挿話 とあるトロンボーン吹きの憂鬱②

 他線が乗り入れる駅で悠が電車を降りると、亮太の右隣は空席になった。電車は連絡待ちのために停車しており、開いたドアからは身が凍るような冷気が入ってくる。

 圭太はトランペットパートの面々と晩ごはんを食べに行くようで、賑やかに連れだって先に学校を後にしていた。約束していたことを完全に失念していたらしく、家に帰れば怒り心頭に発した母が待っていることだろう。本来無関係なはずの亮太が気をもんでも解決はしないが、圭太が帰宅後こってり絞られることは容易に想像できる。そういういい加減なところは相変わらずだなと思いながら、亮太は臙脂色の座席に深く身を預けた。

 「三つ子の魂百まで」ということわざが示すように、昔から圭太は変わらない。そしておそらく亮太自身も。

 圭太は昔から負けん気が強く、良くも悪くも感情的だ。かけっこも、縄跳びも、トランペットも、何もかも一生懸命で、何かが成功すれば心の底から喜ぶし、何かに失敗したときはそれ以上に悔し泣きをしていた。もちろん、本人は「泣いてねえ!」と決して認めようとはしなかったが。気分にムラはあるし、一度熱中してもすぐ飽きてしまうことも多い。しかし土壇場の集中力には目を瞠るものがある。そして圭太には華があった。多少強引にも周りを巻き込むだけの力があるのだ。

 それに対し、亮太は昔から「誰かに負けたくない」という気持ちが全く湧いてこなかった。決定的に闘争心が欠けていると言ってもいい。かけっこも縄跳びも自分ではない誰かが一等賞になって喜んでくれるのであれば、亮太はそれで満足だった。とはいうものの、外野はそうではなかった。亮太と圭太は一卵性双生児なので、外見も瓜二つで能力もそれほど違いはしなかったが、性格というほんの違いは周りからの評価に直結する。

 小学校低学年の頃はかけっこで一番になった弟の姿を見ると、自分のこと以上に嬉しかったものだ。でも周りの大人はそれをよしとしなかった。「亮太君はのんびり屋さんねえ」「圭太君みたいにもっと頑張らないと」「頑張れば圭太君みたいにできる子なのに」はっきりとは覚えていないものの、幼稚園や小学校の先生、友達の保護者などにそう言われるたび、亮太は小首を傾げていたような気がする。今よりもはるかに貧相だった語彙力では、感情を上手く表現できなかったのだろう。では、高校一年生の現在ならどうだろう。




「ねえ、亮太君」

 いつの間にか電車は駅を出発しており、結露で白くなった窓の外は深い闇に包まれていた。驚いて右に顔を向けると目を細めた女生徒が腰かけている。濃いグレーのダッフルコートの上に桃色のマフラーを巻いているにも関わらず、紺色のスカートと白い靴下の間からのぞく膝はとても寒そうに見える。亮太たちが通う法蓮高校は校則がかなり緩く、女子たちは黒いタイツやぶ厚い靴下を着用していたが、彼女——清水しみず夏海なつみらの通う京終きょうばて高校では白い靴下以外禁止されているのだ、と耳にしたことがあった。

「久しぶり。卒業コンサート以来だから……九か月ぶり、かな」

「あ、ああ、うん?」

夏海は亮太の顔を横から覗き込むと、以前と変わらず右頬に可愛らしいえくぼを作る。

「なんて顔してるの?」

「いや、ほんと、久しぶりだなーって」

「何それ」

自分は今どのような顔をしているのだろう。口角を無理矢理上げると、さびついた機械のようなぎこちなさを感じる。対する夏海は亮太の記憶と寸分違わず明るく眩しかった。

「なんか、懐かしいね」

「清水さんもトロンボーン続けてるんだ」

 何が「続けてるんだ」だ。夏海の膝には合皮製のスクールバッグが置かれており、そこに垂れ下がったトロンボーンのキーホルダーを盗み見て胸中で毒づく。亮太は八月上旬のコンクール会場で夏海の姿を認めていた。自分たちの演奏を終え、ふわふわとした満足感を抱えながら楽器を片付けていると、緊張した面持ちで金色のトロンボーンと楽譜の入ったファイルを持って移動するのを見かけたのだ。いや、無意識のうちに探していたと言う方が正しいだろう。白地に紺色のスカーフを巻いたセーラー服の集団を舐めるように、祈りながら目で追っていた。実際、夏海が進学先でも自分と同じトロンボーンを続けているとわかったときに、何よりも感じたものは安堵だった。

