第19話 帰る場所

 ここはどこだろう?


 目がさめるとしばらくあたしは自分のいる場所がわからなかった。頭の中がはっきりしてくるにしたがって、今までのことを思いだした。自分が今ここにこうしていることがちょっと信じられなかった。


 いったいどんな巡り合わせがあたしをここまで運んできたんだろう? あたしはオペラハウスの部屋を出てから、ここにたどりつくまでのできごとを思い返していた。ところどころ記憶が定かでないところがあった。


 そうだ。あの女の人は元気にしているだろうか? あたしは起き上がると、廊下を通って奥の部屋へ入ると明かりをつけた。女の人はあたしが眠る前と同じ格好をしてベッドの上に横たわっていた。


 ベッドに近づくと女の人の額にそっと手を触れた。


 額はあたたかだった。あたしは安心した。スタンドをしばりつけた紐は緩んではいなかった。そばの機械を見たがおかしそうなところはなかった。緑色の光は点いていた。目盛りの針は、今は振り切れていないで、一目盛り分くらい減っているような気がした。


 あたしは空腹を感じた。キッチンに向かう前に洗面に立ちよると干していたジーンズを履いた。ジーンズはまだ湿っていたけれど、履いているうちに乾くだろうと思った。それから浴室のカゴに脱ぎ捨てていたセーターを頭からかぶった。外ではパーカを羽織っていたおかげで、セーターはあまり汚れてはいなかった。


 キッチンに着くと、冷蔵庫をのぞき込んだ。やっぱりあたしはためらっていた。こんなことをしていていいのだろうか? あたしは身勝手すぎないだろうか? 


 それでもあたしの目と手は、チーズのかたまりを見つけると取りだした。それから冷凍庫にあったパンも取りだした。パンはちょうどいい大きさに切られて冷凍されていた。オーブンを温めて中にパンを入れた。


 あたしはこの家の人に、何回もありがとう、っていった。でもやはり心は晴れなかった。こんなあたしでも、やっぱりどろぼう猫になるのは、いい気分じゃない。あたしはつくづく自分の力のなさを思い知らされていた。誰かに守られていないと、誰かから何かをもらわないと生きていけない。あたしは自分の渇いた唇をかみしめた。こんな風にしているだけじゃだめだ。何とかしないと。でも、あたしに何ができるだろう? 


 心の中から声がした。


 いいか、もともとおまえは捨てられた子どもだった。世話などしたくない、いらないといわれた子どもだった。おまえは息をしているだけでめんどうをかけている。だからおまえがいる場所などなかった。そんなおまえをフロレンは拾って育ててくれたんだぞ。それを決して忘れてはいけない。


 そのフロレンは今はいなかった。フロレン、どうしてあたしをひとりぼっちにしていってしまったの? あたしは頑固者だったけど。いやなことがあるのなら、いってくれればよかったのに。あたしに怒ってくれればよかったのに。フロレンにも見放されたあたしは、やはり、どこかでひとり静かに最後の時を待つ方がいいのだろうか?


 再び浮かんだ考えにどきっとして、あたしは目を閉じた。認めたくなかった。でもそうすれば、誰のじゃまにもならない。めいわくにもならない。うす汚れた手で、だれかの食べものを探しまわることもない。言葉がとまらなかった。みじめさで、かなしくなったり、恥ずかしさに、いたたまれなく、なったり、汚さに、自分がいやに、なったり……あたしは、もうやめようとした。


 でも、できなかった。自分の気持ちが、風車かざぐるまになってどこか遠くの丘の上でくるくる回っているような気がした。頭がじんじんとした。手が小きざみにふるえた。あたしは、やはりここを出ていった方がよいのだろうか? でも、そうしたら、あの女の人はどうなるんだろう?


 それはおまえが心配することじゃない。そのうちこの家の住人が帰ってくるさ。だから、おまえの助けなんか必要じゃない。


 でも、もし帰ってこなかったら? もう一度、同じことが起こったらどうするの? なにかおかしくなったらどうするの?


 この前はたまたま運がよかっただけさ。もともとおまえには機械が壊れたとしても直すことなんかできはしないじゃないか。どうやってあの女が生きているのか分かっているのか? どうやってあの機械が動いているのか分かっているのか? 答えられないだろう? おまえは無力だ。おまえは無能だ。おまえには何もできはしない。


 あたしの唇はわなわなと震えた。あたしは、だれかのためになることをしたかった。でもあたしには力がないことを知っていた。だからフロレンもあたしのことを見捨てて出ていったのだろうか? もはやテーブルの上のチーズも、オーブンの中のパンもあたしの注意を引かなくなっていた。あたしはやはりここを出ていこう。そう、あたしは思った。


 あたしは、体も心もふるえながら、家の中をできるだけもとどおりにすると、ランタンを持ち、扉から外へでた。あたしは廊下の奥の部屋に眠る女の人にお別れが言えなかった。その部屋に入ることすらできなかった。自分の中に何か大きな石のようなものがあって、あたしの足どりを重くさせていた。


 トンネルは相変わらず天井から降り注ぐ光でまぶしいほど明るかった。扉のそばのガラスの筒に入った時計は、九時四四分をさしていた。扉の横下から伸びている水道管をたどっていくと、あたしがやってきた小さな洞窟の入り口がすぐに見つかった。


 あたしは身をかがめてそこへ入り込んだ。


 ランタンに照らし出された洞窟はやはり窮屈だった。あたしの背中は悲鳴を上げ始めた。やっと小さな洞窟を抜けて、広い闇の空間に出ると岩の壁を左に見てなおも歩いた。しばらくして、あたしを救ってくれた、うずまき状の井戸の横を通りすぎた。


 歩く岩肌はごつごつとしていて、ときどきあたしはそれにつまずき、よろめいた。もうあまりひもじさも感じなくなっていた。ただビニールシートとリュックのところに戻りたかった。


 あたしはランタンの光もおよばない暗闇のだだっ広さの中で立ち止まり、深呼吸した。周囲の物音はすべて死んでいた。


 あたしの居場所はもはやここにしかないような気がした。


 ビニールシートとリュックはあたしが置いておいたとおりにそこにあった。ランタンの光にリュックの一部が遠くで反射しているのが見え始めると、あたしはもつれる足でよろけるように走りだした。途中で転んでジーンズが破れ膝から血がでた。


 あたしは片手をついて立ち上がると、再び駆けだした。


 ビニールシートとリュックにはうっすらと土ぼこりが積もっていた。あたしはビニールシートを広げるとリュックとランタンとともにそこに座り込んだ。


 ここがあたしの家だった。ここがあたしの帰る場所だった。あたしはここでは誰にも何もとがめられなかった。ランタンの光は黄色くあたりを照らしだし、そのすぐ外側には言葉を持たない暗闇が押しよせてきていた。


 少し休んでから、あたしはリュックのポケットに手を伸ばすとチョコクッキーの残り、一枚の半分をさらに半分に割ったものを取りだした。小きざみにふるえる指先で、包み紙を開いてしばらくそれを眺めた。あたしは膝の痛みを忘れた。包み紙を閉じると再びクッキーをリュックのポケットにしまった。背を伸ばすと顔を上げた。そして天空に広がるお星さまを思い描いた。お星さまも無言だった。

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