第22話 テスト前日、過去の写真

 テストの前日になった。


 朝の空は、少し曇っている。太陽が顔を出しては隠れるのを繰り返し、なんだかはっきりしない天気である。


 ゆっくり、ゆっくりと歩きながら、校門へ向かう。きっと端から見れば俺はゾンビのように見えるだろうな。それは丁度、昼に俺へ饅頭を渡しに来た蘇芳のような感じだろう。怠け者と疲労しきった人間が似たような動きをするというのは、何とも皮肉っぽい。


 ようやく校門にたどり着いて、俺は一息つく。そして、ふと空を見た。雲から、ゆっくりと太陽がその姿を現そうとしている。


 瞬間。

 眼の前が、じんわりと中心から黒くなっていった。身体が言うことを聞かない。冷や汗が出た。


 倒れる。

 そう思った。その時の感覚は、以前に病院へ運ばれた時のそれと、あまりにも似ていて。


「……っ!」


 すると、誰かに手を掴まれた。その手はやたらに温かく、他人に触れたことで初めて、俺は自分の手が冷たいことに気がつく。


 手を掴まれて支えられたことで、俺は何とか倒れずに立っていられた。思わず閉じた目をゆっくりと開くと、俺の手を掴んだ相手の顔がそこにあった。


「あ」


 周防が、俺の顔を睨んでいた。への字口で、眉間に思いっきり皺を寄せて。今にも何か言い出しそうなのを堪えていると言った様子だ。


 さっきの俺の様子がおかしかったのに気付いたから、周防は手を伸ばしたのだろう。そして周防は、直ぐにその原因が思い当たるはずである。


 ほら、言わんこっちゃない。


 軽く涙で滲んでいる周防の瞳が、そう言ってきた気がした。それとも、俺が本当は自分の身体の危険な状態を自覚しているから、そう思えるのかもしれなかった。

 周防はきっと、こういう事態になることを予期していたのだ。俺の身体に限界が来ることを。


 まだ、身体はだるい。

 でも、一先ず、こんな無理は今日明日で終わりである。


「……ありがとな。ちょっと躓いちゃって、悪い」


 俺が精一杯の強がりを見せると、周防は手を離し、先に教室へ行ってしまった。重い足では、のんびりとした周防にさえ追いつけない。あるいは、周防が今日は早足なのかもしれなかった。


 何とか教室に到着して、荒っぽく着席。疲れたとか辛いとか、そういう言葉が浮かぶより早く英文を読み込む。


 テスト前日ということもあり、授業はその殆どが自習だった。流石に皆気合を入れて、静かに勉強している。聞こえるのはシャーペンの紙と擦れる音、ノートを捲る音、後は周防の静かな寝息くらいだろうか。


