第13話 甘みは苦み

「ストップ、ストップ」桑島先生の指揮が止まり、音が止む。


 楽譜が配られてからというもの、コンクールの曲の練習が本格的に始まっていた。私も新品の楽器を吹きこなすべく、苦戦していた。音色は格段によくなり響きも増したが、その分間違えるととても目立つ。正しい音程で鳴るポイントは楽器ごとに微妙に異なるため、まだ手探りの部分も多かった。

 開け放たれた窓の外からは、運動部の元気な声が聞こえている。少しむわっとした空気が肌にまとわりつき、衣替えの時期が近づいていることを感じる。


「Aから、フルートとクラリネットだけで」

「はい」


 楽譜には実験番号が振られており、それをもとに練習を進めることが多い。

 合ってない。きれいにハモるはずのところで音が濁っていた。数小節進んだところでまた指揮棒が止まる。指揮者用のフルスコアを眺めながら桑島先生は少し考えているようだったが、すぐに私たちの方に向き直った。


「Aからフルートだけで」


 集中して合わせようとするも、さっきより合っていなかった。ちらりと右側の1stファーストの方を見る。


2ndセカンドだけで」

「はい」


 瑞穂先輩、未来先輩、そして私の3人が楽器を構える。しっかりと息を吸い込み、鳴らすべきところで音を鳴らす。ぶれない、でも単調にならないように。


「分かれるところ、上吹いてるのは誰?」


 1つのパート内で音が分かれることもあり、その場合は予めど誰がちらを吹くか相談しておく必要がある。

 2つ右に座る瑞穂先輩がまっすぐに手を上げる。


「高山さんはもっと吹いて、夏川さんと水谷さんはそのままの音量で」

「はい」


 もう一度同じところを吹くと、桑島先生は頷いた。「うん、それでいい。じゃあ次、1stだけで」

「はい」


 陽菜先輩、千秋先輩、紗英が吹き始める。音程も、音色も、何もかも合っていなかった。紗英が背中を丸め、うつむいていた。


「もっと聞き合って。もう一度」

「力まないで、リラックスして」


 フラフラとする音からは、紗英の不安、焦燥が感じられた。合わせなきゃいけない、でも合わせようと力めば力むほど、理想から離れていく。

 その日、フルートパートの音が合うことはなかった。



 パート部屋で基礎練習をしていると、ちょいちょいと優奈先輩に手招きされる。廊下に出て後ろ手で扉を閉めると、木とガラスのきしむ音が鳴り、他の面々によるフルートの音が遠ざかる。


「最近、紗英ちゃん元気ないよね」

「そうですよね、練習は真面目にやってますけど」

「合奏とかでも萎縮しちゃって全然吹けないみたいで」

「完全に悪循環ですよね。紗英が鈴本先輩に個人的に怒られてるのを見た、って菜々子も言ってました」

「愛莉怖いからね……。紗英ちゃんがつらい思いしてるんじゃないかな、って思って、紗英ちゃんと話そうとしたんだけど」


 ふう、と優奈先輩は窓の外へ目をやる。


「やっぱり私が先輩だからかな、心開いてくれないみたい。大丈夫ですの一点張り。コンクールのメンバーはオーディションで決まるけど、彼女にはその先も来年もあるから、放っておいていいわけないと思うの」


 優奈先輩は申し訳なさそうな顔で私に視線を戻す。


「薫ちゃんももちろんオーディション受けるし、たいへんなのわかってるけど、よかったら紗英ちゃんと話してみてくれないかな。具体的に何かしろとまでは言わないから、せめて話を聞いてあげるだけでも違うと思う」


 本来私が何とかしないといけないのに、ごめんね、と優奈先輩は首を少し傾ける。

 私に選択肢は与えられていない。さて、どうするか。



 部活が終わった後、私と紗英はパンケーキを前に向かい合って座っていた。「ここのパンケーキ美味しいから」と半ば強引に駅前のパンケーキ屋さんに紗英を連れこんだのだった。財布が心もとないので、アイスのトッピングは我慢する。

