白日《snow blind》──傷付けられた少年と傷付けた少女──

黒須

第1話 新たな生活の始まり

 電車の窓を流れる景色はどこまでも目に優しい、生命力に溢れた緑が続いていた。 六月半ば──梅雨時の降りしきる雨で土壌に蓄えられた水分と、初夏の日差しから受け取ったエネルギーで育った樹々が雄大な山々を覆い尽くしている。


 その場にいるだけで元気になりそうな大自然の中を走る車両に揺られ、しかし彼はその景色に目を向けるでもなく本を読んでいた。 スマホをいじりたいところだが圏外になってしまっていてどうにもならない。


──田舎だよなぁ……──


 横目で見た色濃く深い山の風景に少年──柴谷しばや総司そうじは内心で独り言ちながらため息を吐いていた。

 この一ヶ月に起きたことは総司の人生において激動と、そう呼ぶべきものだ。 そのせいで、こうして突然、都会から田舎に引っ越すことになった。 その不便さに思いを馳せて気が滅入ることもないではない。


 だがそれ以上に、環境が変わることが今の総司にはありがたかった。 母親のしでかしたことについて何も思わないわけにはいかなかったし、精神的にも少し参っているところはあったからだ。


──確か高校は30人いないんだっけ? 仲間外れとかされないといいんだけど──


 総司が聞いた話だと全学年で30人未満、閉校や合併があってもおかしくない、まだ残っているのが不思議なくらいな田舎の学校だ。

 田舎は閉鎖的なところが少なくない。 よく聞く話ではあるが実際はどうだろうか。 子供同士ならそうでもないだろうと、期待したくはある。


──やっぱ友達と楽しく過ごしたいもんな。 可愛い娘がいたら彼女とか……はまあ難しいか──


 人数も少ないし、可愛い娘がいてもすでに彼氏がいる可能性は高いだろう。 その辺りはあまり期待せず、とは言え思春期男子としては淡い期待も捨てきれずに、総司は新しい生活に思いを馳せる。

 そう──これからは新天地での暮らしが待っている。 もうじき到着することを告げるアナウンスに、期待を膨らませて電車を降りる準備を始める総司は全く想像していなかった。


 ──自分があんな目に遭うことになると。




「どうだ? 田舎でびっくりしたか?」

「思ったほどじゃなかったかな。 もっと何もないかと思ったよ」


 車の窓を流れるのどかな景色を見ながら、隣で車を運転する父、智宏ともひろに、総司は正直に思ったことを伝える。

 実際、智宏から田舎と聞かされて思い浮かべていたほどにひどくはなかった。


 駅の周りからして遊ぶようなところもほとんどなかったが、車で走っていて店の一軒も見かけないわけではない。 本屋や酒屋、小さい雑貨店や食料品を扱う店くらいは相当に古い店舗だがあったし、居酒屋なども一応はある。


 とは言え、見渡す風景のほとんどを畑が占め、民家の間の距離もかなりあるような田舎町には違いない。 コンビニの一つもない辺り、相当な田舎と言えるだろう。


「不便なことに変わりはないが……さすがにお前を独り暮らしさせるのは難しいからな。 すまん」

「父さんが謝ることじゃないよ。 あんなことしてたあの女のせいなんだから」


 申し訳なさそうになる智宏に、総司は父の心労をおもんぱかり気にしないよう心中を伝える。 実際、父に責任はない──総司はそう考えていた。


 智宏は大手ゼネコンに勤めている。 ダムの建設で現場監督としてこの田舎に単身赴任して二年が経過していた。 その間、一、二ヶ月に一度程度しか家に戻ってこなかったのは事実だ。

 しかし父として、夫として、離れていても家族に心を配っていてくれたことは間違いない。


 それなのにだ──母は浮気をしていた。 それが発覚した。 見つけたのは他でもない、総司だった。


 二ヶ月ほど前、体調が悪くて総司が早退した日のことだ。 駅まで迎えにきてもらうほどではなく、熱で少しばかりだるい体を引きずって家に帰ると、知らない車が駐車スペースに停められていた。


 母の友人がきているのかと、その程度に考えて家に入った総司の目に、玄関に揃えて置かれた男物の靴が映った。 父のよりも明らかに大きなそれ──母にも男の友人や知り合いもいないではないだろう。 しかし、総司は不審を抱かずにいられなかった。


 一階のリビングからは話し声が聞こえなかったにも関わらず、玄関のドアを開けた音に反応がない。 体調が悪いから勢いよくは開けなかったが、この静けさの中で一階にいて聞こえないはずはないだろう。


 二階は自分の部屋と両親の寝室だ。 そんな私的な場所に男といるのだとしたら──熱のせいだけでなく、嫌に喉が渇くのを感じながら物音を立てないようにして家に上がると、二階から微かに人の声がするのを総司の耳は捉えた。