 勉強をするには、申し分ない環境だ。

 目頭を強く押し、頭痛を緩和。なんかもう、全身が苦しい。


 何故俺はこんなことをしているのか。

 そんな疑問が頭を過る。


 そんなの、彩華に勝ちたいからに決まっている。今までの努力を無駄にしたくないからに決まっている。


『努力は裏切らない』


 つまり、今まで俺の努力の結果が勝利という形で表れなかったのは、俺の努力不足だ。

 だから、やる。


 じゃあ、努力が報われた後は? 俺はどうするのだろうか。今までの人生の目標を果たした俺は、その後、新しい何かを見つけられるだろうか。


 疲れているせいか、思考が妙なところへ向かった気がした。

 それより、今は勉強だ。それ以上に大切なことなど、今に限ってはあるものか。






 放課後。溢れる人で満員電車のようになった自習室は勉強には向かないと判断した俺は、職員室近くにひっそりと置かれている勉強スペースを使うことにした。


「おい、夜船」


 席に座って直ぐ。低く、どこか落ち着く声が、背後に響いた。


「どうかしましたか、先生」


 聞くと、冴島先生は隣の椅子に座り、俺の顔をじろじろと観察しだした。そういうことをされると、流石に勉強に集中できそうにない。


「なんですか」


 先生の方へ向き直ると、太い黒縁眼鏡の、分厚いレンズのその向こう。先生の茶色がかった瞳に、疲れ切った様子の男が映っていた。


「お前、大丈夫か」


 真剣な声色だった。まさか、テストの準備のことではあるまい。俺は一度ぶっ倒れた、いわば前科持ちだ。先生が俺の体調を気にするのも当然といえば当然だ。


「何とか、大丈夫です」


 先生の瞳に映る疲れた男が、ボソボソと口を動かした。


「まぁ、無理すんなよ。……その、咲が、な」


 先生が頭をぼりぼり掻いて、少し困ったような表情をする。


「周防が、どうかしたんですか?」


「咲がお前の様子をちゃんと見とけってうるさいんだよ。何かあるならテメェでやれって言ったんだが、それは無理とか抜かしやがった」


 先生は話しながらその時のことを思い出したのか、頭を抱えた。「あいつ勉強してんのかな……」と小さな呟きが聞こえる。


 どうやら、喧嘩をしても、周防は未だに俺の心配をしてくれているらしかった。考えてみれば、俺が一瞬倒れそうになったのを助けるなんて、身構えていなければ難しいだろう。


「お前ら喧嘩でもしたのか?」


 先生の問いかけに、俺は頷いた。もう目線は教科書に戻っている。特に今日はテスト前日なのだから、一秒たりとも無駄にする訳にはいかない。


 しかし、他方で周防のことが気になる自分もいた。だから先生を追い返しもせず、俺はこんな状態にいるのだ。


「頑固な夜船はともかく、咲は喧嘩する……というか、喧嘩出来るタイプだとは思わなかったな」


 先生が意外そうな声を出す。確かに普段の良くも悪くも無気力な感じを見ていると、喧嘩する気力があるのか疑問だろう。周防と付き合いの長い先生が言うのだから、周防があんなにも怒るということは、結構珍しいことなのかもしれなかった。


「……言い合いになったんです。俺って結構勉強で徹夜しがちなんですけど、それを注意されて。先生は、どう思いますか? 限界まで頑張るべきか、適当に休むべきか」


 この際、先生に気になっていることを全部聞いてしまおうか。その方が、むしろスッキリした状態でテスト当日を迎えられそうな気がする。

 先生は俺の言葉を聞き、苦笑した。


「そういうことか……まぁ、幾ら学力があっても、どんなに有能でも、死んだらお終いだからな。俺としては、休むべきだと思うぞ」


 予め答えを持っていたかのように、先生は言った。

 確かに、学力と命の二つを天秤にかけるならば、大抵の人は答えが決まっているだろう。

 先生の意見は単純明快で、一般的だった。


 しかし、俺はその『学力』に色々なものが絡みすぎている。そもそも命を掛けるというのは、比喩表現というか、流石に勉強のし過ぎで死ぬところまでいくとは思えない。死ぬつもりだって、俺にはない。


「何で、周防はあんなに休むことに執着するんでしょうか」


 ずっと疑問だった。俺を休ませてくれたこと。授業中すら寝ること。言い合いの時の、あの怒りよう。どれも、ただの性格というのには無理がある。

 昔から周防のことを知っている先生なら、何かを知っているかと思ったが、どうだろうか。


「……それは」


 先生が、口を開く。やっぱり、何か原因があったのか。


「冴島先生!」


 すると、遠くから譲葉の声がした。上履きがキュッと鳴る音。彼女は飼い主を見つけた犬の如く先生の元へ向かう。


「せんせぇー!」


 譲葉が腕を広げて、先生へ抱きつこうとする。


「止めろ。今真面目な話ししてんだよ」


 先生は譲葉の腕を掴み、それを阻止した。「真面目な話をしている」という発言で、譲葉はようやく俺の存在に気付く。


「あれ、圭くん」


「……何で驚いてるんだ?」


「いや、自習室に居るだろうと思ってたから……」


 言いながら、譲葉は俺と先生を交互に見比べる。


「何?」


「先生、浮気ですか?」


 とんでもないことを言い出した。譲葉は先生を愛するあまり、先生と居る者は全員浮気相手に見えるらしい。先生が普通に教員としての職務を全うするだけで嫉妬に狂ってしまうんじゃないだろうか、コイツ。


