第2話 良薬、口に苦し

 様々な植物の生い茂るレティラの森は薬草の宝庫で、イファヴァールの街からもよく薬草採取に人が訪れる。ただそれは森の入り口付近に限られていて、ジゼルがいる森の奥にまでは誰も踏み込んでは来ない。


 レティラの森は、魔女の森として人々から恐れられていた。





 コトコトと何かを煮込む音で、エドは目を覚ました。

 最初に見えたのは古びた木の天井。柔らかな風に頬をくすぐられ顔を向けると、少しだけ開かれた窓に掛けられたレースのカーテンがふわりと揺れているのが見えた。切り取られた窓の向こう、日の翳り具合から察するに今は日没に近い時間だろうか。


 何をしていたのか思い出そうとするよりも先に、体を襲う鋭い激痛が記憶を一気によみがえらせた。


「……っ」


 痛みを認識してしまえばそれは瞬時に全身に広がってしまう。先程の心地良い微睡みが嘘だったかのように、痛みに疼く体から気持ちの悪い汗が噴き出した。


「あ、起きたんですね」


 ベッドの僅かな振動に気付いたジゼルが、鍋をかき混ぜる手を止めてぱたぱたと駆け寄った。その手には予め用意していた枯葉色の液体が入った小瓶が握られている。


「無理して体を動かさないで。傷が開きます」


「誰だ……っ」


「貴方、森で倒れていたんですよ。私はジゼル。ここで薬師をやってます」


 安心させるように笑顔を絶やさず、ジゼルが濡れたタオルでエドの額に浮いた汗を拭う。その介護の手すら厭わしいのか、エドが不機嫌な表情を隠さずに顔を背けた。


「俺にっ……触れるな!」


「えっと……ごめんなさい。それは無理です」


 無礼極まりない態度にも律儀に謝罪してから、ジゼルが持っていた小瓶をエドへ差し出した。激痛で腕を動かすこともままならない為、エドはその小瓶をひと睨みすると眉間の皺を更に深くする。


「何だ……その、汚らしい色は」


「クムの葉っぱを煎じたもので痛みに良く効くんです。傷の治りを早くするティロの球根と睡眠作用のあるエスリカの花蜜も入れてるので、飲んで寝ると少しは体が楽になりますよ」


「要らん」


 速効で拒否され、さすがに痺れを切らしたのか、ジゼルはベッド脇にしゃがみ込むとエドの首の後ろに腕を入れて僅かに顔を上げさせた。強引に頭を上げられたからか、それとも全身を襲う激痛のせいか、エドが短く呻いてジゼルを鋭く睨み付けた。

 口元に寄せられた小瓶を払いのけようと動かした腕は、僅かに上がっただけで拒絶には至らない。ならばと、唇をかたく引き結んでせめてもの抵抗を試みる。


「むー。頑固ですね。飲まないといつまで経っても治りませんよ? あ、もしかして毒だと思ってます? そんなことないですよ。……ほら」


 そう言うなり、ジゼル自らが小瓶の液体をごくりと一口飲み込んだ。


「ほら、平気でしょう? ……うぇっぷ」


「明らかに不味いだろうが!」


「不味いかもしれませんが、傷にはよく効きます! 今の貴方に必要なのはゆっくり寝て体力を回復させることなんですよ。……本当に大怪我してたんですからね」


 怪我の状態ならばジゼルに言われなくても理解は出来た。なぜ怪我を負ってレティラの森へ迷い込んだのかも、全部覚えている。覚えているからこそ、エドはジゼルの薬を安易に口にすることは出来なかった。

 その薬が毒ではないと何となく察したものの、自身の身を思えばエドの拒否は過剰ではあるが防衛反応のひとつに過ぎない。


「……それを飲むくらいなら、痛みに耐えていた方がましだ」


「ダメです。薬師として放ってはおけません。飲んで下さい」


「煩い女だな。飲まんと言ったら飲まん。そんなに飲んで欲しいのなら口移しでもしたらどうだ? まぁ、お前には……」


 してやったりと薄い笑みを浮かべたエドの顔に、ふっと影が落ちる。言葉の続きを口にしたはずの唇が塞がれ、柔らかい余韻に浸る間もなく苦い液体が口内に満ちたのを感じてエドが驚きに見開いた瞳をぎゅっと閉じた。


「おま……ぅぇぇっぷ」


 口移しされたことに驚く暇もなく、壮絶な苦みがエドを襲う。体が痙攣するように震え、舌先は微かに痺れている。未だ口内に残る苦みによって声を発することも出来ないエドが、精一杯の非難を込めてジゼルを睨んだ。

 その視界が急速に歪み始め、まるで酩酊状態に陥ったかのようにエドの意識が眠りの淵へと引き摺られていく。強引な夢への誘いを必死に振りほどき、重く閉じる瞼を何度目かの瞬きで完全に開ききったエドが、弾かれたようにベッドから飛び起きた。




