第七話 港西警察署

 

 どうして……。わからないよ……。

 お母さんはさっき、優しくしてくれたのに。

 うっ……、ぐすっ……。あ、私のお手々、真っ黒だ――。


「出して! 出して! お願い!」


 ……ドラえもん、どこでもドア出せないの?

 あの子を、あの狭いところから、出してあげて。


「いやだ! もうしません! お願い!」


 ぐすん……、可愛そう、可愛そう。

 お母さん、どこ行ったの?

 ……誰もいないの? ドラえもん、あなたは何故笑っているの?

 ただのぬいぐるみ。そんなの知っている。

 でも、でも、私にはあなたしかいないの。

 ……分かってよ、お願いだから、なんとかしてあげて。


「許して下さい! 許して! お願い!」


 苦しくて、悲しくて、痛いことをしないで。

 どうして、あんな、酷いことを、あの子に――。

 私には、何も、何も……。


「何でも言うこと聞くから! お父さん! ここから出して!」


 駄目! その人はだめ! 海来! 絶対駄目だから!

 あなたは私が守るから!

 あなたのドラえもんになるから!

 お母さん、海来に優しくしてあげて!

 ううっ……、涙が出ないよ。

 唇も乾いて……。

 もうお外は嫌だ!

 助けて、助けて、助けて。


「助けて! お父さん!」



「海来! 大丈夫?」


 重い瞼をこじ開けると、そこにはカンナがいた。時計の秒針の音がする。……やだなぁ、またあの夢だ。


「すっごいうなされてたよ? 何度も何度もお願いって」

「……そう、ごめん心配させて」

「電気点ける?」


 いや、真っ暗な方がいいと、私は首を横に振った。


「ごめん、トイレ行ってくる。今何時?」

「朝の五時」


 一緒に寝ていたベッドから出て、フラフラとトイレに向かった。あの夢は最近あんまり見なくなってたんだけどなぁ。飲み過ぎなのと、カンナに気持ちよくしてもらったから、脳がおかしくなったのかな? 便座に座って用を足しても、少しの間立てなかった。――あの夢は、私のトラウマだ。一生ついてまわるんだろうな、きっと。


 ――お父さん、か。今度、久しぶりに電話してみるかな。


 ベッドに戻ると、カンナは真っ暗な寝室の中、ベッドに座って心配そうな顔で私を見つめる。


「よくうなされるの?」

「ううん、そうでもない。でも、普通によくある話よ。仕事のストレスとかさ、一応社長だから、心配事いっぱいあるし。経営者って誰でもたまには変な夢でうなされるんじゃない?」


 私は布団をめくって、カンナのそばにひっついた。


「そう……、意外ね」

「何が?」

「海来って図太いからさ、喜怒哀楽もちゃんとあるし、溜めない人かと思ってた」

「何よー? それ。カンナ、あたしのカウンセラーなのに、私が意外と繊細だって知らなかったの?」

「繊細ねぇ、たかが二時間待たせたくらいであんなに怒るほど細かいのは認めるけど」

「たかが? 二時間よ? 二時間」

「あーはいはい、寝よう寝よう。まだ全然……ふわぁ」


 カンナはまたあたしを操った。沈んでた気分がいつの間にか浮上している。……上手いなぁ。私にカンナを操れる日が来るのかな?


「分かったわよ。その前におやすみのキスは?」

「はぁ? ちゃんと寝る前にしたじゃんか……って、海来、そんなふくれっ面、あんた馬鹿?」


 面白いので、私は茹でダコのように、必死な形相で唇を突き出してやった。しょうがない子ね、と言ってカンナはめんどくさそうに一瞬だけ軽くキスをすると、そのまま布団を深くかぶってぷいっと向こうを向いて寝てしまった。私は当然、それに抱きついて、彼女の体温を自分の体に注入した――。



「そう、ごめんね、一時間ほど遅れて行くから。……うん、……はい、……そうそう、その件ね、後でメールあっちに送っとく。じゃぁね」


 会社に出勤している三島に電話すると、朝イチで細かい案件が2、3件問い合わせが入っているようだった。どうするかなぁ。他にも溜まってる仕事あるけど、やっぱり仲西麗華の案件を動かないとなぁ。でも人が足りないし困ったな、そんな簡単に雇えないし……。


