十字を切るものは
土屋シン
十字を切る者は
「玉ノ井信三郎、切腹を申し付ける」
「何故だ!悪者は芦田の奴だ!あいつは百姓なぞに藩の金をばら撒き、我らの俸禄を減らしているのだ!」
「芦田様はな、『ここ数年の不作で百姓が飢え人口が減ると、藩の財政も立ち行かなくなる』と決断されたのだ。それを己の欲のために蔑ろにするとは言語道断だ」
畠山は言い放つ。
「なにを!この玉ノ井信三郎、武士の誇りのために芦田を殴れども、己のために拳を振るったわけではないわ!芦田を連れてこい!今度は叩き斬ってやる!」
「まだ言うか、馬鹿者め。芦田様は『政策の本意を充分に伝えきれなかった自分が悪い』と嘆き、慈悲深くもお前が潔く腹を切れば家族はお咎めなしだと申されたのだ。とにかく、明日の昼には腹を切ってもらう。それまで牢に入っていろ」
そう告げ、畠山は去ろうとした。すると、信三郎は先ほどまでの勢いはどこへやら弱々しく、畠山を呼び止めた。
「あいや、待たれい。牢は困る。今すぐ牢に入るのは、ちょっとばかり都合が悪い」
畠山は呆れた表情を見せて、振り返る。
「なんだ、なんの都合が悪いのだ」
「妻に息子の虎太郎を頼むと言い、母には先に逝くお詫びをせねばならん」
家族が無事と知りしおらしくなったのであろう信三郎に、人間味を感じ畠山は初めて同情した。
「それなら家族を連れてきてやる」
「それも、困る。父の墓にそちらへ向かいますと挨拶をせねばならんからな。それに切腹であい果てるとは武士の誉。一生に一度、晴れの舞台で腹を十字に切るか真一文字に切るかまだ決めかねておる。先祖の墓の前でじっくりと考えさせてくれ」
「わかった。それならお前の家族をかわりに牢に繋いでおく。だから、明日のうちに行ってこい」
「家族はだめだ。虎太郎はまだ乳飲み子だし、母は病で伏せっておる。私が戻って来るまでに牢中で万が一があれば、芦田殿のお慈悲も無駄になる」
「人質も無しに牢から出すことは出来ん」
畠山は一層呆れたように言った。
信三郎は畠山をキッと睨むと言う。
「人質が必要ならば、私の無二の親友である
遠野清四郎は青ざめた。必ずかの邪智暴虐の玉ノ井信三郎を殴らねばならんと決意した。清四郎は隠れキリシタンである。デウスに祈りを捧げ、日々命のあることに感謝し、十字を切って暮らしていた。しかし、信三郎と酒を飲んだときに隠していたデウスの彫像を見つかってしまったのだ。以来、信三郎には金をせびられ面倒な役目を押し付けられてきたが、今度は代わりに牢に入り人質となれときた。あんまりひどい。とは言え、信三郎は来なければ奉行畠山乗継殿に彫像のことを話すと言う。清四郎は手紙をもってきた使者に「支度を整え次第、すぐに向かう」と答えるほかなかった。
清四郎が牢にやって来たのは、手紙を出して半刻ほど経ったのちであった。その時、信三郎はぐうぐうと牢中で眠っていたため、清四郎がぐいと胸ぐら掴んで、殴り起こしたのであった。
「何をする清四郎!」
「それはこちらの台詞だ!とんでもないことをやってくれたな」
「武士の誇りのためだ」
「貴様が武士を語るのか」
「お前と違い私は真っ当な武士だ」
「……」
二人が言い争っていると、牢屋番の
「早く出ろ、玉ノ井信三郎。期限は明日の昼までだ。帰って来なければ遠野清四郎の命は無いぞ」
「わかっておるわ!武士の誇りに賭けて腹を切ってやろう!」
そう言い残し信三郎は去っていった。清四郎は大家の目を盗み小さく十字を切った。
夜が明け太陽が登りきる直前になっても信三郎は戻って来なかった。畠山の使いの者が不憫そうな顔をしてやってきて清四郎を連れ出した。場所はどうやら邸内を使わせてもらえるようで真新しい畳を重ねて敷き、幔幕をめぐらすなど念入りに整えられていた。清四郎は信三郎がどのような男かよくわかっているため、涼しい顔をしている。寧ろ、見届け人の方が哀れに思い緊張しているようだ。雲ひとつなく日が出ているというのに、皆、手足が凍えているような面持ちである。しんと静まり、空気はピンと張り詰めている。太陽が丁度頂点に差し掛かるというところで同心の木村某が大慌てでやってきた。どうやら信三郎についての事らしい。清四郎以外の人間の誰もが木村だけに注目している。
ふぅと息を吐いて、清四郎は十字を切った。
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