第2話

 東京から山形まで、新幹線でおよそ2時間半。そこからさらに電車とバスを乗り継ぎ、ようやく実家に到着するわけだが、東京の便利さに慣れきっていた俺は、田舎の不便さをすっかり忘れていた。一本逃したら、次のバスまで2時間近く待たなくてはならない。

 結構な出費だがタクシーで行こうと決め、とりあえず寒河江駅に着いたことを知らせるため母に連絡する。


「そう、んだがらタクシーで向がうがら、16時30分ぐれに着ぐど思う」

「タクスーなんで使わねぐでいいわよ勿体ね。誠!慎司車で迎えに行って、頼むわね!」

「え?ちょっといいって…」


 断る間もなく通話は切れ、俺は携帯片手に立ち尽くす。


「30分以上ここで何してろと…」


 俺は仕方なくバスターミナルから駅に戻り、二階の待合室へ向かった。寒河江は、俺が家出するより前に建て替えられた、比較的新しい駅だ。幸い待合室には誰もおらず、俺はリュックをベンチにおろし、その隣に腰掛ける。キャリーバックには喪服と一泊分の着替え、その他東京土産など、結構な荷物になっていた。

 本当は3回忌だけ出席し日帰りで済ませたかったが、ここまで遠いと中々そうもいかない。結局母の提案通り、前日の夕方頃来て実家に泊まり、次の日の午前中に行われる法要と会食の後、東京へ帰ることになっている。


(それにしても懐かしい。家出した日は晴れてたから自転車で駅まで来たんだよな。若かったよなあ…)


 東京の大学を目指し予備校に通っていた頃、雨の日はいつも父が、車で迎えに来てくれていた。


『農作業あんまり手伝えねぐでごめん』

『何言ってんだ、学生の本分は勉強だべ?農家やるにすたって学があるにごすたごどはね、気にすねでげるごどやれ』


 記憶の底に眠っていた父との会話を思い出し、不意に胸が痛くなる。俺は気を紛らわすため、携帯の受信ボックスを開いた。経営しているお店や、アパートに関する事務的なメールをチェックしていると、ラインが入ってくる。


【もう到着した?いつまでも意固地になってないで、しっかりお墓参りしてきなさい。それからお兄ちゃんどんな風になってたか教えてね♡】


 送られてきたのは、ゲイバーダチュラのママ、サリーさんからのライン。東京に出てきて一番良かったのは、この人に出会えたことかもしれない。オネエタレントをしていた頃出演していた番組で、若いおかまと年増なおかまが対立するという構図を作られ、当時はやっていて鬱になりそうなほどしんどかったが、その番組のおかげでサリーさんと親しくなれたので、今は感謝している。


(それに、サリーさんて女装してない時は大きいし肩幅もがっしりしててタイプなんだよな、まあ向こうは自分みたいの好みじゃないって知ってるけど)


 悪目立ちしたくなかったから、今日の自分もノーメイクにデニム、白シャツにネイビーのジャケットという完全に男の格好だ。髪も男がしていてもおかしくないショートボブにしてきた。今思えば、あのお金だけは稼げていた目まぐるしい日々の中、突っ走るように性適合手術を受けなくて良かったと思う。もし俺が、身体まで女になって帰ってきたら、父はきっと化けて出てきて、家の敷居をまたぐことも許さなかっただろう。

 とその時、突然携帯に知らない番号が表示され、心臓の鼓動が早まる。


「もしもし」

「慎司か?」

「あんにゃ」


 通話を押し、携帯ごしに聞こえてきた声は間違いなく兄のもので、緊張して声が上ずりながらも、俺は昔と同じように兄を呼ぶ。


「今駅さ到着すたげどどさいる?荷物重いべ?すぐ行ぐから…」

「いいよ!下降りっから待ってで」


 待合室の窓から外を見ると、うちのものであろう白い軽トラが止まっている。俺は急いでリュックとキャリーを持ち、エレベーターに乗り込んだ。会いたくてたまらない気持ちと、会うのが怖い気持ちがごちゃ混ぜなまま、俺は一人深呼吸をする。あっという間に下に着き、分厚い扉が開いた先に、兄の誠が立っていた。


「やっぱりエレベーターの前で待ってで良いっけ良かった


 朴訥で男らしい顔に浮かぶ、柔和で優しい笑顔。一年中日に焼けた浅黒い肌に、昔より少しふっくらはしたものの、変わらない、力仕事をしている男特有の逞しい身体。


(キャー!全然変わってないじゃん!目尻にうっすら皺ができてるけどそれもまたいい!ああもうやばい!無茶苦茶に抱かれたい!)


