第十二話 篝火Ⅱ

 闇夜がより一層深まり、星々が余すことなく世界に輝きを届ける頃。

 悠月は魔女が邸宅に誂えた二階のベランダから一人、物憂げな表情を浮かべて夜風に吹かれていた。

 手には携帯電話が握られ、眩しいくらいに灯るディスプレイには着信や通知を知らせるアイコンが数十件と記録されている。差出人は確認するまでもなく友人たちであった。

「……」

 悠月は目を細めて当惑の面持ちで画面を見つめる。

 彼らが何を自分に伝えたいかなど、考えなくても察しがつく。学校を辞めた理由、皆の前から忽然と姿を消した原因、大方こんなところだろう。

 だが、彼らと会うことは今の悠月には叶わない。

 元凶を完全に排除するその時まで、奴らはこの街の影に潜み、虎視眈々と獲物を刈り取らんと爪を研いでいるのだ。魔性を宿す者は魔性に惹かれる。この言葉を素直に受け取るとするなら、自分の起こす行動は自然と奴らを誘き寄せる餌となるはずだ。こんな状況下では迂闊に連絡を取ることも、おいそれと外出することも憚られる。

 とどのつまり悠月は、いくら葛藤を抱こうがこうしてぼんやりとディスプレイに増えていく着信件数を眺めることしかできないのである。

「はぁ……」

 頭を垂れて塞ぎ込む悠月の心中は暗い。

 脳内で湧き上がるのは不安の念だ。アルメリアや蒼士、ライカが協力してくれるとはいえ、相手はあの父を倒した手練である。こちらが戦略と戦術の限りを尽くしたとしても、果たして首尾よく討ち取れるかどうか。

 そもそもの問題点として、相手がこちらの誘いに乗ってくるかどうかが疑問である。相手とて馬鹿ではない。こちらの作戦を越える奇策を仕掛けていたら、或いは全滅も有りえる。数日後に控える決戦を思えばこそ、悠月は気が気ではなかった。

「んなぁーご」

「うん?」

 不意に、とんっと足元に何かが当たる感覚がした。

 黒猫のシャノワール。宵闇に同化して更に真っ黒に染まった魔女の愛猫が其処にいた。

「どうしたんだお前。こんなところに出たら寒いだろう。名前は、えーと……」

 シャノワールの両前足を抱え上げたところで悠月はふと思案した。

 そういえば悠月はこの黒猫の名前を教えられていない。神出鬼没故にまぁ別にいいか、とすっかり名前のことを失念していたのである。

 なんと不埒な無礼者か。まさかにいま、叱咤の猫拳が伸びようとしたその時だった。

「シャノワール、ですよ。悠月くん。わたしはシャノンって呼んでますけど」

 救済の女神が泉から現れるが如く。すっかり就寝用のナイトドレスとストールに身を包んだライカが悠月の背後に立っていた。

「ライカさん」

「ふふふ。ライカさん、じゃなくてライカでいいですよ。悠月くん」

「いや、さすがにそれは……慣れ慣れしくないですか。まだ知り合って間もないのに、いきなり呼び捨てなんて」

 悠月は照れくさそうにシャノワールの頭を撫でて平然を装う。

「抵抗ありますか? わたしは鷲宮くんって呼ぶよりも悠月くんって言いたいから、悠月くんにもラフに呼んで欲しいんだけどなぁ」

「本気ですか?」

「もちろんよ。悠月くんさえ良ければ、ライカって呼んで。期待してるから」

「じゃあ、努力してみます」

「うん、お願いね」

 ライカが悠月の隣までやってきた。二人揃って寝静まった夜の月見ノ原を見下ろす。

 煌々と灯る街の明るさは凡そ静寂とは程遠いが、けれども心を落ち着かせるには丁度良い煩わしさであった。

「眠れない?」

「……はい。なんだか眼が冴えちゃって」

 落ち着いた雰囲気で話す彼女の口調に応じるように、悠月は気持ちを打ち明けた。

「やっぱりね。そうだと思ったんだ。様子を見に来て正解だった」

「ライカも眠れなくてここに?」

「ううん。わたしはちゃんと寝れるわよ。こういう緊張感には悲しいけど慣れてるから」

「ライカはこの仕事に関わって長いんだ」

「そうね。もう何年になるのかしら。数えるのは飽きて止めてしまったけれど……これでも職務経歴は長いのよ。尤も、こんな仕事は自慢にもならないけどね」

「どうして。皆の為に命を張っているのに?」

「わたしたちの仕事は公にはできないことだからね。世界の裏側に潜む悪を討つって聞いたらイメージはいいかも知れないけど、やってることは陰鬱だしショッキングな事ばかりだから。魔法使いのお仕事も楽じゃないのよ。わたしたちは正義の味方には決してなれないの。一般人に見つかれば面倒だし、かと言って巻き込むことはできない。文字通り命に関わるから、このあたりは特に慎重にならなければならないの」

