第72話「また、この告白から始めよう」
◆凪宮 晴斗◆
「私と……別れて、欲しい」
一瞬、脳内がフリーズした。
全ての内部データが損傷を起こし、様々な記憶がデリートした形跡があった。
何を言われたのか、瞬時に悟ることが出来ず、これが『現実』なのか、はたまた『幻』なのか……その見極めすら困難な状況に陥っていた。
けれど、この耳で聞き入れてしまった『事実』が覆ることなんて、在りはしなかった。
こいつは確かに言ったのだ。――別れて欲しい、と。
決して言うはずのなかった言葉を、決して言うことがないと確信していた
「……何だよ。それ。どういうことだよ……! 何でいきなりそんな――」
「いきなりじゃないよ。……晴斗だったら、知ってるでしょ? 私は、こういうときには嘘をつかないってこと」
「……っ!!」
否定させようと、冗談だと言わせたかった。
しかし、彼女の目に溜まった暗闇によって灰色めいた雫に、僕は一瞬にして現実を突きつけられた感覚が襲う。
そして同時に、思い知らされる。
一之瀬渚――誰しもが認める容姿端麗・頭脳明晰の“学園一の美少女”は、僕相手には嘘をつかないということを。冗談でも、こんなことを言わない人間だということを。
こいつは決して嘘を吐かない。
そんな固定概念が、益々彼女の言葉を確率化させていく。
誰よりも知っている。完璧美少女の背景を、彼女の素顔を。彼女が僕に向けてくる言葉の意味を。だってそうだろう? 僕達は――幼馴染なんだから。
「……本気、なのか?」
「……うん。本気」
「さっき、お前が言ってた如月さんのことと、何か関係があるのか」
「そう、だね……。あると言えばある、無いと言えば無いかな。……ねぇ、晴斗。私、ずっと晴斗のこと、騙してきたんだ」
「…………はっ?」
混乱する処理脳に追い打ちをかけるよう、渚はそんなことを言ってきた。
「……1ヵ月前、晴斗に私の気持ちを伝えたのは、本当の私じゃないんだ。いや、そうじゃないか。私だったことはそう。けど、伝えた言葉に『想い』なんて、多分1ミリも無かった。あの頃の私達って、今よりも周りに気を遣ってて、お互いに干渉しないように過ごしてたじゃない? ……でも、見ちゃったんだ。晴斗が、知らない女子から、告白されてたところ」
「……あれ、見てたのか」
「さすがに全部じゃないけどね。……だけど、それと同時に思っちゃったんだ。あぁ、このままじゃまずい、取られちゃうって。視線が常に付き纏うような生き方をしてきた私の環境は、あの頃から修復不可能だった。でもね、それでもいいと思ってた。晴斗のヘイトが向かないなら……って。――でも! 晴斗は……それでも、カッコいいから。一部の人間には、わかっちゃうんだよ。普段は捻くれてても、素直じゃなくても……優しいってこと」
渚の瞳から、一滴、二摘と涙が零れ出る。
吐き出された彼女の言葉は、突き刺さるほど胸が苦しくなる。
だが、それでも僕は聞き続けた。逸らしたら、二の舞になってしまうから。あのときの『覚悟』を、証明出来なくなってしまうから。
「……それが嫌だった。誰かが晴斗に意識を向けることも……。晴斗を、誰かに取られることも。だから、告白したの。『嫌だ』って、『捕まえておきたい』って。……ははっ。ね? 随分身勝手でしょ……? 全部、あの言葉全部――ただのエゴなの! 晴斗みたいに、真っ直ぐな気持ちじゃないの!!」
溜まっていく涙、溢れ出た涙。
この手で拭いたい――そんな気持ちを抑えて、僕は即座に手を引っ込める。
手を伸ばすのは、ここじゃない。人の気持ちほど、怖くて、恐ろしくて、わからないものはない。だからこそ、僕は手を差し出さない。彼女の気持ちを知りたいから。ここで手を伸ばせば、この気持ちの行く先はきっと『同情』だ。
「……最初は、断れるってわかってたから何とかなってたけど。晴斗、真剣に返事してきちゃったから。嬉しくて……嬉しいはずなのに、真っ直ぐな晴斗と違って、私は全然違うだって意識し出したら、罪悪感が出てきて……。真っ直ぐな気持ちじゃない、歪んだ感情と焦燥感に塗れた心情なんだって思ったら……余計、辛くなってきてっ。向き合ってくれてる晴斗とは違って、私はただ……逃げてるだけだから」
「……それで、別れたいって言い出したのか?」
「……それだけじゃないよ。言ったでしょ? 如月さんと居るときの方が、楽しそうに見えたって。多分、焦りなんだと思う。こんな歪んだ『
唇が震えている。我慢している証拠だ。
今にも泣き叫びそうな声量で、僕から逃げようとせずに話し続ける。
あぁ、そうだな。
周りと関わることが苦手な僕にとって、人間という生命体と深く結ばれることなんて在り得ない話なんだろうし、彼女がそう思ったなら、そうするべきなんだろうな。
そう――そう思っているなら、な。
「……だったら、告白し直せばいいだろ?」
「えっ……?」
