1.重力の無い声が、絡み付く。
目を開けた時、やはりそこは闇だった。
彼はふと不安になり、ゆっくりと身体を起こした。そして不機嫌そうな表情で、解いたままの長い黒い髪をかき上げる。
ブラインドのすき間からぼんやりと漏れる遠くの街の灯りが、ここが夢の中でないことを彼に知らせる。彼は安堵し、視線を下方に落とした。
そこには光が届かない。だが確かな質量を持ったものが、そこには在る。それは感じられる。触れるか触れないかばかりに近づいた、自分よりはやや低い体温の身体。規則正しく繰り返される呼吸。呼応して動く背。
それでもふと不安になって、彼は相手の頬に触れてみたいような衝動にかられる。
だがその指は、その上で止まり、やがて彼の眼下にと戻された。彼はしばらくその手のひらをじっと見つめる。闇に慣れてきた目に、次第に手は実感を取り戻すかのように見えた。
触れてみたい。今この場にこの相手が居ることを、確かめてみたい気持ちはある。
それは彼に不意に襲いかかる不安でもあった。こんな夜、この隣に居る相手が、ふと消えてしまったら。
だが、この眠りを覚ますことは、ひどく悪いことのようにも思える。その戸惑いが、彼の手を止めさせる。
だが。
「……何」
低い声が、彼の耳に届く。ついていた腕に、指が絡むのを感じる。
「起こしちまったか」
「……横でもぞもぞされてりゃ、目ぐらい覚める」
乾いた、だけど絡み付く声。彼はその声に促されるようにして、再び身体を夜具の中に滑り込ませる。相手の身体に触れる。
「……ああ確かに、居る」
「何言ってるんだか」
重力の無い声が、絡み付く。彼は相手の身体にそのまま、腕を絡み付かせる。
「眠いんだから、うっとぉしいじゃないか、朱明……」
重力の無い声が、絡み付く。
*
「だいたいなあ? 何でお前、お出かけにそそんなに時間かかる訳?」
運転席から、実に不機嫌そうな声が飛ぶ。
「別にいつも代わり映えしない格好なのになぁ。黒ばっか黒ばっか黒ばっか」
無言。
「それに別にキレエなおねーさんに会いに行く訳じゃないんだよ? なーんだってお前、そんなに時間ばっかりとるの」
さらに無言。
「聞いてるのかよ朱明?」
だがしかし、さらに無言。
マニュアル運転でよそ見するのは事故の元。それは判ってはいるので、彼はハンドルをオートに切り替えた。放っておいても、中央管制塔が死なない限り、この都市では車はちゃんと命じておきさえすれば、目的地に着く。
そして彼は視線と身体を助手席の男の方へ向ける。案の定、相棒は、また夢の続きに入ろうとしてた。
形の良い眉が片方、ぴくぴくと動く。
無言のまま、彼は無造作に車内に落ちていたスリッパを拾った。
そして次の瞬間、それがひらりと空を切った。
ぴしゃん、と見事な音がして、薄っぺらいスリッパは、朱明と呼んだ相棒の、ひろいおでこに命中していた。
「でっ!」
声が上がる。さすがに相手も飛び上がるようにして跳ね起きる。長い、鬱陶しい程の黒い髪を揺らし、朱明はシートから勢いよく上体を起こす。そして自分の額に貼り付いたままのものに気付くと、目の前の相棒の瞳に負けず劣らずの不機嫌そうな表情を返す。
「……あのなー…… ハルお前ねー…… いくら何でもそれ投げつけることは無いでしょ」
朱明はスリッパをぴらぴらと振る。
だがハルと呼ばれた相棒も負けてはいない。彫りの深い大きな目を半ば呆れたように閉じながらも、残った片方のスリッパもぴらぴらと振ってみせる。
「ふん。寝汚いお前が悪い。俺ら今から何しに行くか、お前知ってるんか?」
「宙港へ藍地君をお迎えでしょ」
「それだけか?」
「それだけか、って何かあったっけなー……」
朱明は濃い眉を寄せ、顎を抱えて考え込む。と、スリッパの片割れが、また空を切った。
さすがに今度は朱明も片手で受け止めたが、溜め息をつかずにはいられなかった。相手は明らかに怒っている。だがその理由がどうも彼には思いつかないのだ。
昔馴染みの友人を迎えに行く。他に何かあったか?
「あった」
そんな朱明の疑問を読んだようにハルは繰り返す。
ああこりゃやばいな、と朱明もさすがに思う。こういう時の相棒には、謝ったほうが早そうだった。
「……忘れた。ごめん」
「……久しぶりさんだからお花でも買って出迎えてやろうって言ったのは誰だ?」
ああ、と朱明はぽんと手を叩いた。
「俺だ」
「そ。お前。俺が別に藍ちゃんは花もらったとこでうれしかないだろって言っても、主張したのはお前。忘れるのは老化の始まり」
さすがにそう言われると、朱明も苦笑せざるを得ない。確かに自分の言いそうなことなのだ。
尤も彼は、老化老化と言われる程歳をとってる訳ではない。ただ、この目の前に居る相棒は、未だに出会った頃の二十歳程度の姿なのだが。
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