「大変ね、会社の経営者も。私みたいに自由気ままにやれないわけね。はい、コーヒー」

「そうよ。税金だって払わなくちゃだし、従業員食わせてやんないとダメだし、家賃や光熱費、経費だって支払わなきゃだし、他にもあれやこれや経営者って大変なのよ」

「ふーん。でも、それが海来の生きがいなんだから、しょうがないよね」


 私は、コーヒーを啜りながら、カンナが朝早くに近くのパン屋さんで買ってきたクロワッサンを頬張る。ポロポロと皿の上に皮が落ちた。


「まぁね。普通に会社員やってるよりは私に性に合ってる――」


 と、カンナと駄弁りながら、ポケッとテレビを見ていたら、あれは……。


〈――被害者の会社員、馬渕伸子さん、42歳の女性ですが、先程警察から重体との発表がありました〉


 どうやら、都内某所で通り魔的に包丁で刺されたらしかった。


「その事件、朝から何回かやってるね。犯人捕まってないらしいけど、怖いね」

「そうだね。でもあの写ってる現場って、もしかして、昨日行ったところの近くじゃないの?」

「えー? うそ?」

「だってほら、あのビル。あの先をまがったところが、あのお店のあった路地じゃない?」

「やだ、ほんとだ。えー、じゃぁもしかしたら私達も危なかったの?」

「そうかもね。事件の時間はちょっと遅いけど」


〈えー、それでは地元警察署の方に映像を切り替えます――〉


 む? あの警察署は……、待てよ。私は玄関においてあった私のバッグを一旦取りに行って、再びカウンターキッチンのテーブルに戻った。バッグの中からメモ帳を取り出す。


「どうしたの? 海来」

「うん、ちょっと気になって……、あ、やっぱりそうだ」


 いまテレビに写っている、そのレポーターの背後に写っている警察署は、あの仲西麗華を脅迫して操っている渡辺二瓶のいる港西警察署だ。


「ごめん、すぐ出る。カンナありがとね」


 そう言って、半分だけ食べていたクロワッサンの残り半分を皿の上に戻すと、椅子から立って、リビングの隅にあるハンガーラックに掛けてあった上着とダッフルコートを羽織った。


「ちょっと待って、カンナ。これ、持っていきな」


 と、弁当包みを渡してくれた。


「こんなの、別に良いのに」

「いいから持ってって」

「ありがとー。あ、そうだ、カンナの軽自動車借りていい?」

「いいわよ。車のキーはえっと――」


 そのキーを玄関で受け取ると、カンナに軽くキスをして、マンションを後にした。



「ごめんねー三島くん、やっぱりあの件、私がとりあえずリサーチする。午後には戻るから」と言って電話を切った。


 車は、港西警察署の正面を走る国道の、反対車線側にあるファミレスの駐車場に止めた。仲西麗華によれば、今もあの警察署管内に渡辺はいるらしいが、最初にあった交番所にはもういないという。

 渡辺二瓶巡査長の顔写真だけは仲西麗華から貰っていた。今の所、情報はそれだけだ。

 警察という組織はなかなかガードが硬い。一般人なら、個人情報の収集は比較的簡単だが、警察官はなかなかそうもいかない。調べられないわけではないが、誤るとこっちに足がついてしまう。バレたらそれこそ大変だ。

 プロの探偵には大抵、伝手を辿ると警察内部の事情に詳しい情報筋にコネクトは出来るのだけど、それには意外と手間がかかって面倒でもあったり。情報筋はただでは情報はくれないから。向こうだってやばいのだ。警察は色々と厄介な相手なのである。


「動くとは行ったけど、どうすっかなぁ。あそこに渡辺がいるのが分かるだけでもいいんだが……」


 止めた車の中から、ビデオカメラの望遠で警察署正面玄関を覗き込む。昨晩の事件で、2台ほどテレビ局の中継車が止まっていて、局の関係者が玄関付近に数名。それほど慌ただしさはないが、通常よりはパトカー車両などの出入りも多く、警察関係者も玄関を出たり入ったりしている。

 二時間ほど観察し続けたが、渡辺らしき人物はまだいない。こういう仕事だから長時間の張り込みには慣れているが、今日は急遽動いたので、色々と資機材が不足している。超指向性のガンマイクがあれば、結構離れているここからだって、警察署玄関の会話くらい聞こえるんだけどなぁ。カメラはスマホかこの家庭用ビデオカメラしかないし、ビデオカメラの充電池はもうすぐ切れそうだ――。


 ブブブっとスマホがバイブした。事務所からだ。


「はい、藤堂です」

「あ、藤堂さん、さっき、京極さんから電話がありました。藤堂さんと直接話したいことがあるそうなので、すぐ電話が欲しいそうです」

「わかったわ。電話番号LINEして」

「さっきしましたので、確認して下さい。では」


 確認すると、確かに5分前LINEで三島からのメッセージは届いていた。すぐに、京極菖蒲に電話した。


「あ、京極さんね。私、昨日の藤堂だけど」

「すみません、急に連絡したりなんかして」

「いいよ、別に。それで、どんな話がしたいの?」

「それがその……、昨日はあの子の隣だったから言えなかったことがありまして」

「うん、麗華ちゃんには言えないこととか?」

「……ていうかその、逆に彼女が隠してるんです」

「麗華ちゃんが隠してる?」


 電話をしながら、警察署を眺めていると、さっきまでとは違い玄関前に人が増えている、どうしたんだろう?


「藤堂さん、あたし、どうすれば……」

「どうすればって、とりあえず私に話したくて、会社に電話したんでしょう?」

「はい、実はその……、麗華、多分妊娠してるんです」

「ええっ!」


 そんな――。まさか、そんなことが。


「それ、ほんとなの?」

「はい。麗華は私に黙ってるけど、見ちゃったんです。彼女がトイレから出た後、汚物入れに妊娠検査薬が捨てられてるのを」

「何ですって? それ、ほんとに麗華ちゃんのなの? 誰か他の人のものじゃなくて?」

「ええ、麗華、しょっちゅう気分が悪くなったって……たぶん、つわりかと」


 これは……その可能性は高いな。参ったな、まさかそんなことが。でも――。


「それをどうして、京極さんに言わないのかな? あなただけなんでしょう? 事情を知っているのって」

「ええ……、実は、麗華には彼氏がいるんです」

「うそっ――」


 驚いて、スマホを落としそうになった。その時だった、大きなパトカーサイレンを鳴らして、数台のパトカー車両が並んで警察署の前に入ってきた。どうやら、昨晩の通り魔が逮捕されて連行されてきたらしかった。


 そして、その電話に絶句していた私は、自分の視線の方向に見覚えのある顔があることに気がついた。


 あれは、香西雪愛だ――。






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