 靴が揃えられていたから泥棒や強盗の可能性は低い。 それでも否定したい想いを抱え、嫌な動悸を刻む心臓を押さえながら階段をそっと上がり、総司の耳ははっきりとそれを捉えてしまった。 聞いたこともない母の艶を帯びた声が、寝室のドア越しに漏れ聞こえた。


 踏み込む勇気はなく、総司は震える手を抑えながらスマホを取り出すと寝室の扉に向け、母のオンナの声を動画に収めた。 ほんの一分程度──それだけの時間がやけに長く感じられた。


 もう十分だ、聞きたくないと、撮影しながら階段を降り、玄関の靴を動画に収めてそのままそっと家を出た。 車のナンバーもしっかりと撮影し、さらに体調が悪化した体で物陰に隠れて家から男が出てくるのを待った。


 一時間も経った頃、ようやく出てきた男の姿を写真に収め、少しの間を空けて帰宅すると、そこにはいつもと変わらぬ母がいた。 体調が悪くて早退したと伝えると、心配して世話を焼いてくれた。 その様子に普段と違う、特別なことを、後ろめたいことをしていた様子は何一つ感じられなかった。


 夢だったのか──そう思いたくても、スマホにはしっかりと母が浮気をしていたシーンが、実際の場面ではないもののそれを確信させる動画が残っている。


 数日間、総司は悩んだ。 どうするべきなのか。 軽々しく父に言えたものでもないが見過ごすこともできない。

 母も寂しかったのかも知れない。 それで一度だけ過ちを犯した──もしそうなら見なかったことにしようと、総司は確認することにした。


 こうした相談をするには便利な場所がネットにはある。 掲示板に書き込み、どうやって確認するべきか、その他についても色々と相談をして、総司は寝室にボイスレコーダーを仕掛けた。 録音は12時間程度しかできない安物だが、集音性は悪くないものだ。


 毎朝、学校に行く前に両親のベッドの下にテープで貼り付け、帰ってから確認をする。 それを続けた結果、確認できたのは母の浮気は一度だけの過ちではなかったという残酷な現実だ。

 毎週金曜、男との情事に耽る様がボイスレコーダーに生々しく収められていた。 父ではない男と愛してると睦言むつごとを交わしメスのように交わる、聞くに堪えない音声は総司の心を無慈悲に切り裂き、蝕んだ。


 一ヶ月、総司にはそれ以上耐えられなかった。 久方ぶりに父が帰宅した時に、母もいる前で全てをぶちまけた。

 最初の動画と家を出る男の写真、それにボイスレコーダーの音声をまとめたものを全て父に渡した時のことは今でも鮮明に思い出される。 真っ青な顔で動揺しきり、弁解する母だった女の姿は今でも目に焼き付いて離れない。


 結局、父は母を許さず離婚協議を進めることになった。 母は実家へと帰り、相手の男には慰謝料を支払わせることが決まっている。

 離婚協議はまだ進行中だが母に総司を任せることはできないと、総司は父の単身赴任先に引っ越すことになった。 もちろん、総司がそれを希望したこともある。 あの家にいると、ふとした時に母だった女の浮気が思い出され嫌な気分になるのを抑えられなかった。


 ショックはあるがトラウマになるほどではない。 高校二年ともなればそこまで子供ではなかった。 もちろん、自分自身が遭遇し、暴露したのだから心に負担はあるがそれが原因で塞ぎ込むほどでもない。


「学校も急に変わることになったしな。 お前にはしばらく苦労をかける」

「だからいいって。 友達くらいすぐできるよ」


 総司は人付き合いは割と得意だった。 コミュ力が高いわけではないが、小さい頃から智宏に教えられたことを守って、それなりに上手くこなせている自信はある。 そこまで心配してはいなかった。


「それより料理くらい覚えないとね。 父さんもそんな自炊してないんでしょ?」


 単身赴任の智宏の食生活は買い込んでおいたレトルト食品やインスタントが大半だと、以前に母に話していた。 忙しくて自炊する余裕はなかったらしい。 面倒くさくはあるが、育ち盛りの高校生がそればかりというのはさすがに体によくないだろう。


 あまり遊び歩ける環境でもないし、料理くらいは覚えてもいいかも知れないと総司は考えていた。 大学に行って独り暮らしになるかも知れないことを考えたなら、むしろ今の機会に覚えるべきだろう。


 もっとも、総司がそんなことをわざわざ口に出したのは父への気遣いからだった。 父の心労を軽くしようと、前向きなところを見せようと考えたのだ。


「そうだな。 休みの日にでも一緒にやってみるか。 河原でバーベキューなんかもいいかもな」


 総司の気遣いは智宏にも伝わっていた。 息子の気遣いに応え、殊更明るく答える。


「夏休みには落ち着いて休みも取れるようになるといいね」

「総司も仲のいい友達ができたら誘ってパーッとやりたいな」


 のどかな道を走る車の中で、父子二人はこれからの生活を前向きに話し合いながら、新たな生活を始める家へと向かって行く。



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