Section2-5 謎の集団とダンディの闘争心

 翌朝、空は妙にすっきりと晴れていた。

 まるで今の俺の気持ちをそのまま表現したかのようだ。

 ちゅんちゅん、楽しげにさえずる小鳥が行き交う朝の五時。黒の『戦闘服』――いわゆる忍者服――に身を包んだ俺は、音も立てずに、とある場所へと向かっていた。赤子あかこ地区を流れる赤子川の右岸にある、一本の道の両側にへばりつくようにしてできた地味な繁華街である。


『スナック カトレア』


 早朝というよりは、まだ夜の一部。

 そんな闇を含む明るさに包まれた街で、ほとんどの店の照明が消えている中、この店の看板だけは眩しいほどの明かりを煌々と湛えている。


 ――ここに、間違いない。


 辺りの気配を伺う。

 特に怪しい気は感じない。

 と、頬に感じた不意の冷気。とっさに身構えた俺だったが、その冷たさは辺りに立ち込めた霧の冷たさだった。川に近いこの地域が急に冷え込んだためであろう。

 白い霧が、汚れた街を俺の視界の中で浄化する。

 忍者の活動環境としては、上々だ。


 一度深呼吸した俺は、スナックカトレアの古ぼけたドアノブに手をかけると、それを一気に内側へと押し込んだ。そして、相手側からのどんな攻撃も対処できるよう、低い姿勢のまま店の中へと転がり込んだ。これでも、忍者の端くれなのである。

 けれど――。

 スナックカトレアの店内は、意外にも恐ろしいほどの静かさに満ちていた。

 というより、息を殺すように気配を消した大勢の人間が、店の奥の方で勢ぞろいしていた。ずらりと並んだ黒ずくめの服の男たちの中央で、やけに金ぴかな椅子に足を組んで座るサングラスの男が、口を開く。


「やあ、よく来たな、ミクリルおじさん」

「違う! ミクリル・ダンディだ。そこだけは、譲れんぞ。――ていうか、どうしてそれを知ってる?」


 しかし、黒焦げになった芋虫のように床に横たわる男の発した質問に、答える人間は誰もいなかった。

 無理やりにでも答えさせることも、多分、できなくはない。

 できなくはないが、自ら死地に飛び込んだ獲物に喜び、真一文字に細めているであろう目をサングラスのレンズで隠した奴らのボスらしき男の雰囲気に゛うすら寒さ゛を感じた俺は、質問を投げかけただけの状態で我慢することにした。

 なぜなら――そう、今は和美さんの状態が問題なのである。

 彼女の気配――そういったものが、今のこの部屋の中に感じられなかったのだ。

 彼らの回答次第では容赦しないと決めた俺は、すっくと胸を張って立ち上がった。そして、威嚇するような低い声色トーンで云い放った。


「和美さんをどこにやった? まさか、彼女に危害を加えたわけではあるまいな!?」

「ははは……ウチは殺人集団じゃない。どうしても避けがたい場面以外、人は殺めないのだ。薬で眠らせてあるだけだから、安心しろ」


 ボスの背後にいた男たちが、すっと左右に分かれる。

 その先に、スナックの長椅子の上にすやすやと寝入る和美さんの姿があった。

 すぐにでも助け出したいと全身の筋肉に力を入れた俺を、ボスが手を翳すようにして制止した。


「まあ、そう焦るな。あんたは、ウチの出したヒントをもとに、ここにやって来た。だからその推理は間違っていないだろうが、すべてはその答え合わせをしてからだ」

「ほほう……。ならば、このカウンターの椅子に座らせてもらうとするか」

「どうぞ、ご自由に」


 俺は一度込めた筋肉の力を開放すると、椅子を引き出し、座った。


「知美さんのことが気になるから、手短に話すぞ。あの日、俺が『KATORI』に着いたとき、あの場には倒れたおっさん――いや、失礼――ショットバーのマスター、香取が倒れていた。そして、そのすぐそばに五本のカトレアの花束が置かれていたんだ。花びらの色が赤色のカトレアが、な」

「ああ、そうだな」

「カトレアはランの一種であるlことくらいは、花に詳しくない俺でもわかる。そして、蘭の英語名「Orchidオーキッド」は、ギリシャ語で男性の金――いや、睾丸こうがんを意味する『orchis』が語源となっており、それは蘭の塊茎かいけい――地中にある茎の一部が養分を蓄え肥大したもの――が、睾丸に似ていることに由来しているのだ」

「ほうほう。それで?」

「花には『花言葉』の他に、『誕生花』という表現もある。そして、カトレアの示す誕生日は、十一月二十四日。そのカトレアが五本あったということは――」

「今の日時を示しているということだな。十一月二十四日の、午前五時」

「そうだ。そして、すべてのヒントをつなぎ合わせれば『カトレア・あか・こうがん・十一月二十四日午前五時』となり、赤子川右岸にあるスナックカトレアに十一月二十四日午前五時に来い、っていうことになる訳だ」

