13.何やらもう何が何だか、何がされようが何が起ころうが、もう何でもいいような気がしていた。
いや、それはない、と彼は思う。一族は基本的にその個人情報を外には漏らさない。
自分を帝立大のキャンパスで見た? それは可能性がある。だが、あのだだっ広いキャンパスで、その偶然はひどく確立が低い。
Gは何だが訳が判らなかった。
単純に、あの中から「飛ぶ**」の同業者を見つけだして始末するだけで済む、と思ってたのに、大した誤算だった。
第三の勢力。自分で伯爵に口にした可能性を考える。だがだとしたら、何故自分に。
何故。
考え出したら、止まらなかった。
衣装のまま、自室へ戻ろうとすると、部屋の前でふわり、と不意に白い羽根が視界を覆った。背後から白い鳥が、黒い鳥を抱きすくめようとしていた。
Gはやめて下さいよ、と軽くその手を払う。
「何かつれなくなったね、サンド君」
「一体誰のせいと思ってるんですか」
語調をやや厳しくしてGは言い返し、くるりと振り向いて、セバスチャンと視線を合わせる。
至近距離の、しかも背後からあの声が聞こえてくる状況というのは、なるべくだったら避けたいものだった。自分の意志ではどうにもならない感覚があることを彼は気付いていた。
「別に俺は、俺のせいだとは思わないけどな」
セバスチャンはやや斜に構えてふわふわ、と白い羽根を動かす。妙にそれは、天使の羽根をGに想像させた。それは先日の会話のせいだったろうか。
「じゃああなたは、それは僕のせいだって言うんですか?」
「それ以外の何だって言う?」
即答する彼に、Gはぐっと言葉に詰まった。確かにそうなのだ。
「俺の対応は、最初から別に何か変わったという訳じゃないぜ? 変わったとすれば、それは、君の方だ」
「僕の方?」
Gは眉を寄せる。
「図星を刺された時が、いちばん困るんだよな」
「……!」
Gは息を呑む。彼は自分の対応に戸惑っていた。
そして、その戸惑いがもたらした僅かな隙を利用して、セバスチャンはGが背にしている部屋の扉を開け、彼をその中へするりと引きずり込んだ。
後ろ手に鍵をかける彼に、Gは軽い目眩を感じた。
いやそれは、その部屋にまだ灯が点けられていなかったからかもしれない。突然襲ってきた闇は、視界を急に失わされた彼をぐらり、と揺らめかせた。
それをセバスチャンの大きな手は、がっしりと支えた。
Gはもがいた。だが奇妙なくらいに力が入らなかった。確かに変だった。彼はもっと力の強い殺人人形だって相手にして勝ったことも何度かある。そうやってテロリストの日々を生き延びてきたのだ。
なのに。
なのに、彼の手には、奇妙なくらい、そんな時の力が入らなかった。無意識のうちに、セーブしている自分に気付いて、Gは改めて愕然とした。
冗談じゃない、と彼は思う。何故だ、とも思う。
そして嫌になるくらい、その理由に何気に気付いていて、しかもそれを言葉に置き換えたくない自分も判っているのだ。
それは、あってはならないことだった。少なくとも、「MM」幹部のGにはあってはならないことだった。錯覚であってほしい、と彼は切に望んだ。
だが右の耳元で声がする。
「いい加減にしろよな?」
言い方のきつさに対して、言葉の調子は柔らかかった。
右の半身に一気に細い光が突き抜けた感覚があった。力が抜ける。
軽い落下感に気がつくと、背中に柔らかな感触があった。
触れた指には木綿の感触があった。
羽根じゃない。そこが寝台の上だと、その時彼はようやく気付いた。暗さに慣れつつある目は、至近距離に居る人物の表情を次第に判別し始める。
「……何で」
からからに乾いた喉は、それでも少しでも抵抗を試みる。すると目の前の相手は、ざっ、とまとっていた羽根を飛ばした。窓から入り込む月の光に、ふわりと舞う白い羽根が一瞬光る。
「何も、今日明日にどうこうなるということじゃないんだ。少しは気を楽にしてみろよ。君はひどく疲れている。身体も、精神も」
誰のせいだと思っているんだ、とGは思う。だが、思ったところで抵抗のできない自分も判っている。
いや抵抗できない、ではない。抵抗したくない、だ。
