Section1-6 ダンディ、夜の舞を披露する
夜の
だが最近は、俺たちのような
いくら黒い服を着たところで、人々の目に触れてしまう確率は昔に比べて数段高くなったのである。
それに、連日の夜勤務なのだ。
正直、夜が早く朝の早い生活に慣れてしまったこの体には、ずしりと応えていた。
だがそんなことよりも、もっと気になることがひとつあった。
久しぶりに身に着けた“夜の活動服”が、ひと回りほどサイズが小さくなったような気がするのだ。それとも、洗濯して縮んでしまったからなのか……。
とそのとき、ふと身の毛もよだつ恐ろしい言葉が脳裏を
――もしかして、俺が太ったとか?
いや、いや、いや。
そんなことはない、はずだ。俺に限ってそんなことはない、はずだ。確かに最近、体重計は怖くて覗いてはいないのであるが……。
そうやって、必死に頭の中で否定をする。
大体、一流の企業スパイにして
西洋から渡って来た“靴”ではなく日本伝統の“
――うっ。
ぷよんとした嫌な感触があった。
俺の脳が、それはなかったものとして、勝手に脳内処理をしようと決めたその瞬間だった。
不意に感じた、他者の気配。
――ほほう。まさか時を同じくして、アイツも来るとはな。
「よう、総一郎。忍者服を着たお前の姿、久しぶりに見たぞ」
「ああ、大五郎。お前こそな」
「あれ? 総一郎、その揺れる
「あああああッ! いいから、もうそれ以上は云うな!」
足の回転のスピードを上げ、ヤツとの距離を離すことにより、会話を途絶えさせる。
ふふふッ……。
人を嘲ったような笑い声が後ろから聞こえたような気もしたが、そこはスルー。
暫く走り続け、視界に入って来たのは、見覚えのある三階建ての建物だった。そして辿り着いた、吉田精密設計の玄関前――。
ほぼ同時に足を止めた俺たち。
少しだけ上がった息を整えると、同時に辺りの様子を窺った。丑三つ時のこの時間では、さすがにそこかしこの電気は消され、辺りはしんと静まり返っている。
「大五郎、どうしてお前がここに?」
「私は、バーの経営者だぞ。そして吉田さんは、ウチの常連客なのだ。助けない訳がないじゃないか。だが、それと同じ質問をお前にもするぞ。お前こそ、どうしてここに?」
「そんなの決まってるじゃないか。乳酸飲料の、大事な顧客にお願いされたからさ」
「ふうん……。だが、よくここが“クサイ”と分かったな。俺はお前と違って優秀な
「“こうが”ではない。“こうか”、だ。一々、間違えるな」
わざと
『免許皆伝』
この言葉は青春時代の苦い思い出として、俺の心に深い傷跡を残している。
「ふん。済まなかったな、免許皆伝じゃなくて……。だが、今では俺もれっきとした職業スパイなのだよ。天下のミクリル・ダンディの情報網を馬鹿にするな」
「ほお、情報網ね……」
「そのことは、まあいい。大五郎。お前に訊きたいことがある」
「訊きたいこと? なんだ?」
「お前の
「ああ、悪いか? 私はあのレトロな雰囲気が好きなんだ。だが、今はそんなこと云ってる場合じゃないだろう?」
「……やっぱりな。あと、もうひとつ。店のコースターが無くなった――なんてことが最近なかったか?」
「確かにそんなことがあった気がするけど……。だけど、それに何の意味がある?」
「実はな、“あそこ”にあったコースターがやけに新しくて――」
「あそこ?」
とそのときだった。
今まで真っ暗だった自宅兼社屋の建物の2階にある小さな窓に、ぱっと明かりが灯ったのだ。夜も更けに更けた、こんな深夜だというのに、だ。
「……さて、もうおしゃべりする時間は無くなったようだぞ、大五郎」
「ああ、そのようだな。総一郎」
大五郎は、玄関の鍵の形式を確認すると懐から太い針金のようなものを2本取り出し、玄関の鍵へと差し込んで、カチャカチャとやった。
ガチャン――。
まあこんなものさ、と大五郎が自慢げに目配せをする。通常の鍵を開けることくらい、伊賀者には朝飯前らしい。
「伊賀者は、妙な技も持ってるんだな」
が、俺の軽口は無視された。
音もなく扉を開けた大五郎は、【先に行け】と俺に目で指示をする。命令されるのは癪だが、ここはヤツに従うことにして、屋内へと入る。
つつつ、と音もなく廊下を進み、事務室前へ。
俺の背後には、大五郎がピタリとついている。
ドアに嵌め込まれたガラス部分から漏れて来る明かりはなかった。とすれば、当然、事務室には誰もいないはずだ。それは想定内である。
だが、問題はこの先だった。
忍者は夜目が効く。
なにせ
だが、今は21世紀なのである。
人間の夜目の力より、文明の利器――。
俺は懐から人差指ほどの大きさのLEDライトを取り出し、青白い明かりを点灯させた。
「おい、総一郎! なんだよ、忍者がそんな道具を使っちゃダメだろうが」
「何、云ってんだ。古いな、大吾郎。今どきの忍者はな、ハイテク機器も使いこなさなければならないのさ」
「フン。私はそんなもの認めない。それに……LEDなんて、今どきそんなにハイテクってほどのもんじゃないだろうが」
小声での、二人のやりとり。
そんな間にも、ここ最近の間で見慣れた机の並びを抜け、奥へと進む。
ミクリル販売の時には、常に専務が立ちはだかっていて行くことはできなかった、事務室の奥のスペースだ。
ひんやりと冷たい感じのするリノリウムの通路。
その右手前方に倉庫部屋らしき部屋があり、少しだけ開いたドアの隙間からうっすらと明かりが漏れているのが見える。
マッチの燃えさしが落ちていた位置は、恐らくはその倉庫部屋の真下なのだろう。
少し通路を進む。
すると、部屋の中から微かに人の気配がした。
俄然、俺たちの間に緊張の糸が張り巡らされる。
――数人いるのか?