僕の言葉を予想もしていなかったのか、渚はゆっくりと顔を上げる。
「……本当、バカだよな」
「ちょ……! 人が真剣になって話してるのにそれは――」
「あぁ。本当、バカだ……」
「……晴斗?」
「お前の言葉も真意も、そして決意もよくわかった。でもそれ以上に、渚をここまで追い込んでたことに気づかなかった自分がよくわかった。……何で、言ってくれなかったんだよ。告白してきたタイミングも、今思えば『そういうことか』って納得出来るけど、出来ることならあの頃のお前と僕に頭突きかましてやりたい」
「そ、それはさすがに、痛いと思うんだけど……」
「それぐらい、自分が許せないんだっ。お前のことに気づけなかった自分が! こんなになってまで押し留めるまで気づけなくて……ごめん。お前のこと、本当は全然わかれてないんだ。知らないことだって、たくさんある。……渚。身勝手なのも独占欲なのも、お前だけじゃない。僕だってそうだ。告白をしたのだって、幼馴染でいられなくなったからだし。お前が中学のときの女子に嫉妬してくれたみたいに、僕だって独占欲は湧くんだ」
僕はそっと、彼女の背中に手を回す。
お互いの体温が感じられ、心臓の鼓動が聞こえてくる。
無意識の内にやったことでも一種の過ちでもない。これは――僕の『独占欲』だ。
「え、え、っと……!? は、は、はる、と……!! な、何急に――」
「………………」
渚は動揺のあまりに離れようともがき続けるが、僕は離すことはしなかった。
ダメなのだ、結局は。
あの頃のことばかりを引き摺って、ずっと渚にばかり苦しい思いをさせて。こんなのじゃ、彼氏どころか幼馴染すら失格だ。没落だ。
だから渚も、僕から離れようとしていたのかもしれない。
僕が如月さんと居ると楽そう、なんてことを言ってたし。……本当に僕達は、臆病者だ。
だったら、今度はちゃんと――彼女の意志を聞きたい。
「……僕の側を離れないでくれ。誰にも素顔を見せないでくれっ。誰にも触らないでくれ! 誰にも触れさせないでくれっ!! ……これは、あのときのお前の感情と、どんな違いがある? あれが渚自身の『本心』なのだとしたら、僕にとっては十分な告白だ。こんなに醜い感情が、僕の告白には含まれてるんだぞ。なら、渚のは違うのか?」
「…………何も、ちがわなっ」
僕の肩に何か熱いものが流れ落ちる。
だがその正体を、わざわざ確認する必要なんかない。
人の感情ほど見えなくて、恐ろしいものはない。――だが、感情という1つの『精神』を表すこの涙に、どれだけの布を被せようとも隠すことは出来ないだろう。
これが……渚の、溜め込んだ『想い』なのなら、尚更だ。
「……それにだ。僕は、お前と幼馴染以上になって後悔したことなんて一度も無い。たった1ヵ月の関係だけど、僕はこの関係を終わらせるつもりは
「……だ。……嫌だ。嫌だよ!! 私以外が晴斗のことを好きになるのも、私以外が晴斗の隣に居ることも!! ほんとは……本当は、ぃやだ……! でも、これは私自身のエゴで、もし晴斗はそうじゃなかったらって考えたら……泣くの、止まらなくて。隣に……居たい。誰かに否定されても、誰かに似合わないって言われても! ずっと……隣に居たいっ!!」
「……大丈夫。僕も、同じだから」
昔からずっと、生まれたときから、出会ったときから。
僕の隣には、ずっと一之瀬渚という存在がいた。
他の誰でも埋められない。わがままも、喧嘩も、笑いも、慰めも、喜びも……全部。全部、渚でないと埋められない。幼馴染なのだから、恋人なのだから――。
「それと、水族館でお前に告白をしたとき、1つ心に決めたことがあるんだ。あのときのトラウマを、一緒に乗り越えていこうって。いつまでも、過去にしがみつくわけにはいかないからさ。……こんな覚悟を持てたのも、全部、あの告白から始まってるんだ。多分、お前の後悔ってやつもそこから始まってるんだと思う。だから――また、その告白から始めたい」
あのとき、お前が『
あのときのことを、乗り越えたいと思えたんだ。
暗闇の中はどこまでも闇が続くし、手を伸ばしても届かないことだって、きっとこの先いくらでもある。でも、一人が無理なら、一緒に進んでいこう。
もし、渚があの告白を『後悔』として始めているなら。
僕もあの告白を『後悔』として始めることとしよう。
そして――また、この告白から始めよう。
「――私、晴斗のことが好きです」
「――僕は、渚のことが好きだ」
この言葉から、僕達はまた恋人となった。
……なぁ、知ってるか?
あのとき、お前が告白に乗せた気持ちが『独占欲』なのだと知って、僕がどう思ったのか。
後どれだけ「好き」と言えば、あの
僕のこの独占欲は、いつお前の独占欲を越えられるんだろう。
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