「慎司?」


 不埒なことを考え固まっている俺の名を、兄が不思議そうに呼んでくる。


「ごめん、いきなりいたからびっくりして」

「遠ぐがら来でくたびったべ?車あっちだから」


 兄は俺の手からキャリーバックを取り、もう片方の手もホイと差し出してくる。ついその手に自分の手を重ねると、兄が違うと首を振った。


「リュックもたがいでけっから持ってあげるからこっち渡しぇ」


 ここで俺の手を振り払ったりしないのがあんにゃなのだ。あんな別れ方をしたのに、昔と全く変わらない態度で接してくれる兄に感謝の気持ちが生まれる。


「相変わらず優すいね」


 俺は素直にリュックも渡し兄の隣を歩いた。そんな些細なことでも心が擽ったくて幸せで、こんな極上の幸福を捨てて家を出た真理さんとやらの気が知れない。兄は、俺のキャリーバックとリュックを軽トラの荷台に乗せ言った。


「汚れちゃうけどいいか?」

「平気平気」

「貴重品どが大丈夫が?」

「ああ、ベルトポーチさ入ってっから」

「ほだなの便利でいいな」


 とりとめのない事を話しながら、俺は助手席に乗り、シートベルトを締める。ふと視線を感じて隣を見ると、兄が俺の顔をじっと見ていた。


「何?」

「いや、テレビで見でだ時は別人みだいだど思ってだげんど、今日会ったら全然変わってなぐで安心すた」

「変わったよ、10代の頃とは、肌の張りやら肉付きやら」

「ほだな細けえごとわがんねがらなあ。女装すでなぐでも、おめは小せえ頃がらめんごいぐで綺麗だったす」

「…どうも」

「じゃあ行ぐぞ」


 特に様子が変わることもなく、兄は車を走らせる。


(こういうとこなんだよな、昔からこっちの心乱すようなこと言ったりやったりするんだよ、この男は…)


 意識してないからだとわかっていても、好きな男に褒められれば、心はどうしても浮き足立ってしまう。

 あの時もそう…


 俺が山形にいた最後の夏休み、毎年家族で行っていた地元の花火大会と、兄が彼女に誘われた有名な花火大会の日がかぶり、当然両親は、美里さんが誘ってくれだ方さ行ってぎなさいと言った。だけど兄は、彼女の方を断ったのだ。


『美里さん大丈夫だったのがよ?』

『大丈夫、気にすんな、みさどはいづでも出がげらでっから。それにおめ、毎年この花火大会家族で見に行ぐの楽しみにすてただべ?』 


 俺を弟としか思っていないから、家族思いの兄が、時に恋人より俺を優先してくれていたのはわかっている。それでも俺はあの時、死んでもいいと思えるほど嬉しかったのだ。



「東京とは全然景色違うべ?」

「ほんと、あたり一面田んぼと山だらげだな。んだげんとなんか落ち着ぐのって、ここが生まれ故郷だがらかもな」

「だったらまだこっちに住むが?」

「それは無理」


 15年会っていなかったとは思えない、変わらぬ優しさと何気ない会話。俺は自然と心が、高校生の頃に戻っていくような錯覚を覚える。あの時、兄が結婚するのを心底恐れたのは、兄がどれだけ家族思いか知っていたから。結婚して家族になったら、今まで自分に向けられていた優しさすら、きっと全て彼女に注がれてしまう。


 逃げた後も、ウリ専で未練がましく兄の恋人への呼び名を名乗り、兄の幸せを願うこともできなかった、最低で気持ち悪い弟。あの頃の自分と、今も何も変わっていない。 


(こんな弟でごめん。でもやっぱり俺、あなたが大好きなんだ)


 明日の夜には、また俺は一人、東京のマンションで普段の生活に戻っているだろう。運転する兄を横目で眺め、今確かに、恋い焦がれた男の隣にいれる幸せを噛み締めながら、俺は、こみ上げる愛しさに蓋をした。

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