「亮太君もボーン?」

「うん、そう」

「そっか」

 中学の同級生、というのは近そうでいて遠い距離感だ。あの頃は学業に、部活に共に励んだ仲間のはずなのに、進学を機に疎遠になることも多い。同じ共同体に属していた頃には想像もできなかったが、こうして偶然会うことや接点がなくなってしまえば、もう一生交わることはないのかもしれない。夏海との接点は吹奏楽とトロンボーン。今の亮太にはそれだけしかなかった。

「圭太君は元気?」

 そう問うた夏海の表情は、何気ない口調とは裏腹に少し固かった。当然のことだろう。わずか数ヶ月とはいえ、夏海は圭太の交際相手だったのだから。努めてにこやかな表情で亮太は答える。

「元気すぎてみんな手を焼いてるっていうか。あ、あいつも吹部でトランペットなんだけど」

「Aに出てたよね」

圭太のことは知っているのか、という言葉の代わりに亮太は頷いて「俺はJだったけど」と付け加えた。俯いた夏海の表情が一瞬曇ったように見えたが、次に顔を上げたときにはその影は霧消しており、圭太のことを尋ねる前と変わらなかった。

「今はアンサンブル?」

「うん、そう。俺らは金管八重奏きんぱち

「ほんと⁉ 私もそう。何の曲するの?」

「えーっと、『文明開化の鐘』」

亮太が曲名を告げると、夏海は数回まばたきを繰り返し、くつくつと口に手を当てて笑い始めた。怪訝な顔をした亮太を見て、夏海は深呼吸をして息を整える。

「すっごい偶然。実は私たちのグループもそう」

夏海は「今年の京終は強いよ?」といたずらっぽく笑う。

「そうなん?」

「あぐらかいてたら、夏に法蓮そちらさんに代表奪われたのが悔しくって」

 夏海に対し「そうなんだ」と言うのは間違いな気がした。京終高校が県大会金賞で終わったのは、紛れもなく法蓮高校が代表に選ばれたからだ。選ばれた側だからといって、選ばれなかった側に見向きもしないのは、亮太の直感が違うと告げていた。とはいえ「ごめん」と謝るのも違和感がある。亮太はAグループのメンバーではなかったし、そもそも、これまで共にやってきたのだからオーディションなどせずに二・三年生が舞台に乗ればよいと思っていた。そんな自分が法蓮高校の一員として何かを言っていいのかもわからない。

 こんなとき、圭太なら何て言うだろうか。

 うまく言葉が見つからずに黙りこんでしまった亮太を見て、夏海は慌てて両手を身体の前で振る。

「あ、別に責めたいとかそういうつもりはなかったの」

「大丈夫だから。清水さんは嫌味なこと言う人じゃないってことくらい知ってるって」

「……やっぱり、亮太君は優しいね」

「別に、俺は優しくなんかないって」

「優しいよ。すごく」

夏海は「優しすぎるよ」と窓の外に目をやりながら息とともに吐き出す。電車は次の停車駅へと近づいており、光の集まりが次第に大きくなってきた。

「来年こそはって気持ちで頑張ってるってことだからね」

「そっかあ」

「特に金管の層が厚いっていうか。そう、特にホルンの同い年の子はずば抜けてて。確か、柴川しばかわ中出身の子だったと思う。最近急に上手くなった人も多いし私も頑張ろうっていう気持ちになれるの」

「清水さんは楽しそうでいいねー」

「亮太君は楽しくないの?」

 他意なく発した自分の言葉はブーメランのように返ってきた。

 部活が楽しくないわけではなかった。むしろトロンボーンを吹くのは好きだし吹奏楽も好きだ。中学の頃は不可能だった難易度の曲にも、法蓮に入ってからは取り組めるようになった。法蓮高校の吹奏楽部に入ったことに後悔はない。

 断じて悔いはないのだが、ここ数週間のアンサンブル練習は気が滅入ることが多かった。上昇志向の強い圭太はどうやら本気でアンサンブルの校内代表を狙っているらしい。いや、圭太だけではない。ホルン担当で部長の川崎遥香は——その立場ゆえか個人的な考えゆえかはわからないが——中立を保ってはいるものの、ほぼ全員が代表に照準を合わせていた。合わせてはいるのだが、パートも違えば音楽性も違う。それはすなわち。

