


 初夏の青空を、三つの小さな雲が流れていったことに気づいた人はいなかった……。



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