第六話 災禍の爪痕Ⅰ
「――僕は、生きているのか」
微かに頬を撫ぜた風の感触で、悠月の意識は覚醒した。
目の前には虫食い穴のような模様の白い天井がある。傍らにはカルディオグラフ――心電計が悠月の心拍数を絶え間なく測定している。腕から細く延びた白いチューブは点滴か。
どうやら此処は病院らしい。朧げな意識の中で、悠月はそう結論づけた。
まずは安堵するしかない。きっと彼女が、なんらかの手段を用いて瀕死状態の自分を此処まで運んできたのだろう。
だが、疑問が残っている。あの日の惨劇はどうなったのだろうか。被害に遭った人たちは、妹は果たして無事なのだろうか。
次第に積もっていく不安に駆られるように、悠月は身体を起こそうと試みる。
「うぐっ!?」
だが、焦る気持ちとは裏腹に身体は全く言うことを利いてはくれなかった。
腹部に広がる激しい鈍痛は身体全体を押さえ込むように悠月の動きを制した。どうやらあの怪物に与えられた傷はまだ癒えてはいないらしい。
ぼふっと音を立てて、悠月は再びベッドへと倒れ込んだ。
こんな状態では、とてもじゃないが立って歩き回ることは不可能だ。現状把握など夢のまた夢。まずは安静に、傷口が癒えるのを待ってから行動をした方が得策のようである。
「……こんなことをしている場合じゃないのに」
苛立ちをぶつけても現実が変わるわけではない。頭では理解していても、つい、ごちてしまう自分がいた。
さてどうしたものか。額に手を当てて思索に耽ようと考えた丁度その時――自らの手が視界に収まったその瞬間、世界音もなく捻じ曲がった気がした。
「――ッ!?」
否、この感覚に間違いはなかった。正確には、己の視界そのものが本来は視えるはずのないモノを捉えていたのである。
「これは」
死が視えた。胎動する命の奔流が視えた。空気の流れが手に取るように視えている。
恐らく、痛みによる強制的な覚醒が、あの時の能力を再び呼び醒ましたのだろう。悠月の双眸は極彩色の魔眼に切り替わっていた。しかも始末が悪いことに、もうこの力は自らの意志では解除が出来ないように矯正されていた。
「なっ、どうして……」
原因はわからないが、ともかくこれでは拙い。目の異常など、どう言い繕っても誤魔化しが利かないではないか。
焦燥感が悠月を襲う。しかも、タイミングの悪いことに何者かがこちらに近づいてくる気配がする。定期巡回の看護師だろうが、何れにせよ直ちにこの状況を打開しなければならない。
何か目を塞ぐ物はないか。可能であれば目を覆う眼鏡でもあればいいのだが。
額に焦りが滲む想いで周囲を見渡すと、これがまたどういうワケかお誂え向きに見覚えのあるバッグが病床の傍らに置かれていた。
「僕の鞄……なんで、誰が……」
疑念は尽きないが、ともかく今は一刻を争う。悠月は急いでバッグを引っ張りあげると、中に仕舞っていた眼鏡を取り出して耳にかけた。
瞬間、病室の扉が音を立てて開け放たれた。
軽やかな足取り。見覚えのある長いシルエット。自慢の長髪が踊るように靡く姿を、悠月は決して見間違いはしない。
「えっ、ユウ……?」
「……天音」
白い医療用カーテンの裾から姿を現したのは、幼馴染の雨宮天音であった。
「あ……嘘ッ、そんな……っ」
悠月の姿を見た途端。天音は口元を手で抑えた。
声は震え、瞳からは大粒の涙が零れ始める。なんとか言葉を紡ごうと喘いでいるが、それは声にはならずに嗚咽となって漏れていた。
「ユ、ユウ……良かった、このまま、目を覚まさなかったらどうしようって、あたし……ずっと、ずっと……悩んで……」
泣き崩れる天音の様子を見るに、恐らく彼女が検診的に看病を続けてくれたのだろう。
何日眠っていたのか、それすらも定かではないが、ともかく彼女には感謝しなければならないだろう。ただ、不器用な悠月には気の利いたセリフなど吐けない。結局は在り来りの、いつもと変わらない調子で幼馴染との再会を喜ぶしかなかった。
「ごめんね、天音。心配、かけたかな」
「本当だよ……ほんっとうに……心配、したんだから……!」
天音の言葉は荒く、口調からは怒りの感情さえも窺えた。
「でも――ちゃんと元気になってくれたからオールオッケーかな」
けれども彼女は、優しい笑みを浮かべて全てを赦してくれた。
悠月も、そんな彼女に釣られたのか自然と微笑んでいた。
暫くして。
悠月は、主治医からこれまでの経緯を聞いていた。傍らには天音も控えている。
「一週間、ですか」
「そうです。今は十一月七日。貴方はハロウィンの日の夜、腹部に重症を負って今日まで意識を取り戻さなかったんです。正直驚きましたよ。この病院に運び込まれた患者の中で、貴方は間違いなく一番の重症患者だった。率直に言いましょう、貴方はあの日、死んでいてもおかしくなかった。助かったのは奇跡としか言い様がありません」
悠月は、静聴こそしていたものの、奇跡という言葉を重く受け止めていた。
「悠月くん。失血による人間の致死量はいくつだと思いますか?」
「三分の一くらいですか」
主治医は頷いて。
