第三話 結城カンナ
狭い事務所の空気が淀んでいると感じたのか、三島は南に面した側の窓を少し押し開けた。外の喧騒と、新鮮な冷気が室内に入ってくる。
「お話は大体つかめました。細かな情報について不明な点等はまた今後色々お話していきましょう。それと、すぐにでも着手したかったのですが、お話がお話だけに、こちらでも慎重に検討させて下さい。できるだけ前向きに考えたいと思っていますが、弊社もご覧の通り弱小事務所でして、着手には慎重を期さないとなかなか難しいものがあります」
そう言わざるを得ない。二人の話を聞いていて、内心は腸が煮えくり返り、万難を排してでも着手したい思いはふつふつと湧いたものの、今回ばかりは相手が悪い。失敗したら、この事務所が潰される。ただでさえ、この業界は警察を相手にすることを極端に避ける。目をつけられたら一溜まりもないからだ。現状たった二人しかいない、この事務所を潰すわけには行かない。
「それは十分分かっています。警察には相手にもしてもらえないし、弁護士先生にも何件も断られて、それでやっとここへ辿り着いて前向きに検討していただけるとのお答えをいただけただけでも嬉しいです」
被害者の仲西麗華の唯一の親友、京極菖蒲はそう言うと、真剣な眼差しをこちらに向けた。仲西麗華は自身の両腕で自身の体を抱くようにして震え、さめざめと泣き腫らしていた。
「麗華ちゃん、こんな事言うのもあれだけど、私達は味方。たとえ着手できなくても、私達もあなたを守るからね。大丈夫、しっかり生きていこうね。絶対なんとかなるから」
私も彼女にそう言うのがやっとだった。これほどまでに悔しい思いをしたことがあっただろうか。この手でその渡辺二瓶という悪徳巡査を今すぐ刺し違えてでも良いから、殺してやりたいとすら思った。当然それは非現実的だけれども、それくらい憎くてたまらなかった。何としてもこの子を救ってあげたい――のに。私は臍を噛んだ。
「と……藤堂さん、あ……ありがとうございます。まだ私はなんとかなります。お……よろしく……お願い……します」
ソファーに座ったまま、泣きながら深々と私に向かってお辞儀をすると、仲西麗華は京極菖蒲に抱きかかえられるようにして立ち、そしてそのまま二人は事務所を出、その後をビルの玄関まで見送った。
事務所に戻り、さっきまで彼女達が座っていた二人がけソファーに深々と腰を下ろすと、我慢していた涙が止まらなくなった。デスクの対面では三島がひたすらキーボードタイピングを続けている。
何か方法はある――。事務所を開いて五年。独立前から数えて八年もこの世界にいる。今までだって、失敗もあったけど、それなりに努力して、実力も付けてきたし、下請けで我慢せず、性犯罪という難しい領域にチャレンジしてきた。少しでも多くの女性を守りたい、助けてあげたいという一心だった。大学の恩人である桑田先生にも、しっかり応援していただいたし、色んな人にも助けてもらっている。なんとか出来る筈――しかし。
あの人ならどうやっただろう? ……いや、それは考えない。まずは私が。そんな風にソファーに座って延々考えあぐねていると、天井を向いていた私の顔の上にふわっとタオルが覆い被さった。
「お顔、化粧が崩れてぐちゃぐちゃですよ。それで涙をふいて」
くそっ、三島め。変なところに気が利く奴だからな、こいつは。
「……うるさいよ。報告書は出来たのか?」
「もちろんですよ。あの程度の案件早く終わらせて、仲西麗華さんの方をさっさと着手しないと」
「無茶言うな。流石に私でも、麗華ちゃんの案件はすぐには動けないよ」
三島は私のデスクチェアーに後ろ向きに座って背もたれを抱えこちらを見る。
「海来先輩」
「……社長だっつってんだろ」
「海来先輩、リサーチくらい始めても良いのでは?」
「駄目だ。絶対駄目。私の指示なく、三島くんが勝手に動くとか絶対に駄目だからね。分かるでしょ? この件がどれほどやばいか」
タオルで顔を強めに拭き、そのタオルを見ると、たしかに三島の言う通り、化粧などあったものではなかった。でも今日は、特別な日だし、化粧はいつも落としてたからいいか。
「そうですけど、あんなに具体的に話してもらったんだから、どこかから少しでも端緒くらい掴めるんじゃないんですか?」
「具体的? 全然だよ」
「全然って?」
「彼女達が知っているのは全体のほんの一部に過ぎないと思うの」
「えっ?」
「あなたもその優秀な頭で考えてご覧。渡辺二瓶があの程度で済ませると思う?」
「あの程度って……まさか?」
私は、ソファーからゆっくり腰を上げると、ソファーの隣りにある従業員用ロッカーの裏に回り、帰宅の準備を始めた。
「そのまさかよ。間違いないでしょう。規模は検討もつかないけど、私もこんなやばい話、今まで聞いたこともない。考えただけでもぞっとするわ」
「えっ、でも仮にそうだとしても、例えば大学の桑田先生に相談するとか?」
「駄目よ。情報漏れは厳禁。守秘義務は絶対だからね」
私だって誰かに相談したいし、誰かに助けて欲しい。しかしそれは無理だ。守秘義務もあるが、それ以上に情報漏れは死活問題となる。相手を絶対に舐めてはいけない。今日だって、ここに彼女達が来た事自体、渡辺に既に知られているのかもしれない。最悪の場合、こちらの身が危ない。