言いながらもセバスチャンは、あの時は結んでやったGのタイを外し始めていた。
黒い羽根は、いつの間にか床で丸まって、白い羽根と重なるようにして休息を取っていた。
「何のことですか」
「何でも、だよ」
「そんな言い方って」
だが、どういう言い方をしろ、と自分は相手に言えるのだろう。本当のことなんて、この場では、何一つ言えないし、聞くことなどできないのだ。
Gは彼の正体については、予想はしていたが、特定はできなかった。そして、油断ができる人物であるかと言えば、間違いなく、「そうではない」。
そして何故か自分に奇妙な程にかまう。
それはセバスチャンが彼に対して何らかの疑惑を持っているから、とも考えられるのだが、それにしては執拗である。そして何やら謎めいた言葉。
髪のリボンを解きながら、セバスチャンは広がる髪を下からざっとかきあげる。首の後ろから頭の上にかけて一直線に走る微かな触感が、同時にその下にまで伝わり、彼に声にならない声を上げさせた。
彼は目を伏せた。
何やらもう何が何だか、何がされようが何が起ころうが、もう何でもいいような気がしていた。
普段なら、そんなこと絶対に思わない。
思ってはいけない。思ったら命取りだ、と彼は思っている。思ってきた。実際そうだった。
彼が相手にしたきた者は、大半が敵と判っている者だった。
そして連絡員相手の時は、単純に楽しんでいた。別に自分から誘ったことはない。向こうがしたがるからしているだけで、積極的にどうこうという気はない。結果的にあの曲者が自分を気持ち良くさせるのだから、別にそれはまあそれでいいかと思っている程度なのだ。
だがそれはそれだけである。それ以上のことはない。ひどく即物的な快楽だから、頭の中は割と冷静で、極端な話、密談もするだけの理性が何かしら残っている。
だいたい情事の時というのは、接近していることとか、出歯亀を厭う社会的通念のせいからか、密談には向いているのだ。連絡員もそれは承知だから、最初に注意した以外の時には、しばしば密談の手段としてそうすることも多い。
ところが今は。
それだけじゃ、ない。それどころじゃ、ない。
耳からそのまま彼の頭の中に入り込む声は、身体のあちこちから伝えてきた快感の信号を、そこで何倍にも膨らませ、そして弾けさせる。
目眩と落下感。
息ができない。
鼓動が激しい。
閉じることのできない口から、一体自分がどんな声を上げているのかすら判らない。
浮遊感を伴う曖昧な快感と、鋭く、痛みを伴う強烈な快感が、交互に、時には同時に、自分の上に、中に、起こり、しかもそれがとどまるところを知らない。
揺さぶられる。
揺れる。
墜ちる。
彼は自分の身体が本当に慣れたその場所にあるのかすら判らなかった。
墜ちていく。ずっと。
何処まで?
ようやく目を開けることができた時、多少不安気に、あの奇妙なバランスを保った顔が間近にあった。
彼は自分から相手に手を伸ばす。うるんだ目が熱い。月明かりがまぶしい。羽根が光って綺麗だ。ひどく熱い。
手を伸ばして、相手の首に回した。
ひどく熱い。
強く抱き寄せた。
しがみついた。
ひどく熱い。
触れている胸が。触れられている首が。
相手の唇の、首筋に感じ、それがまた細かく長く強くあちらこちらへと動く様が。
半ば開いた目が、熱い液体を流しているのが判る。
判るのにどうにもならない。止めることもできない。
止めることができない。涙も、汗も、声も、何もかも。
思考は既に混沌としていた。自分が考えているのか、誰かが考えているのか、それすらもはっきりしない。
だが荒い呼吸のすき間で、何かが次第にうごめき出す。
今まで俺にはそんなことがあっただろうか?
もしかしたらそんなことがあったかもしれない。
それではそれはいつ何処で誰が誰とどうして?
誰かが自分に問う。奇妙なくらいその問いだけが、言葉になっていた。
それをきっかけに、勝手に思考が別の所で動き出す。
快楽をむさぼっている彼にはそれはぶつぶつと囁くものであり、同時に、彼自身を厳しく糾弾するものでもあった。
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