第2話「理」

 朱有が目覚めた時には、何もかもが終わっていた。

 

 訪ねてきた隣家の者が惨劇に気づき、役所に届け出た。家中の調べが行われ、葬儀が行われ、全ては土に葬られた。

 

 床台ベッドを出て、朱有は家中を歩いた。

 春の日差しが惜しみなく注がれている。漂う塵がきらめきを放っている。


 なのに――この日差しに似つかわしくいつも賑わっていたこの家に、今あるのは耳が痛くなるほどの静寂だけ。

 変わらない日常を探し求めるように、朱有はひたすら歩いた。


 そして――足を止めた。


 日の届かない湿った土間が、黒ずんで見えた。染みのようにみえたそれが、徐々に盛り上がり、何かを形作った。


 あそこには確か、叔父夫婦がいた。怒りと無念と恐怖で捻じ曲がった顔が、こちらを見ていた。


 ――見ている! 


 慌てて目を逸らすと、矩形に切り取られた明るさがあった。中庭に続く入口だった。光を恋い求める蛾のように、朱有はふらふらとそちらへ足を向ける。 


 眩しさに、瞬きを繰り返すこと数度。

 明るさに慣れた目に見えたのは、太陽に白々と照らし出された砂地に色濃い影を落とすくさむら


 わだかまる影は、猫の形だった。


 朱有は思わずそこにしゃがみこみ、固く目を閉じた。

 だけど目の奥に広がる赤黒い景色はどうしても消えず、耳の奥がわんわんと鳴り続ける。

 両手できつく押さえているはずなのに、腐臭は鼻からも口からも満ちてくる。吐き気がする。


 もうこの家に、安らぐ場所はない。どこにも。

 だけど他に行くところなんか……。


                 ◆


 同居の一族が難に遭う中、ただ一人生き延びた朱有に疑いの目が向けられたのは、当然のことといえた。

 しかし朱有に追及の手が伸びる間もなく、嫌疑は晴れた。


 父や継母が「使いに行かせている」と周囲に言い広めていたこと。

 使い先での証言が取れたこと。

 何より、犯人があっさりと捕まったからだ。


 犯人は、税が納められずに故郷を出奔した、いわゆる無戸籍の者だった。

 まともな生活を送れない彼らが行く末にきっちり辿りついたらしく、盗みや殺しはどうということはない、という荒んだ雰囲気を身にまとった男は、驚くべき事実を供述した。


「使いに出した息子を、事故に見せかけて殺して欲しいと頼まれたが、ケチな報酬で済まそうとしやがるから、だったら全ていただいちまおうと思った」


 その言葉を脳裏で反芻し、どうにか男の言葉を理解した朱有に、役人は、「気の毒なことだが助かってよかったな。お天道様はやはり見ているのだ」と口ごもりながら言うと、忙しげに背を向けた。

 役所を出て、どこをどう歩いたのか分からぬまま、ゆるやかに傾斜する路を登っていくと、誰一人いないはずの家がやけに騒がしい。


 朱有を迎えたのは、 伯父とその息子たちだった。

 もともとはこの家で生活を共にしていた彼らだったが、父と、去年亡くなった祖父が何度戒めても伯父は田に出てこず酒と博打と色に浸り、息子たちはあちらこちらで喧嘩と盗みばかりの日々を改めなかったため、二年前に追い出されたのだった。

 村外れに居を構えた彼らはいっそう悪名を高め、ために付き合いは皆無だった。だから彼らを認識するのに、しばしの時間を要した。

 三人は、口をくちゃくちゃと鳴らしながら、門前に立つ朱有を品定めするように無遠慮に眺め渡した。

 酒とそれ以外の異臭を放つ彼らは、どこかの破落戸ごろつきにしか見えない。兄のほうは同い年だが、さらに細くなった目には情が感じられず、三つ下の弟は確か志学のはずだが、口元に嘲笑を浮かべながら体を揺らす様に、昔の無邪気な名残はどこにも見いだせなかった。

 息子二人の前に立った伯父は、妻を寝取られた男につけられたという右頬の傷をひきつらせて笑い、朱有に一枚の紙を突き出してきた。


「ほれこの通り。わしらはお前の親父に金を貸していたんだ。金はもうないから、この家と田畑で勘弁してやる」


 どうにか読める字で書かれた借用書には父の名と父の印が押されていた。字は明らかに他人のものだが、印は本物だった。勝手知ったるかつての家である。自分が卒倒している間に、彼らが家捜ししたのは明らかだった。


 訴え出れば、恐らく筋は正せるだろう。だがこれまでの毎日が悉く崩されたうえ、更に突きつけられた無情は、朱有から抗議や問い掛けの声さえ奪っていた。これ以上、ここに立っている以上の気力は彼には残っていなかったのだ。


 事実、伯父親子は思っていたのだ。人がいいだけがとりえの世間知らずのお坊ちゃんには、どうせ何もできやしないと。


 彼らの真意を見た朱有は、絶望的な気持ちに陥っていた。

 何も言わぬ朱有の目の前で、門は閉ざされた。家の中から漏れ聞こえる笑い声は、村の長である父を慕っていたはずの村人たちのものだった。


「へえ、そうなんだ」思わず掠れた声が出た。


「おまえがどうなろうと知ったことではない」

「気の毒だとは思うが、自分のせいではない」


 口に出されたわけでも、文字で書かれたわけでもない。だが、言外にはっきり示されたその言葉は、確実に心身に沁み込んでいく。


 もはや自分の存在を認めるものは、この世のどこにもいないのだ。

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