14.「僕等と一緒にバンドをやろうよ」

 ブー。

 トモミはヘッドフォンを外し、手にしていたベースを置いた。できるだけそっと。これは先輩のベースだから。

 そして立ち上がる。ブザーだ。もしかしたら先輩かもしれない。彼女は玄関へ向かう。

 のぞき窓から見る。違う。でも見覚えのあるひと達だから、扉を開ける。


「こんにちはトモミちゃん」

「こんにちはナナさん、奈崎さん、能勢さん、伊沢さん」


 ずらずら、と戸口に並んだ人々の名前を彼女は口にする。先輩ではないひとたち。ナナ以外はベルファのメンバー。だけどベーシストだけ居ない。変だなあ。でもいいや。

 彼女は一瞬のうちにそう判断し、そこで出すべき言葉を自分の中の「マニュアル」の中から探した。


「わざわざ皆さんすみません。せっかくですから、お茶でも如何ですか」


 すらすら、と「マニュアル」通りの言葉が彼女の口から流れ出す。ナナはやや目を細めながらうなづき、他の男達三人を促した。

 何度来ても、生活感のせの字も無い部屋だ、とナナは思う。何しろ「何も無い」のだ。

 生活臭のあるものは全て、クローゼットの中にしまわれている。テーブルは作りつけ。広い居間に現在あるのは、ベースとアンプ、それにコンポくらいのものだった。

 ナナはそんな居間をちら、と見ると、勝手知ったるとばかりにキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。「お茶でも」と言いつつ、トモミがキッチンへと向かう気配は無い。ナナに向かって「自分がする」という声も無い。居間の真ん中で、再びぺたんと座っているばかりだ。おそらく朝からその状態だったのだろう。床には毛布も転がっていた。

 もしかしたら、「マニュアル」にも従えなくなっているのかもしれない。ナナは思わず眉と口を歪め、キッチンから問いかけた。


「トモミちゃん、朝ご飯食べた?」

「いつの?」

「今日の」

「今日は食べてない」

「昨日の夕ご飯は?」


 答えない。彼女は男達はちら、と視線を交わす。男達はうん、とうなづき、トモミにゆっくりと近づく。


「あのさ、トモちゃん、俺達とごはん食べに行かないか?」


 能勢は明るく、それでも穏やかな声で問いかけた。


「すぐにしなくちゃならないこと、ある?」

「それは、無いです」

「じゃあ問題はない。行こうよ。安くて美味しい店があるんだ」

「でも」

「おまけに結構そこ、静かだし」


 奈崎が付け加える。静か、とトモミはつぶやいた。


「父はそういうところ選んでくれたけど」

「お父さんが?」

「ああ、お父さんも亡くなってるんだっけ」


 ふと伊沢がそうつぶやいた。


「父も」


 トモミはそう繰り返す。


「父が死んでもう居ないのは確かですけど、父も、ってのはどういう意味ですか?」

「トモちゃん」


 奈崎は彼女の斜め前にかがみ込んだ。視線を直接合わせず、穏やかな口調で。予告無しに触れるのは問題外。それが以前彼が倉瀬から聞いた「注意事項」だった。


 だけど倉瀬君。


 奈崎は内心つぶやく。君が居た頃ならともかく、誰も彼も、それを守ってくれる訳じゃあないよ。


「ねえトモちゃん、毎日、食事も摂らずに、誰を待ってるの?」

「クラセを」


 不思議そうな顔で、彼女は奈崎をふらりと見た。その瞬間を奈崎は逃さなかった。


「ねえトモちゃん、クラセ君はもう、帰って来ないよ」

「帰って来ない? 奈崎さんはワタシに嘘をついている?」

「ついていない」


 きっぱりと彼は言った。


「だってクラセが死んだとは聞いたけど、誰も帰って来ないなんて言ってないし。だから帰ってくる」

「いいや」


 奈崎は大きく首を横に振った。


「僕は君に嘘は言わない。クラセは、君の先輩は、死んだ。死んで、もう帰って来ない。そのベースを残して、この部屋から、この世界から、行ってしまった。もう決して、帰って来ないんだ」

「嘘」

「嘘はつかない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」


 彼女は耳を押さえ、目をつぶり、がたがたと震えだした。

 奈崎はその頭をぽんぽん、と軽く――― 本当に軽く、叩き始めた。一定のリズム、一定の強さ。

 そこにハミングが加わる。能勢の声だった。それは低く、穏やかなものだった。

 彼女はほんの少し、顔を上げた。耳に当てた手を、少しだけずらした。


「奈崎さん、先輩と同じことする……」

「そう?」


 手は止まらない。そっと、そっと。


「能勢さん、……それ先輩の、うた……」


 うなづきながら、しかしハミングも止まらない。俺はどうしたらいいかなあ、という顔で、伊沢は苦笑し、奈崎とは逆の場所にそっと腰を下ろした。


「先輩には…… もう会えないってことなの?」

「そう」


 ぽんぽん。


「もう会えない、んだ……」

「そう」


 口調は変わらない。平板なままだった。それでもそこに居た皆が、その言葉の微妙な変化をくみ取った。

 ハミングを止められない能勢の代わりに、伊沢が口を開いた。


「なあ俺達と食事しに行こう、トモちゃん」

「食事…… 伊沢さんと、奈崎さんと、能勢さんと、ナナさんと」

「そうよ」


 ナナはトレイに人数分の「お茶」を用意していた。


「これを呑んで、少し元気を出したら、みんなで行きましょ」

「そして、お腹が膨れたら、僕等と一緒に――― バンドをやろうよ」


 葬儀の日、能勢と伊沢を召集したリーダーは、現在のベーシストをクビにし、代わりにトモミを入れることを提案した。


「でもメジャーへの道は遠のいたねえ?」


 能勢はその時苦笑した。奈崎はかもね、と昔なじみと同じ表情を浮かべた。


「でも、僕はそうしたいんだ」


 だね、と二人はうなづいた。彼等にとって、メジャー行きは重要なことではない。

 居場所は自分達が決める。人に決められるものではない、と。

 そしてトモミはその日からベルファのベーシストとなった。


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