「状況にもよりますが、キミの場合はここに運び込まれた時点で既に半分近くの血液を失っていました。止血しようにも傷が深い。仮に目を覚ましても後遺症が残る可能性はあった。驚異的な回復力ですよ。素直に脱帽です。まさか、人間にこれほどまでの生命力があるとはね。ともかく無事でなによりでした。暫くは経過観察が必要でしょうが、その様子ならすぐに退院できるでしょう」
医師が浮かべた混じり気のない笑みは、悠月を心の底から安心させるものだった。
自分が死の淵を彷徨っていたことは己自身が一番よく知っている。あの時の痛みと失われていく意識は確実に死を感じさせるものだった。今回、自分が辛うじて生き永らえることが出来たのはこの医師の手腕に拠るところも大きいだろう。感謝してもしきれないほどである。
ただ、自分が一番の重傷者であるという点においては些か疑問が残っている。
確かに、自分も被害者の一人であることに変わりはない。だが、あの日の夜はもっと多くの犠牲者が出ていたはずである。少なくとも、目視できる範囲での死者数は数十を優に超えていたはずだ。病み上がりの自分を気遣って伝えていないのであれば無理には聞き出せないが、少なくとも家族の安否については聴いておかなければならないだろう。
悠月は、緊張で喉が渇くのを感じながらも意を決して主治医に尋ねた。
「あの……家族は、僕の家族は無事なんでしょうか」
「家族?」
「妹の鷲宮玲愛と母親の杏華です。もしかしたらこの病院に運ばれてるんじゃないかと」
主治医は、表情が曇ったのを誤魔化すように眼鏡をかけなおしてから告げた。
「いいかい、悠月くん」
「はい」
「結論から言えば、キミの家族は生きている。無事だ」
「本当ですか!?」
「ただ、まずは自分の体をしっかりと治しなさい。ご家族が心配なのはよくわかる。けれど病み上がりのその体で妹さんやお母さんに会いに行くつもりかい。却って無用な心配をかけるとは思わないか」
主治医の言うことは尤もだった。
事実、悠月はまだ立ち上がることすらままならない。足は小鹿のように痩せ細り、腕は枯れ木のように肉が削げ落ちている状態である。確かにこれでは、喩え再会を果たしたとしても喜ばしい結果にはならないかもしれない。
沈黙を肯定と受け取った主治医は最後の一押しと定型文じみた言葉を口にする。
「大丈夫です。焦らなくても時間はあります。余計な考え事は肉体にも相応の負担をかける。今のキミがするべきことは、充分に休養をとって身体を回復させることですよ。ご家族との再会を喜ぶのはそれからでも遅くはありません」
「わかりました」
悠月は頷いて、素直に意向に従うことにした。
「それと、これはお節介になるかもしれませんが」
主治医は横目で天音を一瞥してから。
「彼女には感謝した方がいい。キミが目を覚ますまで、ずっと看病をしてくれていた。もう一人の男の子は最近見ないが……まぁ、いずれにせよ大切にしなさい。こういった友人は生涯に渡って貴重な存在だ。仲良くしておいて損はないよ。特に優しい女の子はね」
「ちょ、先生っ!? 止めて下さいよ。あたし、別にそんなんじゃないですから! ユウは……その、あたしの幼馴染だから、あたしが面倒見ることになってるんです!」
「……どんな理由なの」
天音はかぁーっと顔を紅潮させてなにやら余計なことを口走っていた。
「ククク……よし、じゃあ経過を診て可能なら明日からリハビリでも始めてもらおうか。ちゃんと動けるようになれば晴れてキミは自由の身だ。それでいいかな」
「はい」
「じゃあボクはこれで失礼するよ。他の患者さんも診ないといけないからね」
主治医はそれ以上なにも言わずに部屋を後にした。
「私も今日はこれで帰るね。ユウが目を覚ましたって早く皆に報告しなくちゃ!」
天音も病室を出て行こうとする。
だが、部屋の扉に手をかけたところで何かを思い出したようにくるりと振り向いた。
「病み上がりなんだからちゃんといい子で寝てるんだぞ。病院、抜け出したら怒るから」
「子供じゃないんだから大丈夫だよ。大人しく寝てる。身体もまだ痛いしね」
「そう。じゃあまた明日来るから。なにか必要だったら連絡して。一緒に持ってくる」
悠月が頷いたのを確認して、天音は今度こそ病室を出た。
後ろ手で扉を閉めた天音は、明るかった表情を一変させる。健気に振舞っていた姿は何処へやら、大きく息を吸い込むと、複雑に渦巻く幾つもの感情と共に深く吐き出した。
「駄目だな、私。ちゃんと伝えなきゃいけなかったのに……できなかった。玲愛ちゃんのことも。お母さんのことも。なにも、言えなかった。ただ笑うことしか、できなかった……」
その表情は酷く重い。暗い表情を浮かべる彼女は今にも泣き出しそうだった。
壁一枚隔てた先には悠月がいるというのに、天音は耐え切れなくなってしゃがみ込んだ。
震える体と声を殺して泣く彼女の姿は、先に待ち受けている現実が決して喜ばしいことではないということを物語っていた。
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