「アルメリアも苦労してるってことですか」

「もちろんよ。あの人は特別大変だったと思う」

「思う?」

 違和感に小首を傾げた悠月を見て、ライカは憂いを帯びた表情を浮かべる。

 遠い過去の出来事。彼女とアルメリアの間には、とても一日では語り尽くせない出逢いの物語があるのである。

「――少しだけ、昔話をしようかしら。実はわたしも、最初からメアと一緒だったわけじゃないのよ。出逢いがあったの。それはもう遠い土地でね、あれは凍えるほど寒い夜だった」

 いつしか悠月は聞き入るように耳を澄ませていた。

 聞き逃してはいけない。大切なことだと感じたからだ。

「わたしは一人で居たところをあの人に拾われたのよ。『私と一緒に来るか』なんて誘い文句を受けてね。でも、苦労はここからだった。あの人は魔女だからまともな定職には就けなかったのよ。性格もあんなんだし問題ばっかり起こして行く先々でクビの嵐だった」

「へぇ……」

「で、結局行き着いた先がこの仕事。魔法使いは魔法使いらしく人の世を忍んで生きるしかないと腹を括ったの。けど、請ける仕事が全部酷くて。中には酷い失敗だってあったのよ。大勢の人が亡くなってしまったこともある。傷だらけで帰ってきた時だってあった。恐怖で眠れない夜だってあったわ。メアも普段はあんなに偉そうだけど、きっと影では泣いていた」

「……」

「いつだったか、わたしはある事件のことでメアを本気で引き止めたことがあったの。絶対に無理だからって。行ったら死んじゃうから逃げようって泣きながら懇願したことがあったの。でも、メアは退かなかった。『これは私にしかできない仕事だから』って。『普通の人では解決できないことは普通じゃない人間が解決するしかないんだ』って。今回の事件もそうよ。普通のことじゃないの。普通じゃないから、わたしは黙って見守ることしかできない。力になれないのが歯がゆいけれど、メアが……悠月くんたちが頑張ることでしかこの問題は解決できないってわかっているから。わたしはただ、待つしかないのよ」

 ライカは彼方を見ていた。

 見据えているのは月見ノ原の街並みではない。遥か未来に待つ、穏やかな日常だろう。

 平和を羨望する気持ちは悠月とて同じである。だからこそ、彼女が抱える悩みには痛いほど共感できた。

「ふふっ、そう考えたらもう寝ちゃうしかないじゃない。うだうだ悩んでたってどうなることでもないのよ。わたしに出来ることは、皆に美味しい食事を作って、最低限笑顔でおかえりって迎え入れてあげること。これだけなんだから。人には人の役割分担ってものがあるんじゃないかな、きっと。悔しいけどね」

 ライカはぐぐっと背伸びをして欠伸をすると。

「悠月くん」

「はい」

「ありがとう、メアを助けてくれて。きっと貴方の力はあの人を支えるわ」

 彼女は、真っ直ぐな眼差しで悠月に感謝の言葉を述べた。

「いや。僕はまだ、足手まといにしかなってませんから」

「ううん、そんなことない。貴方がいるだけで救われる人がいるのよ。少なくとも目の前に一人はいる。忘れないで」

「……ライカ」

 ライカは悠月の手を取ると。

「この気持ちがどれだけ貴方に届くかわからないけど貴方が不安になることなんてないのよ。貴方は貴方らしく、貴方が出来る精一杯を頑張ってる。だから思い詰めないで。悩まずに自分を許してあげて。せめて今日だけでも」

「ありがとう、ライカ。ちょっとだけ気分が楽になったよ」

「そう。良かったわ」

 夜天の下に割いた一輪の笑顔は、悠月の強張った心を優しく抱擁して溶かした。

 無力だと自分を恥じて尚、彼女は気丈に振舞い勇気を与えてくれている。

 自分よりも背丈の小さいこの子が、精一杯の献身を魅せているのだ。これでどうして弱音など吐いていられようか。

 この純粋無垢な期待には応えてあげたい。気づけば悠月は心の底からそう思っていた。


 ――こうして二人の夜は更けていく。

 どこぞのB級ドラマの恋愛劇のような一面を見せられて、階下に陣取り酒を呷っていたアルメリアは呆れたように苦笑を漏らした。

 勘弁してくれよ、と声を張り上げたいのは山々ではあるが、彼女もまた常識くらいは弁えた淑女である。せっかくの良いムードをぶち壊すなんて無粋なマネはしない。

 酒の肴とはならなかったが、けれども久しく忘れていたライカとの出逢いに想いを馳せることができたのはなかなかどうして悪くない気分であった。

「たく、若い奴はこれだから困る。恥ずかしくて聞いてられないよ、なぁシャノワール」

 チリン、と鈴の音が鳴る。

 小柄な愛猫は主人の声に反応するように可愛らしい円らな瞳をパチクリとさせていた。

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