9.「BELL-FIRST」
「いいですね、そういう誘いがたくさんあるひとは」
普段の彼なら、まずこんな言葉は言わない。彼は言葉に人一倍気を付ける人間だった。
だがこの時は違った。彼は珍しく、酔っていたのだ。ちょうどライヴの曲間だったのがいけなかった。客の視線が彼等に集まった。
「……別にたくさんある訳じゃないよ?」
「BELL-FIRST」というバンドのギタリスト兼リーダー・奈崎は、穏やかな声で答えた。
「ベルファ」と略されて呼ばれることの多いこのバンドは、当時、テクニックと曲の良さにに定評があり、倉瀬を初めとした常連バンドプレイヤーにとって、ある種の尊敬の対象でもあった。
メジャーからの誘いも幾つかあった。この日も、奈崎はその一つと、先程まで交渉していたのだ。そして断っていた。これで三社目だ、と何処かで声がした。羨ましい、と倉瀬はそれを見て、心から思った。
彼にとってこの時期は最悪と言っても良かった。上京して二年後。彼のバンドは最悪の時期を迎えていた。ヴォーカリストが家庭の事情で抜けたのだ。
「家庭の事情」に彼等は弱い。もともと「家庭」を捨てて来た者の場合、特にそうだ。
そしてそういう者に限って、どうにもならない壁にぶつかった時に、見計らった様に、故郷で事件が起こったりする。
「好きなことを好きな様にしている」というのは、案外彼等の奥で罪の意識となっている。倉瀬も心当たりが無い訳ではないから、「家庭の事情」で去る仲間を無理に止めることはできなかった。
しかしバンドの顔であるヴォーカリストを切るのは苦しかった。またメジャーへの道が遠のいたのだ。
だからつい「まだ自分達には早いから」という言葉でレコード会社の人間と別れたベルファのリーダーに向かって、言わなくてもいい嫌味を言ってしまった。
「ホント、たくさんある訳じゃあないさ」
奈崎は言った。冷静だった。だがその冷静さが、その時の倉瀬には苛立たしかった。
なのに。
「まあ聞いて」
奈崎は倉瀬を横に座らせ、穏やかな口調で説得を始めた。この時彼が倉瀬に言ったのは、音楽とビジネスとの兼ね合いのことだった。
「急いては事をし損ずる、と言うだろう? 僕等の場所は、僕等が決める」
奈崎は歳の頃は倉瀬より七、八歳上だったろうか。言葉少なに、だが真摯に彼に向かい、現在の自分達の状況を話してくれた。
内容はともかくその態度に、彼の酔いはすっと醒めていった。そしていつの間にか、現在の自分の状況のことを相談までしていた。
「うーん、それは確かに難しいね」
そして奈崎はやはり真面目に受け止めた。
「うちもずっと、ベースだけが交替交替だったからね。……実はね、今も怪しいんだよ」
奈崎はこそっ、と声を潜めた。
「仕方ないわよ。あんたとノセが仲良すぎるんだから」
彼等が座っていたカウンターの女性は、そこで初めて口を挟んだ。
「おや、ナナさんや、妬く?」
「は、誰が。ねー」
この人がナナさん。彼はまじまじとその女性を見た。彼等が根城にしているライヴハウス「ACID-JAM」のスタッフ。ベルファのヴォーカリスト・能勢の恋人。そして出演常連バンドマン達の「憧れの姉貴分」。
彼女は話を引き継いだ。ベルファは元々、奈崎が能勢と中学時代に、遊び仲間から発展させたバンドなのだと。ベーシストとドラマーはその後に加入。ドラマーは定着したのだが、何故かベーシストはそうならない、と。
「ところでクラセ君、この子にはオレンジジュースでいい?」
と、その時ナナはあら、という表情をした。トモミはその視線に、抑揚の無い声で答えた。
「……刺激が強いから」
あ、と慌てて倉瀬は後ろを向き、慌ててサングラスのせいで上がっていたトモミの髪を耳から下ろした。
―――彼女は耳栓をしていたのだ。
ふうん、とナナは不思議そうにトモミを見た。トモミは黙ってオレンジジュースをすすった。倉瀬は酔いが一気にふっ飛んだ。
ちなみにトモミもその頃ベースをやっていた。腕は彼に匹敵していたと言ってもいい。いや、下手すると正確さに関しては、彼より上だった。だがそれだけだった。彼女の音楽活動は、部屋の中だけに留まった。
何しろ彼女は、ライヴハウス特有のあの喧噪が全く駄目だった。アンプで増幅された音の塊となるともうお手上げだった。
それで何故こんな楽器をするのか、と言いたくなりそうだが、彼女は音楽自体は好きだった。問題は音や振動のバランスらしい。
ブラスバンドの時はかなりの音響でも大丈夫だった。嫌いだ、と言っていた高音部、ソプラノ・サックスやピッコロの音も、合奏状態になってしまえば大丈夫だった。
だがロックバンドは。
「曲は好き。でもここじゃ聴けない」
CDは良く買い込んでいた。そしてオーディオのイコライザーを自分好みに動かして、一番いいバランスを見付けては、繰り返し繰り返し気に入った曲を聴いていた。時には一曲を延々一日掛けていることもあった。
しかしライヴとなるとそうもいかない。彼女は好きになったバンドのライヴでも、二曲くらいでリタイヤすることが殆どだった。
理由は大きく分けて三つ。
一つは音。そして光。最後に人混みだった。どれもライヴハウスには当然な物である。いや、醍醐味と言ってもいい。
だが相変わらず人に予告無しに触れられることを厭う彼女には、暗闇の中、自分を押しのけていく同世代の少女のエネルギーそのものが、既に凶器だった。
ロックには時々ありがちな、「バランスを崩す程の音」。そもそも安定を求めた音楽では無いのだから、当然と言えば当然だ。
そして光。刺激的に点滅する色色色。この予告無しの刺激もやはり彼女には毒だった。
だけど「生音が聴きたい」と彼女は主張した。彼は困った。非常に困った。苦肉の策として、耳栓とサングラスが登場した。
「おいおい、暗闇でサングラス、かよ!」
彼女を知っているバンドのメンバーはそれを見て、呆れた様に言った。実際、倉瀬も半ばやけだった。
だがそれはかなり有効だった。耳栓とサングラスは、まず彼女に「刺激が強いところに行くんだ」という無意識の予告となった。
だがつい、サングラスをすると、ついでに髪を耳にかき上げてしまうこともあった。頬に髪があたると、それだけでたまらないかゆみや熱を感じてしまう、というのだ。
それでも。倉瀬はまずいところを見せてしまった、と思った。
ライヴハウスにはまず、刺激を求めて来る者が殆どだろう。なのに「刺激が強いから」とその場で与えられる音や光を半ば否定する様な言動を取るのは。
「……しまったなあ」
と彼は帰り道、何度もつぶやいた。せっかくベルファのメンバーとも仲良くなれた様な気がしたのに。
「クラセ、足が遅い」
真っ直ぐ歩いて行くトモミに彼は、はいはい、と重い足をひきずって行ったものだった。
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