「何をするっ!」


 無理矢理薬を飲ませたジゼルを振り払ったはずの腕が、虚しく空を彷徨った。先程まで側にいたはずのジゼルの姿はどこにもなく、見渡した室内にもエド以外誰の気配もない。あれほど体をさいなんでいた激痛は我慢できるほどにまで治まっており、黄昏時だった窓の外の風景は朝の爽やかな空気に包まれている。

 夢でも見たのかと錯覚しそうになったが、未だ口内に残る苦みがそうではないことを物語っていた。


「あ、起きました?」


 さっきも同じように声を掛けられたことを思い出して、奇妙な既視感を覚えながらもエドが声のした方を振り返った。扉を開けて家の中へ入ってきたジゼルの姿を見た瞬間、エドがはっと息を呑んだ。


 明るい陽光の下、ジゼルの艶やかな黒髪が浮き彫りにされていた。


「……森の魔女」


「あら? 今頃気付いたんですか?」


 くすりと微笑みながら、ジゼルは薬草の入った籠を手にしたままキッチンへと歩いて行く。


「最初に目を覚ました時は痛みでそれどころじゃなかったですしね。今はだいぶ痛みも引いてませんか? あの薬、とっても苦いんですけど、効果は抜群なんですよ! ティロの球根を入れると苦みが増すのが難点なんですけどね」


 キッチンでごそごそ動いていたジゼルが、水の入ったグラスを持ってエドの方へと歩いてくる。そのグラスを見た途端、エドが眉間に深い皺を刻んだ。


「そんなに警戒しないで下さい。これはただのお水ですから」


「要らん。お前が魔女なら尚更だ」


 明確な理由と共に冷たく拒絶され、ジゼルの体が僅かに震えた。その顔に浮かんだ一瞬の憂いを、ジゼルは巧みに笑顔の奥に覆い隠す。


「魔女と言っても、受け継いだのはこの黒髪くらいですよ? 大昔の戦争の時みたいに嵐を起こしたり、怪しげな呪術を使ったりすることも出来ません。でも貴方の気持ちも分かるので、お水はここに置いておきます。飲みたくなったら飲んで下さいね」


 そう言って再び外に出て行ったジゼルの姿を、エドは窓際に置かれたベッドの上から観察するように眺めた。


 窓から見える景色は濃い緑の森ばかりで、エドのいた街の喧騒などこれっぽっちも聞こえない。代わりにそよぐ風に揺れる葉擦れの音と小鳥のさえずりが時折届くくらいだ。

 家の前には小さな庭があり、数種類の植物が植えられている。薬草の類いなのだろうか。エドにはただの雑草にしか見えない草を、ジゼルが甲斐甲斐しく世話をしている。


 背中で揺れる、三つ編みにされた黒髪。いにしえの魔女の血統を受け継ぐ黒髪は、魔女戦争が終わって数百年が経った今でも恐怖の色として忌み嫌われている。


 魔女戦争の後に敗北した魔女のほとんどは処刑され、僅かな子孫は人目に付くことを恐れて細々と暮らしていると聞く。しかしその姿を目にした者は少なく、実際に今も生きているのかどうかさえ分からない。ただ恐怖の対象として、その存在だけが人々の記憶に残り続けている。


 このレティラの森も、イファヴァールの街の住人たちにとっては魔女の住む恐ろしい場所という認識だ。エド自身もレティラの森に魔女が住んでいるという噂は耳にしたことがあった。



 と言うよりも、そもそもエドがレティラの森を訪れた理由は「魔女狩り」である。



 従兄弟のブライアンからレティラの森に住む魔女が恐ろしいことを企てているとの報せがあり、確認または討伐する為にエドはこの森を訪れたのだ。そこでブライアンの裏切りによって命を狙われ、傷を負ったエドを助けてくれたのが魔女であるジゼルというわけだ。


 奇しくも狩りの対象であったジゼル本人に命を助けられ、エドは口元を醜く歪めて自嘲する。ブライアンに対する怒り。まんまと罠にかかった惨めな自分に対する怒り。沸々と込み上げてくる押さえようのない激情に唇をぎりっと強く噛み締めたエドの鼻腔を、ふっと涼やかな清涼感のある香りが掠めていった。

 思考を遮られ顔を上げると、窓の外で薬草の束をこちらに差し出したジゼルと視線が合う。


「この薬草は気分を落ち着かせてくれる作用があるんです。これで美味しいお茶を淹れるので、水やりが終わったら一緒に飲みませんか?」


 頬に泥を付けたまま、ジゼルが笑う。

 初めて目にした魔女は恐怖の対象とはほど遠く、その忌み色の髪は鮮血ではなく汗と泥にまみれて輝いていた。




 

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