大五郎に、アイ・コンタクトで合図を送る。奴は、深く頷いた。
――いくぞ。
LEDライトを消して冷たい廊下を抜き足で進んでゆく。
やはり、足袋はいい。
このフィット感、そして無音感。忍者には、必需品だと改めて感じた次第だ。
「――そろそろ、教える気になったか? アンタが隠してる財産の在り処をいい加減教えてくれないと困るんだって! もう、待つのも限界だぞ」
低くくぐもった声の誰かが、捕らわれた誰かを脅しているのは明らかだった。
ドアの左右に分かれ、再びのアイ・コンタクト――。刹那、大五郎が気配を消した状態でドアをゆっくりと開ける。
部屋の中が見えた。
――敵は二人!
そのすぐ後だった。
右手のナイフをちらつかせた敵のひとり――澤田とかいう名の若手社員――が、眠そうな目でこちらを向いたのだ。
その横には、大きなマスクを口に当てた女が、ひとり。
女の足元には、手足を縛られ、まるで棒のように床に転がっている男性の姿があった。その顔を、女の右足がぐりぐりと踏みつけ、白い床に押し付けている。
「ん? 誰だ!」
だが、若者がそう叫んだ時には俺の手裏剣が既に空を斬っていた。大五郎は、吹き矢でもう一人の敵に攻撃。
「ちょっと、あんた達……。って、どうして忍者がここに?」
驚きのあまり大口を開けたせいだろう、口を覆っていたマスクがはらりと外れ、そこに紛れもない吉田専務の顔が現れた。
大吾郎の放った吹き矢が刺さった左手を抑え、恐怖の目をこちらに向ける。
一方、右手に手裏剣が突き刺さった男は、握っていたナイフを床に落とし、ただ呆然とするばかりだった。だが、その眼は初めて見る我々忍者に奪われてしまったのか、アクション映画を見る子どものようにキラキラと輝いていた。
そんな隙だらけの男の脇へとすかさず移動し、みぞおちに一撃を与える。夢見心地で、落ちて行く彼。
残りは彼女だけだ。しかし、それも時間の問題だろう。大五郎の放った吹き矢に仕込まれた麻酔薬が、そろそろ効いてくる頃だから。
「フン……このクソがっ!」
倒れる前、整った口元から放たれた、腐りきった言葉。
無念の表情を残しながら、専務は冷たい床に崩れ落ちた。
「社長……大変でしたね」
二人がかりで腕と足に巻き付いていた紐を解き、猿ぐつわを外すと、吉田社長は生き返ったように、ぷはあ、と息を吐き出した。
「た、助かった……ありがとうございます。でも、アナタたちは一体……」
忍者服で唯一外気に曝している“目”を合わせた俺たち二人は、一瞬、返答に窮した。が、大五郎が代表として、その質問に答えた。
「えーと、ただの通りすがりの忍者です」
「え、ええ。そうなんです」
「通りすがりの――忍者???」
増々混乱したのか、社長はカメレオンの如くその表情をぐるぐると変化させた。
だが、社長に我々の顔を覚えられてしまうのは困るのだ。顔のほとんどが布に隠れているとはいえ、念には念を入れておく必要がある。
目にぐっと力を込めた俺は、右目で一度軽くウインクするように社長の目を見つめた。
途端、社長の目付きがとろんとし、がっくりと項垂れたかと思うと、ぐうぐうと幸せそうな
「おい、総一郎。お前、今、社長に何をした?」
「あ、いや特に……。まあ、俺の“熱い視線”に参ってしまったってところだ」
「熱い視線だと? なんだよそれ、気持ち悪いな……。まあ、きっとしょうもない甲賀の技なのだろうが、とにかく今はそんな話を聴いている暇はないな」
「ああ……その通りだぜ」
俺の「瞳」の能力については極秘事項なのだ。
特に、伊賀者には絶対に知られてはならない――。
残すは、現場の後始末だった。
監禁犯の二人をギュウギュウに縛り上げ、会社の電話を使って警察に連絡する。きっと最後の仕上げは、この国の優秀な警察がすべてやってくれることであろう。
「よし。これで、今日の所は解散ということだな、総一郎」
「ああ。今日の仕事、一丁上がりってとこだ」
「あーあ、しかし今日は店を臨時休業にしてしまったし、稼ぎが減ったぞ」
「まあ、そういうな。俺も久しぶりの夜間勤務で、体がくたくただもの」
そんなくだらない会話の後。
俺たちは、それぞれに音もなく、夜の闇に再び紛れたのであった。
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