Section2-1 花子の成長とダンディの男心
その日、ミクリルダンディこと『俺』――
齢、四十代半ば。
そんな俺にとって、日々の早朝勤務からの
しかし、そこは一流の゛産業スパイ゛なのである。プロの威信にかけても、貴重な情報獲得の場としての飲み会の場を逃す訳にはいかないだ。彼女らの二次会の会場となるであろうBAR「KATORI」にしかるべき時間に訪れ、
――なんて楽しみなんだ!
緑色のブレザーの下に隠れた胸と腕の筋肉をきびきびと動かしながら、俺は出発前のミクリル販売店で、意気揚々と配達準備を進めていった。
ところが――だ。
張り切り過ぎたせいなのか、はたまた、腹周りに付いた若干のぽにょぽにょしたものの重みのせいか、腰の痛みを感じて作業を止めざるを得なくなる。
腰を擦り擦り、横を見遣る。
するとそこには、ミクリル・ダンディこと俺の゛弟子゛といってもよい、
まだ二十歳そこそこで、独身の彼女。
若さ弾ける容姿もなかなかで頭脳もかなりの明晰さを持つ花子君なら、もっと給料の高い仕事でも活躍できるだろうに――とも思うのだが、彼女自身はここの仕事が随分と気に入っているらしく、この数か月間、ミクリル・レディーとしての仕事をエンジョイしている様子だ。
そんな頼もしい彼女のフォルムの中で、一際目立つものがある。
それは――躍動する、花子君の胸だった。
朝から踊る俺の胸の内に連動するかのように、彼女が動くたび、その胸も上下動して大きく弾んでいる。
――うむ、今日も順調だな。
何がどう順調かは俺にも分からない。
分からないが、納得の気持ちで大きく頷いた俺は、彼女に声を掛けた。
「花子君、今日も順調だね。もうすっかり俺のライバルだよ」
てきぱきと動かしていた手足を休め、花子君がこちらに振り返る。
眩しいくらいキラキラした笑顔から発したオーラが、ほんわかと俺を包み込んだ。
「そんなあ……。あたしなんてまだまだですよぉ、ダンディ先輩!」
でも実際、その言葉は花子君の謙遜そのものだった。
今では俺の売り上げを遥かに上回っている、売れっ子の売り子さんなのだ。この仕事がもしかしたら彼女の『天職』なのかもしれないと思うほどの、目覚ましい働き。産業スパイなどという
「でも確かにダンディ先輩、最近ちょっと元気ないですよね。何か心配事でもあるんじゃないんですかぁ?」
――鋭い。
やはりこの
スパイとして失格とも云えることだが、彼女に俺の態度や表情の変化を気づかれてしまっている……。とりあえずこの場は、誤魔化すほかなかろう。
「い、いや。そんなことはない……ぞ」
「そうですかぁ? なら、いいんですけどねぇ」
首を傾げながら、口元をきゅっと曲げる彼女。
――か、かわいい。
思いやりのこもった優しい表情に、一瞬心を持っていかれそうになる。
だがしかし、俺の
「と、とにかく、もう行きなさい。お客様が待っている」
「了解です、ダンディ先輩!」
俺に一度手を振った後、花子君は意気揚々と営業所を出ていった。
額に流れる冷たい汗を拭っていると、背後でわが直属の上司、
仮の職業の上司とはいえ、俺は彼女を尊敬している。
「さすが、私が見込んだダンディさんね。後輩をきちんと教育し、その才能を伸ばしている……。あなたの時給のアップを、係長に云っておくわ」
「光栄です……。ありがとうございます!」
しかし、そんなことがあっても、ミリア電子へと向かう俺の足取りは重かった。
というのも、ここ最近、俺の頭を占拠することが多くなった『ある事柄』が再び俺の頭を
云うまでもなく俺のミッションとは、【ミリア電子株式会社の企画開発部における新製品の機密情報を入手する】ことであり、そのミッションがクリアされた時点で、俺のミクリル・ダンディとしての『裏の仕事』も終わることとなる。だがそれは、毎日のように知美さんと会えなくなることを意味し、情報をクライアントに流すという行為自体が知美さんを裏切るということにもなる。
とはいえ、プロの企業スパイとしていつまでもクライアントを待たせるわけにもいかない訳で――。
まるで、二つの大きな壁に挟まれた小さな空間に迷い込んだ一匹の鼠――。
そんな心持ちで深いため息をついた道端で、俺は、ひっそりと構える一軒の古本屋を見つけたのである。
――こんなところに古本屋が?
新しいはずなのに、何十年も前からあるかのような古ぼけたたたずまい。だが、思わず立ち止まってしまうような何かが、その店にはあった。
まだ午前の早い時間なので店は開いておらず、入口にはシャッターが降りていた。
一際俺の目を引いたのが、その店の看板だ。
こじんまりした店先の壁に掲げられた、海の水平線から太陽が昇る図柄――「日の出」のマーク。
――仕事終わりに寄ってみるか。
そうして仕事を終えた俺は、再び古本屋の前にいた。
もちろん、ミクリル販売店へと帰る、その途中のことだ。
『日乃出書房』
横開きのサッシドアを開け、中へと入った。
たくさんの本が積み上がってできた二つの壁の、その間の細い通路を抜けて奥へと進んで行く。するとそこには、白髪の老人男性がレジスターの置かれた小さな事務机の前で背中を丸めながら座っていた。
チェーンの付いた金縁眼鏡の奥から注がれる老人の視線は、なにやら古めかしい書物のページを追っている。
「いらっしゃい……」
俺の気配に気づいた老人が眼鏡をはずし、首からそれをぶら下げる。
視線を本から俺へと移した、そのときだった。不思議な力を伴ったオーラが老人の全身から噴き出した。とはいっても、俺のような『プロ』でなければ感じられないような、特殊なオーラではあったが――。
彼の眼力の強さに、思わず一歩下がってたじろいでしまった、俺。
そして今、目前で起こっていることを確信した。
「……やはり、あなたでしたか」
ようやく口から出た俺の言葉に、老人が小さく頷いた。
そして、手にした古書を机に置くと、まるで何十年ぶりかに会う友人にするかのように、懐かしげな表情でゆっくりとその両目を細めていった。
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