 お互いの注文が終わると、水を飲みつつ口を開く。


「そのピン止め可愛いね、どこで買ったの?」


 小ぶりのピンが紗英の前髪についていた。あまり見たことがないので最近買ったものだろう。色合いといい、デザインといい、赤縁の眼鏡とよく合っていた。


「あ、えっと、たまにはこういうのもいいかなって」

「気分を変えたかったから買ったの?」


 紗英が顔を上げる。他人の内面に踏み込むのはあまり好きではない。でもたとえ迷惑と思われようと、今は進まねばならない。「最近、部活たいへんだよね、しんどくない?」

 紗英は何も答えなかった。私が何を言おうとしているのか気づいたのだろう。


「練習してもうまくいかないことってあるし」

「薫にはわからないよ」うめくように紗英がやっと口を開く。

「薫は上手いからわからないよ、私の気持ちなんて」

「上手いとか下手とか関係なく、そりゃわかんないよ、人の気持ちなんて」


 眼鏡の奥からにらむような視線を感じたが、胸の奥の痛みには気づかないふりをする。


「だって紗英、何も話してくれないし。優奈先輩も心配してたよ」


 グラスに入った水をストローで一口飲み、紗英の顔をまっすぐ見る。「何が不安なの?」

 しばらく沈黙が続いたが、観念したように紗英は話し始める。


「吹くのが怖い。全体の足を引っ張ってるのはわかってる。失敗するのが怖いの」


 一度話し始めると、堰を切ったように次から次へと言葉があふれ出る。


「私が足を引っ張ってるせいで、優奈先輩も怒られてた。先輩は何も悪くないのに。頑張らなきゃ、って思ってる。でも、やっぱり怖くて吹けないの」


 このまま思っていることを吐き出してもらった方がいいだろう。ストローで氷をかき回すと、カラリと涼やかな音が鳴る。


「ゴールデンウイークの前はそんなことなかったよね。コンクールの練習が始まって、鈴本先輩とかがより厳しくなってきたから?」

「それもあるけど、コンクールが近づくと中学の時のことを思い出すから」


 氷をかき回す手を止める。


「ごめん、聞かない方がよかったね」

「いいの。むしろ本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。……中学1年のときの部活はとってもゆるかった。私立だったし勉強重視だったから、部活を頑張るっていうより勉強の息抜きって感じ。でも、2年から変わった。学校の方針で部活にも少しずつ力を入れ始めたの。外部から指導の先生を呼んで、本格的にやり始めた。その前の年とのギャップもあったと思うけど、その人の指導は酷かった。悪魔みたいな人だった。弱小校を全国大会まで導いたとかで、指導力は確かにあったんだろうけど、罵詈雑言、人格否定のオンパレード。合奏もひたすら罵倒に耐える苦行みたいになった。下手なやつは死んじまえとか言われて、部活どころか学校に来られなくなった友達もいた。そこからは失敗するのが怖くて練習するようになった。失敗したくないから練習した。夏のコンクール前は地獄のようで、終わった瞬間、ほっとした。もう吹奏楽やらなくていいんだって。そこで気づいたの。いつの間にか楽しめなくなってたんだなって」


 紗英はさらに続ける。


「高校では外部に進学して、吹奏楽はやらないでおこうって思ってた。でも法吹の演奏を聞いて、今度こそ音楽を楽しめるかもしれない、って思って入ったの。でも、やっぱり、ダメみたい」

「……うん」

「フルートの先輩は優しいし、桑島先生も理不尽な怒り方はしない。でも、学指揮の先輩とかに怒られたり、自分のせいて合奏を止めちゃうと、やっぱりあの頃を思い出しちゃうの。部活辞めたらみんなにも迷惑かからないし、楽になれるかなって考えが頭をよぎることも多いの」

「そっか」


 気の利いたことの一つも言えない自分が情けなくなる。こんなに空しく響く相槌があるだろうか。頑張れ、と励ますことは簡単だ。でも、応援は逆に人を追い詰めることにもなる。


「辞めようかな、部活」


 後から来たパンケーキはいつもより甘たるく感じた。すでにぬるくなった水を口に含むも、胸のむかつきはおさまりそうになかった。

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