黄泉の国へ

第25話 煉獄

有紀の会社復帰初日は散々な結果になった。


 自分の乗った電車が、あっという間に何か黒いものに包まれて、気がつくと、時間だけが経っていたのだ。


 この不可解な事件に巻き込まれたため、結局有紀は会社には出社できず、念のためJR東日本直営のJR東京総合病院に検査入院する事になってしまったのだった。


 有紀の父、哲朗はテレビのニュースを見た後会社に連絡をするもの出社していないことがわかり事件に巻き込まれたことを確信して仰天、おっとり刀で現場に駆けつけようとしたものの非常線が引かれて近づく事すら出来なかった。


「闇」が消えた後でも、現場は混乱しており、有紀の消息は分からなかったが、繋がりにくかった携帯電話で妻 淑子と連絡が取れ、JR東京総合病院からの連絡で有紀がそこにいると伝えられた。


 新宿駅付近のみならず近隣の総合病院に、今回の事件に巻き込まれた約一万二千人が分散して搬送された。


 有紀の乗っていた電車の約四千人、西武新宿駅に居た約五千人、路上で巻き込まれた三千人が内訳だ。


 何十人かは体調を崩して点滴を受けたりしていたが、おおよその被害者たちは流れ作業のように心電図や脳波の検査と問診だけで帰途につかされた。


 ただ、人数が人数であるため、有紀にはなかなか順番が回ってこなかったのだ。


 哲朗はやっと有紀に会うことができた。


「有紀! だ、大丈夫なのか?」


「あ、お父さん」

 有紀は想像していたよりも遥かに元気だ。


「取り敢えず身体には異常はないみたい。心配かけてごめんなさい」


「よかった、良かった。いいんだ。お前が無事で父さんは何よりだよ。もう家に帰れるのか?」


「うん、係りの人がお父さんが迎えに来るって言ってたから待ってたの」

 哲朗はその言葉を聞いてホロリと涙が出た。


 ここ半年は有紀は慎一の死に打ちひしがれていて、食事も喉を通らなかった程だったのだ。


 何故自分の娘は何度もこんな悲劇に巻き込まれるんだ、そう憤っていたのだが、有紀が身体も元気で、今回の事件に精神的な影響をほとんど受けていないことがその一言で分かったからかもしれない。


 すっかり夜の帳が降りた新宿の空気は冷たく、そしてまだ其処彼処そこかしこで事件の検証が行わており、混乱に陥っていた。


 中央快速線も当然のごとく四谷と三鷹の間で運休になっており、西武線は運行をしていたが中央快速運休のあおりを受けて大混雑していたため、秋の身体を気遣ってタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらなかった。


 一時間も彷徨っただろうか。漸く新宿中央公園近くのグリーンタワービル辺りで客を下ろしたタクシーを無理やり捕まえることができた。


「運転手さん、日野までお願いできるかな」


「遠距離は有難いですね。どうぞ、ご乗車ください」

 哲朗と有紀は運転手に促されるまま後部座席に乗り込んだ。


「有紀、一体何が起こったのかお父さんに教えてくれ。アレはなんなんだ?」


「わたしにも分かんないよ。急に暗闇が大きくなって飲み込まれたの。あっという間よ」


「その後は?」


「まったく記憶がないの。意識が戻ったらすっかり西日が差していて、時間だけが経ってたの。乗っていた電車も動いたてたわ」

 甲州街道は渋滞していたが、それでも哲朗と有紀を乗せたタクシーは哲朗の自宅に二時間は掛からずに着いた。


 料金を支払い哲朗が降車すると運転手がドアを閉めて、


「娘さん、あの『闇』の中に居たんですね」

 と尋ねた。


 なんだ、藪から棒に薄気味悪い運転手だな、と哲朗が思っていると、


「娘さんも大変な星回りですねえ。お気の毒様」

 と不敵な笑みを浮かべて言った。


「おい! 君! それはどういう意味だ⁉」

 哲朗が声を荒げて言うと、


「それじゃあ毎度あり」

 と言って、タクシーを急発進させて行った。


「あの野郎。タクシーセンターに通報してやる」

 哲朗は怒りながら受け取ったタクシーのレシートを見ると、そこには、


「毎度ご乗車ありがとうございます。黄泉よみタクシー(株)」と印字されていた。


「何だ、黄泉タクシーなんてふざけた名前…」

 レシートには、連絡先は書いていなかった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 地獄は、悪人が死後落ちる世界で奈落とも言われているが、煉獄は天国との中間に位置し、現世との往来を可能にしている領域だ。


 玉依姫は ー 八咫烏の娘だが ー 生きたまま忽那によってこの煉獄に囚われている。父親の八咫烏同様、彼女もまた無理やり時空を超えさせられたのだった。


 忽那は、玉依姫に何かをするわけでもないが、煉獄に結界を張って玉依姫の行動を制限した。


 いつもどこから行ってしばらく戻らないが、時折戻ってきてはその大きな体躯からは想像できないほど繊細な、それでいて冷徹な視線を玉依姫に向けるのであった。


 忽那は黙して語らず、玉依姫が何を訪ねても答えることはなかった。


 ただただ、行動を束縛し、冷たい視線でさらに玉依姫を縛るのである。


 流石に長い年月忽那にそうされていると精神を病んでくる。玉依姫は、心身ともに破綻寸前だった。


 この煉獄には地獄に堕ちるほどではないが、罪を償う必要のある死者が来る。


 地獄との違いは、永遠の苦痛を与えられる地獄に対して、苦痛に耐え、罪を償ったと見なされれば極楽へ行けるということだ。


 忽那は、地獄と煉獄と現世の間を往来できる。


 そして時空すら自由に往来できる存在である。


 八咫烏から玉依姫を奪い、ここに匿っている。


 玉依姫は、久し振りに何処からか帰ってきた忽那に向かって、


「忽那様。私はいつ、お父様の元に返していただけるのでしょう」

 と、か細い声で聞いた。


 忽那が言葉を発したことは玉依姫の記憶の限りない。


 玉依姫に近づいては、おもむろに目を閉じて、踵を返して去る。その繰り返しだ。


 危害を加える事もしない。


 玉依姫が聞いていたような、恐ろしい、残忍な妖怪という一面を見たことは一度もなかった。


 またいつもと同じように忽那は目を閉じた。


「まただわ…」

 諦観にも近い感情が玉依姫の心の底に沸々と湧いた。


 そして、彼女は俯き、後ろを向いた。


「お前の父親と相見える事になった」

 玉依姫は驚いて振り返って忽那を見た。


「初めて、話してくださったのね」

 想像していたよりも、遥かに清らかな、透き通る様な忽那の声に驚いていた。


「お父様と相間見えるたたかうのですか」


「今、そう言った」

 忽那はそう言い残して、いつもの様に踵を返して檻から去っていった。


 憂のある表情、透き通った声。そして思いのほか優しそうな話し方に、玉依姫は忽那に興味をもった。


 父から引き離し、ここ煉獄に匿った憎い相手なのに。


「いえいえ、私は、彼の方を許してはいないのです」

 独りごちた玉依姫は忽那が自分の侍女を引き裂いた後、ここに連れてこられた日のことを思い出していた。


「父上にお力を」

 と、目を瞑って俗世の入り口に向かって祈りを捧げた。

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