BRAVOブラボー!」


 ボスらしき男は遅いテンポのぱたぱたとした拍手とともに、全く気持ちの籠らない賛辞を俺に送った。


「正解だ! さすが、ミクリルおじさんだな」

「だからミクリルおじさんじゃ……まあ、それはいいとしよう。どうしてお前らは和美さんを誘拐した? 目的は何だ?」

「ふん、そんなこと決まってるじゃないか。彼女しか知らない『情報』を得るために、だ」


 肩をすくめてそう答えた、サングラス男。

 その両腕の筋肉にぐぐっと力が込められたことが、高級そうなスーツの生地を通してもわかる。

 俺はそれに気づかないふりをして、質問を続けた。


「お前ら、産業スパイ団体なのか。俺の同業者は意外と多いのだな……。それはそれとして、どうしてわざわざあの場所に今日のこの場所と時間を知らせるヒントを残した?」

「それはだな……」


 ボスは唇をぎゅっと噛み締めると、いかにも忌々しそうに云った。


「この女は、あの晩、店の客として近づいた俺との会話にも応じなかったばかりか、この俺に全く関心を示さなかったのだ。今まで、この俺様にそんな態度を取った女は初めてだぞ……」


 男が、サングラスを外してそれを胸ポケットにしまった。

 確かに、彼の自信を裏付けるかのようなイケメンであることは間違いない。切れ長のうるんだ瞳が特徴的な、見た目、二十代そこそこの男だった。

 だがしかし――イケメンさではこの俺とどっこいどっこいである。どちらかと云えば゛渋さ゛も加わった俺の勝ちだろう。

 俺は今すぐこの忍者服を脱ぎ棄てて『男前勝負』をしたくなった。

 が、その衝動を抑えると、わざとふてぶてしく云った。


「ふん、そんなことだったら俺もよく知っている」

「?」

「……まあ、いい。でも、それがどうしてヒントを残すということになる?」

「あんただよ、ミクリルおじさん。あんたに知らせるためさ」

「俺に対して……だと?」

「そうさ。俺たちを何だと思っている。俺たちはな……まあ、それは横に置いといて」


 その言葉と同時に、椅子に座ったまま肩幅に広げた両腕を右にスライドさせたボス。俺は内心、(このノリ……きっと関西人だな)と判断した。


「俺たちはよく知ってるぞ。お前がミリア電子の最新機密情報を探るべく、毎朝、緑のブレザーを着てミリア電子の中枢に潜入していることを。そして、彼女が同僚と通うショットバーに、お前もちょくちょく顔を出していることも」

「ぐぬぬ……」


 一流の産業スパイともあろうものが、他の組織に行動が筒抜けだったとは――。

 俺は己の甘さを嘆いた。

 この歳になって、改めて思い知らされる。『恋』とは、視野を狭めるとともに判断を鈍らせるものである――ということを。


「そして……お前らの思惑通りに、俺はここにやって来た。どうしたいのだ?」

「簡単なことだよ」


 やや納得のいかない表情のボスが、右の人差し指を自分の顔前に突き立てた。


「お前の持っている機密情報と、彼女の身の安全とを交換したい。残念ながら、あれから数日、彼女はまったく口を割らなかった。機密情報の含まれるサーバーへのアクセスパスワードすらもな」

「俺の情報と彼女の身を交換だと!? だが、俺はまだ――」


 そう云いかけた口を、急いでつぐむ。

 まだ何も情報は得ていない、と云ってしまえば己の能力の無さをアピールするようなものだ。かといって、掴んでいる情報はあると云えば、彼らは躍起になって俺に襲いかかってくるだろう。

 俺は、はぐらかし作戦に出ることにした。

 そのうち、隙を見て彼女を救い出せばいい。


「ふん、俺が情報を掴んでいるかどうかは云えないな」

「ほう……。それは、彼女がどうなってもいいということか?」

「いや、そうではない。俺が提案したいのは、別の取引だ」

「別の取引?」

「ああ、例えば高級乳酸飲料の『ミクリル100』一年分と彼女を交換するとか」


 深い溜息とともに頭を抱えた、ボス。


「お前にとって、彼女の命はそんなに安いものなのか? と云っても、よくクイズ番組とかで『一年分』というのがどんな量を示しているのか、いつも疑問に思ってるけどな」

「い、今のは冗談だ。わかった、こうしよう。俺は見てのとおり、忍者だ。一般人の知らないような技を何かひとつ伝授するという交換条件ではどうだ?」

「さっきから何を訳の分からないことを云っている? そうか……もういい。俺たちと取引する気はないという事だな。それでは――」


 ボスらしき男の言葉が、終わらぬうち。

 取り巻きの男たちが、一斉に俺を目掛け、襲ってきた。


「力づくでも、こちらに従っていただくまでだ」


 俺の『はぐらかし大作戦』は失敗に終わったのである。

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