私は着替え終わると、ロッカーから通勤用のバッグを取り出し、ロッカーを閉めた。
「いつもと違うなぁ、海来先輩」
「調子に乗んな、三島。最近うまく行き過ぎてたんだよ」
「ですよねー、確かに簡単な案件ばかりだったし。でも先輩が弱音吐くなんて珍しいですよ」
「あたしも、か弱きオ・ン・ナ」
「あっ、それずるい」
「ふふふ。今日はカレとデートよ」
「あ、カンナさんとですか?」
「カンナ以外誰がいるっていうのよ? ともかく、さっきの報告書そのまま送っておいてね。どうせあっちはまた修正のまっかっかでお繰り返してくるだろうし。じゃ、お先にー」
「お疲れっす」
夕方六時半過ぎ。1月も後半を過ぎると、正月気分も抜けて街は平常を取り戻している。今日はいつもより肌寒く、昼間は小雪が舞っていた。ダッフルコートのフードを襟代わりにして少し立て、ウールのマフラーに顎を鎮める。退社した人たちや、これから賑わう夜の街で、ごった返すこの騒がしい空間が私は好きだ。その中に紛れると、ふと何かに包まれた気分になり、安心感が増す。私は寂しがり屋だから。
事務所のある街から、地下鉄を二駅行くと、そこが今日のデート先。カンナは先週ニューヨークから帰ってきたばかり。知人のアートの個展を手伝ったという。私はカンナがどんな仕事をしているのかいまだに知らない。2年前に仕事で知り合って、彼女は当時無職だったはずなのに、私よりも明らかに裕福だった。その駅の2番出口を上がると、そこにすらっと背の高いカンナがいた――。
「待った?」と言う私の口から白い息が漏れる。
「そうね、十分くらいかな?」
「そんなの待ったうちに入らないよ、うふふ」
「またその話? やめてよーもう、海来ったら」
彼女は嬉しそうだった。私に会えたからじゃないだろう。やり取り自体は毎日しているし、昨晩だって明け方近くまでFaceTimeした。
「二時間よ二時間、あのときどれだけ――」
「わかったからさぁ、さっさと行こ。予約時間過ぎてるし」
と、文句を言い始めた私に愛想を尽かしたように歩き始めた彼女に、私はいつものように、腰に手を回してまとわりつく。彼女が今羽織っているのは、まさかうん十万かうん百万かするミンクか何か高級な動物のコートなのだろうか。肌触りが心地良い。――なわけないか。カンナは魚以外は動物を食べないヴィーガンだしね。魚だけは食べる理由は知らない。カンナは独特なのだ。ベジタリアンではないのだというがよくわからない。でもフェイクファーでも彼女の着ているものは高くて私には買えない。
「で、今日は何? どこ予約したの?」
「ふふふ、教えない。着いてからのお楽しみ」
「何よそれ? 私はいつだって――」
「口を閉じなさい、お姫様。私に任せれば大丈夫」
私は泣きたくなった。あんなについ二十分ほど前まで悔しくて、悲しくて仕方なかったのに、急に嬉しくなったからだ。
「なにー? 止めてよ、その鼻水ズルズル」
「えへへ、ごめんごめん。寒くてさ、鼻水が止まんなくて」
すると、カンナは足を止めて私の顔を心配そうに覗き込んだ。その大きな瞳が私には眩しい。
「風邪? ……じゃないわね。またこの子ったら、悩みごとだな?」
ほんとにこの人は、私の脳に同調が早過ぎる。だから私は彼女に依存してしまうのだ。
「そ、っかな。ともかく、お店行こ、寒いし」
「そうだね、ちょっと遠いんだけどね、ワンメーターも行かないけどタクシー乗る?」
「ううん、このままがいい。カンナのコート温かいし」
「きめぇよ、海来。つーか、その鼻水でスリスリすんな」
「もうっ、いいじゃない、少しくらいさ」
と言って私はさっきよりももっと彼女にまとわりついた――。
駅から15分程歩き、騒がしいところから少し離れて、大都会の中にあるとは思えないほど静かなところに、その店はあった。あたりは、歩く人はそれなりにいるという程度で、どちらかと言えばマンションや民家の多いところ。そして、少し路地を入ったところだった。こんなの誰も店だとわからない。わずかに入口のドアに小さな掛け看板で「Castel del Monte」とあり、ドアノブに営業中と札がかかっているだけだった。
「よくこんな店知ってるわね? 食べログとか?」
「なわけ無いでしょ。ここはほんとに知る人しか知らない。撮影禁止の秘密の場所よ。ドアの横ににほら小さく注意書きあるでしょ」
見ると、「店内では一切の撮影を禁止しています。また、グルメサイトなどへの掲載も一切お断りしています。店主」と確かに壁に貼ってあった。カンナがそのどこの家にでもあるような普通のドアを開けると、ドアベルがカランコロンとなり、中からとても食欲をそそるいい匂いがする。
「いらっしゃいませ。
私はまだ外にいたが、中から二十歳くらいのエプロン姿の女性がそう声を掛けた。
「はい、少し遅れたけど大丈夫?」
「全然、どうぞお入り下さい」
ちょっと信じ難かった。外から見ると普通のどこにでもあるような民家にしか見えないのに、ドアを開けたその内側は、まさにイタリアの地方都市だった――。
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