眠れない夜の傍に
宇月零
アイ
お気に入りの喫茶店で時間をつぶしていると、見知らぬ男が話しかけてきた。
「席、いいか」
と、ぶっきらぼうに言うと、返事を聞かずに私の正面の席に腰かけた。
他に席も空いているのに。冷たくあしらおうかと思ったが、丁度、読んでいた本に飽きていたところだった。少しだけ付き合ってみることにした。
四十代だろうか、緑色のトレーナーに色あせたジーンズ。雑にかきあげた前髪からは白髪ぽつぽつと露わになっている。
「お前、学生じゃないのか」
「大学生です。今日はずる休み」
「何読んでたんだ」
「恋愛小説」
お前、と呼ばれたことに腹立たしさを感じながらも、男の質問に答える。
こんな昼間から酔っているのだろうか、頬は少し赤みを帯びていて、身体が微かに揺れている。
「俺は社長と喧嘩して会社を辞めたんだ」
どこか自慢げに男が言った。それからは男の一方的な話を軽く流しながら聞いていた。
社長とは昔から気が合わないこと。
仕事を辞めて以来、奥さんが冷たいこと。
まともに口を利かずに、口を開いても喧嘩ばかりで、三日間帰宅していないこと。
そんな奥さんとは結婚して二十年が経つこと。
娘が一人いること。東京のゲーム会社に就職したこと。
仕事の話は苛立ちながら、家族の話は何処か自慢げに、男はひたすらに私に語った。
「あいつも若いときはあんたみたいに可愛かったんだけどな……」
「見た目が、ですか。それとも性格」
きょとんと男が私を見た。
「いんや……両方さ」
男はじっくりと味わうように珈琲のカップを口にすると、再び私を見る。
「でも、ほらあんたみたいに若い子は、パパ活……? っていうのやってるんだろ」
男と目が合う。私を男も視線は逸らさない。
「やってるよ。相手、してあげよっか」
喫茶店を後にし、駅の近くまで向かうと、辺りにホテルが見え始めた。
「ねえ、おじさん」
後ろを歩く男と目が合う。
「ただでいいよ。その代わり」
「……その代わり?」
「奥さんと別れて」
固まる。驚いたように目を開き、男は私を見る。
「住むところに困るなら、私の家に住ませてあげる。仕事が見つかるまで私の家に居てもいい。今ここで奥さんに電話で離婚するって言って」
追い打ちをかけるように、私は続ける。
「そんな仲悪いんじゃ、セックスもご無沙汰でしょ。満足させてあげる。好きなだけしてもいいよ」
男が息を呑む。
もちろん全部嘘だ。適当にホテルで相手をして、隙をついて男を置いていくつもりだった。ただ、私は試してみたかった。
「奥さん、もうおじさんに気が無いと思うよ。帰ったら奥さんから離婚してって言ってくるかも」
少しの間があった。察するに男にも思うところがあるようだった。
「……わかった」
男はポケットから折り畳み式の携帯を取り出し、電話を掛ける。
淡々と別れを告げ、奥さんも納得したのか、すんなりと電話が終わる。
男の表情はどこか険しい。
「これでいいか」
「うん。行こっか」
私は満面の笑みで男に言った。
男の隣を歩く。男の表情はよく見えない。
こんなものなんだと失望している私がいた。
けしかけた私も私だけど、こんな私に終わりにされる程度の愛だったのかと呆れる。
正直なところ、むしゃくしゃしていた。たとえ二十年も続いたとしても、永遠には続かないのだと証明したかった。
馬鹿な男に、せめて、一時の幸福と快楽を授けましょう。
男の隣を歩く。男の表情はどこか悲し気で、
「出なくていいの」
男の携帯が鳴っている。
「いい」
男が携帯を取り出し、着信を切る。男が携帯をポケットに仕舞おうとすると、再び携帯が鳴りだした。
男と目が合う。困ったように男は私を見る。
「出なくていいの」
男は視線を落とす。携帯は鳴り続けている。
「二十年間、一緒に過ごしてきたんでしょ。辛いことも楽しいことも二人で共有してきたんでしょ」
驚いたように私を見る男の表情は、どこか救いを求めているようで、
「私みたいな女に終わりにされていいの」
男が首を横に振る。後ろめたそうな表情で私を一瞥すると、電話に出る。
残念なような、安堵するような変な感覚。
どこか申し訳なさそうに、ああ、と呟く男を背に、私は歩きだした。
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