「まあ、ちょっとアンサンブルの雰囲気が、ね」

「そういうこと、あるよね」

 言い淀んだ亮太の言葉の先を、夏海は的確に捉えてくれたようだった。夏海が面はゆい表情で「わかる」と頷いた拍子に、セミロングの髪先がコートの上で跳ねる。

「でもまあ、そういうのも必要なんだろうなぁ」

 同じ曲であっても、描く理想像が違えば全く異なる音楽が出来上がる。異なるイメージをすり合わせて破綻しないようにするのが練習だと言えるのかもしれないが、そのためには衝突を避けて通ることはできない。音楽的にも、そして人間同士も。そう理解してはいるものの、亮太には簡単に割り切れなかった。それに加え、双子の弟は熱くなりすぎて周りが見えなくなることが多く、常に渦中の人だ。何もかも思い通りにしたがる姿には、正直辟易もするし腹も立つ。

 ただ、そのことを夏海に伝えるのは憚られた。元恋人の悪口を聞かされるのは決して気分の良いものではないだろう。亮太は夏海から視線を外して窓外の景色を眺めようとしたが、曇った窓にはぼんやりと自分の顔が映るだけだった。

 煌々と照らされたホームに電車が止まると、亮太の脇のドアからは冷気とともに一人の小柄な女性が入ってきた。周囲を見回すと、ちょうど残業を終えた社会人の帰宅ラッシュ時ということもあり、座席は全て埋まっている。亮太は床に置いたリュックサックを持って立つと、自分の祖母と同じくらいの年齢のその女性に声をかけた。

「あのー、よかったらどうぞ」

女性は突然立ち上がった亮太の顔を見ると、一瞬あっけにとられた後に相好を崩した。

「いいのよ、わざわざ」

「いえ、もう次の駅で降りますし」

女性が笑顔でゆっくりと腰かけたのと同時に、夏海は気まずそうに席を立とうとする。亮太は「清水さんは座ってなよ」と、つり革を掴んでいない左手で夏海を制した。




「そんなに感謝されるほどのことじゃないと思うんだけどなあ」

 亮太たちが降車する際、席を譲った女性に恐縮するほど礼を言われたのだった。亮太は改札口へと降りるエスカレーターの右側の手すりに体重をかけながら、夏海に同意を求めようと後ろを振り返る。

「……清水さん?」

 普段ならばにこやかな夏海は俯いており、髪の毛の隙間からうかがえる表情からは何も読み取れなかった。

「ごめん、俺何か気に障るようなこと言った?」

「亮太君が優しすぎるから」

「……え?」

エスカレーターを降りて進もうとすると、改札口の前で夏海に手を引っ張られる。

「譲らないでほしかった」

 唐突な夏海の言葉に面食らい思わず聞き返す。ただならぬ雰囲気に、行き交うサラリーマンたちがさりげなく、でも訝しげにこちらを見ているのを感じた。

「えっと……さっきのおばあさん?」

「そうじゃなくて」

 夏海はいらだったように首を振る。苛立ちを振り落として夏海が顔を上げたときには、寂寥感の漂う晴れやかな面持ちだった。

「ううん、何でもない。うぬぼれだったのかもしれないし、今さらだから」

「じゃあね」と改札を通り抜け遠ざかる夏海の背中を、亮太は呆けて見送ることしかできなかった。

 ——ああ、そうか。本当に今さらだ。今になってようやくわかるようになるなんて。

 去年の七月、とある晩のことだった。受験勉強はそっちのけで、中学最後のコンクールに向けて毎日練習をしていた頃だ。

「俺、清水のこと、好きだ」

突如として二階建てベッドの上側から降ってきた圭太の声に、下のベッドでまどろんでいた亮太の意識は覚醒する。なんの脈絡もなかった突然の告白が頭の中をぐるぐると回り、亮太は「へえ」と返すのがやっとだった。

「へえって、それ以外何かないのかよ」

「いや、知ってた」

 実際、部内では圭太が夏海のことを好いているのでは、という噂がまことしやかにささやかれていた。花が咲いたように笑う夏海は控えめに言っても眩しかったし、合奏の休憩中なども圭太はやたらと隣席の夏海に話しかけているようだった。

「コンクール終わったら告るわ」

「……へえ」

 あのとき、ベッドの床板を眺めながら何も感じなかったわけではない。圭太に告白されたことを夏海に相談されたときもそうだった。胸のわだかまりを感じていたはずなのに、最終的には圭太を推すような助言をしてしまった。

 夏海の言った通り、これはのことだ。「今、夏海が好きか」と誰かに尋ねられたとしても、否と答えるだろう。分かれた道がまた交わることはあるかもしれないが、少なくともそれは今ではなかった。ただ、彼女の存在は亮太の後悔として胸に残り続ける。

「俺は優しいんじゃなくて、何もできなかっただけだよ」

 そう口に出してみたところで、すでに遠ざかった夏海の耳には入っていないだろう。行き場を失った言葉は寒風に吹かれてかき消えた。

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