青空とレモネード

おぼろづきよ

1/20 青空1

    このせまい場所をそっと歩いて下さい

    豊饒な広い土地も

    このエメラルドの光が囲む

    この胸ほど広くはない

        ――エミリー・ディキンスン



*青空1


 それは、空から1個のレモンが落ちてきたようなものだった。僕はそれをつかんで手のひらの上に乗せる。でも、皮を剝くことは出来ない。ただ、手のひらの上の1個のレモンを見つめていることしか出来なかった。そして、そして……


     * * *


 僕たちの青春はそんなふうに過ぎていった。「そんなふうに」なんて書けば、読み手の誰もが戸惑ってしまうだろう。「そんなふうに」とは何だろう。それに、この手記を書いても読むのはきっと君だけだろう。君は僕の言葉をどう受け止めるだろうか。


 僕たちの過ごした時間を、「どんなふうに」と言うことは出来ない。僕は比喩が苦手だからだ。ただ、あったことをそうだったと書くことしか出来ない。文章を書く才能は、僕にはないだろう。これは不幸なこともでもあり、幸福なことでもあるだろうと思っている。


 僕が初めて君に会ったのは、平瀬川の河原でのことだった。君は土手に座って絵を描いていた。そのかたわらには、画材やらイーゼルやらが転がっていた。君はキャンバスを直接スカートの上に乗せて、その上に青や白の絵の具を乗せていった。


 僕は君のことが気になった、と書けば、それは本当でもあり嘘でもあるだろう。僕はその日は徹夜明けで、そのことが僕を寛大な気持ちにも大胆な気持ちにもさせていた。僕はふと君のことを目にとめた……それが「事実」だ。


 事実以外のことを書くのは難しい。僕は決して君に恋をしたわけではなかったし、それが僕たちの関係を「そんなふうに」と書かなくてはいけない理由でもある。ただ、しばらくの間僕は君の後ろに立って、君の描く絵を見つめていた。


 君の描く絵は変わっていた。そこには、空しか描かれていなかったのだ。


(空だけの絵?)


 と僕は思う。


(いやいや、まだ未完成なんだ)


 と僕は思い直した。しかし、実際には最初の勘のほうが当たっていた。君の描くキャンバスの下の部分は、布地が着色もされずにそのまま残されていた。後で知ったことだが、君はそんな絵ばかりを描いていたのだった。


 徹夜明けということもあり、疲れていた僕は君から2メートルくらい離れた場所に座りこんだ。そしてやがて、土手を枕にしてうたた寝をしていた。数分か十数分、くらいは眠ったのだろうか。


「ああ、もう。やってられない!」


 と、君は突然声を出した。僕は驚いて目を覚ます。何が起こったのか、誰に話しかけたのか、呆けた頭の中では即座に理解出来なかった。でも、それはどうやら僕を意識して発した言葉らしい、ということにはすぐに気がついた。


「邪魔しちゃった?」と、僕は君に声をかけた。


「違うの。集中出来ないのよ」――「空が青すぎて」


(意外なことを言う子だな)


 というのが僕の感想だった。君の言葉は、「太陽がまぶしすぎて殺人を犯した」と言った、ある小説の主人公のように唐突で理不尽なもののように思えた。「青空を描いているのなら、空が青すぎて困ることはないじゃないか」と、僕は思う。そして、


「空の絵を描いているんだろう?」


「そうよ。空の絵を描いているの」


「じゃあ、空が青かったら良いじゃないか」と、僕。


 君は僕の放った言葉に、なんだかあっけにとられたようだった。もちろん、それはそうだ。空を描いているのに、空が青くて具合が悪いはずがない。君が言ったのは、そういう意味ではなかったはずだ。いや、そういう心理からではなかったはずだ。君は何かの言い訳を求めたかったのだ。


 僕は君に近づいていって、その隣に座った。もちろん、普段はそんなことはしない。徹夜明けの大胆さが、僕にそうさせたことだ。それでも、君は僕を不快に思うような素振りは見せなかった。それだけ絵に集中していたのだろう。

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