「浮気なわけあるか。俺にそっちの趣味はない」


「じゃあ圭くんの片思いですね。良かった」


 譲葉がほっと胸を撫で下ろす。いや、何も良くないんだよなぁ。というか、先生さっき「浮気なわけあるか」とか言ってたが、もうそういう関係なのは否定しないのだろうか。


 ……いや、追求するのは止めておこう。譲葉がどんな反応を示すか分からない。出来れば早くこの不毛な会話を終わらせて、周防について聞きたいものだ。


「でも何だか不安になってきたので、携帯見ても良いですか?」


 そんなことを考えている間に、譲葉は冴島先生の携帯を手にしていた。


「いや、駄目に決まってるだろ。携帯なんて個人情報の塊じゃねぇか」


 呆れる冴島先生をよそに、譲葉は持っている携帯を何か操作する。


「まだパスワードは大学時代の学籍番号の下六桁なんですね」


「何で知ってるんだお前!?」


 先生が目に見えて焦り出す。どこで知ったのか知らないが、合っているらしいことは反応でわかった。

 譲葉怖い。


「分かった。どこが見たい。本当に生徒に見せちゃ駄目な奴もあるから、せめてどこを見るか言ってくれ」


 先生は譲葉に縋り付くようにして懇願する。あまりにも可哀想だった。生徒に手を出した報いと言えば、そうなのかもしれないが。というか、そもそも手を出しているかどうかさえ曖昧なんだっけ。


「じゃあ、写真だけ。彼女とのプリクラとかが無いかチェックします」


「元カノとかのはあります」


 先生は真顔で宣言した。なんかもう話を続けるのは無理そうなので、俺は二人を無視して勉強をし続けることにした。


 それから数十分もの間、譲葉は先生の携帯にある写真データを見続けた。「胸、大きいのが好きなんですね」とか譲葉が言い出したのは、元カノとやらが全員そうだったのだろうか。


 最早その痴話喧嘩を勉強中につけるラジオ感覚で聞き流していたわけだが、そのうち、話題が興味深いものになっていった。


「これ、周防さん?」


「あぁ、そうだな。この時は……小学五年生」


「わー、可愛い! 腕を組んでいるし、これは浮気と言って差し支えないですね」


「あるわ。判定厳しすぎるだろ」


 どうやら、先生の携帯から周防の昔の写真が出てきたらしい。


「圭くん、ほら、小さい頃の周防さん」


 譲葉が机に向かう俺の前に、携帯を差し出す。

 癖毛の少女が、麦わら帽子を被り、公園を駆け巡っている写真。日焼けした肌には、玉のような汗が流れていた。


「……昼間から、活発だったんですね。この頃は」


 反応を伺うように、俺は先生をちらと見る。


「そう言えばそうだね」


 と相づちを打ったのは譲葉だ。肝心の先生はというと、ただ写真を見つめている。その横顔はどこか寂しげだった。


「もうちょっと見ちゃお」


 譲葉がフリック入力をすると、幼き日の周防が沢山写っていた。一緒にどこかへ出かけたのだろうか。


「何でこんなに周防さんを撮ってるんですか」


 譲葉が拗ねたように言うと、先生は慌てて


「これは頼まれたんだよ」


と弁明した。


「頼まれた?」


「恵……周防の兄貴にな、頼まれたんだよ。あの時、俺の携帯の方が、アイツのより画質が良かったから」


 周防の兄。つまり、その時は三人で出掛けたのだろうか。いつか、周防が寝ている時に「おにいちゃん」と言ったのを思い出す。かなり仲がいい兄弟なのだろう。


 そのことを証明するように、譲葉が見せた次の写真では、冴島先生と、周防と、周防の兄と思われる人物。その三人が肩を組んで笑い合っていた。遺伝なのか、兄も癖っ毛。こげ茶色の瞳が印象的で……。


「ん?」


 どこかで見た顔だった。

 見たことは一度でも、何度も思い出した顔だった。


「圭くん、どうしたの?」


「俺、この人、知ってるんだけど」


 なんという偶然だろうか。

 見間違えるはずもない。俺が小学校の頃に出会った、あの高校生。『努力は裏切らない』という言葉を俺に教えてくれた人。


 あの人がまさか、周防の兄だったなんて。

 考えてみれば二人の外見は似ていたかもしれない。でも、性格があまりに正反対すぎて、そんなこと考えもしなかった。


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