選ばれし者の帰還

泡野瑤子

2010年 夏

 You were the chosen one!

 とあるSF映画のクライマックスシーン。日本では二〇〇五年の七月に公開されている。この映画には騎士の師匠と弟子が登場し、弟子は類稀たぐいまれなる才能を持ちながらも悪の道に走ってしまう。師匠は弟子と戦ってからくも勝利を収めるのだが、深い悲しみに暮れて叫ぶのだ――「選ばれし者だったのに!」

 選ばれし者。ザ・チョーズン・ワン。

 早乙女駿一さおとめしゅんいちは、この言葉の響きが気に入っていた。

 駿一は美しい男だった。彼は今年二十三歳、大人のようでまだ少年らしさをわずかにとどめた絶妙な年頃だった。肌は白くなめらかで、少し色素の薄い髪は、かき上げると光を透過して琥珀のようにきらめいた。鼻筋は通って唇は鮮やかに赤く、長い睫毛に守られた茶色の瞳は、己の容姿に対する自信に満ちていた。手足もすらりと長く、完璧に均整の取れた体つきだ。そういえば、先に述べた映画の弟子に似ていなくもない――その端正な顔は、最後には焼けただれてしまうのだが。

 しかし駿一が「選ばれし者」を自認するのは、その美貌のためではない。五年前、先の映画が公開されたその年の冬、当時高校三年生だった駿一は宝くじに当たった。それも一等前後賞合わせて三億円だ。母親からもらった小遣いで、連番を一組買っただけなのに、恐るべき強運の持ち主だ。新聞に載った番号の宝くじを持っていることに気づいたとき、彼はまさに「選ばれし者」になった。

 だから、突然その男が現れたときも、駿一は驚かなかった。

「早乙女駿一君、君は神のくじ引きに選ばれた」

「あなたは誰だ」

「天使でも死神でも、好きに定義すればいい。決まった名前はないが、君には便宜上『ユアン』と名乗っておく」

 師匠役のイギリス人俳優と同じ名前だ。しかし目の前の男はおそらく日本人だろう。安っぽいリクルートスーツと、葬式には不似合いな赤いネクタイの男は、駿一と同年代にも、一回り以上年上にも見えた。

「……やはり死んだのか、僕は」

 駿一は形のいい眉を曇らせた。

 そう、早乙女駿一は死んでいた。最後の記憶は、階段で脚を踏み外したこと。廊下の上で仰向けに転がり、痛い、鼻血が出ていると感じ――気づいたら、自分の葬式を眺めていた。

 美しい男は、生前の姿のまま美しい幽霊になっていた。しかし幽霊は生者の目に映らない。彼らに見えるのは、棺の中で白い花に囲まれて横たわる駿一の遺体だけだ。われながら美しい死に顔だ、と駿一は思う。

 立派な祭壇だ。ひとりっ子だった駿一のために、両親が残った宝くじの当選金をすべてつぎ込んだのではないかと思うくらい。遺影は高校時代の学生証の写真だ。その写真は嫌いだと言ったのに、母さんは「よく撮れてる」と言って譲らなかった。

 位牌に書かれた戒名には、「駿」の字が使われていた。駿一は自分の名前も愛していた。美しい顔と名前は、両親から与えられた素晴らしい贈り物だ。息子を突然失って涙に暮れる両親を見ると、幽霊にはないはずの心臓がずきりと痛んだ気がした。

 ――「駿」。優れた馬。選ばれし馬……なのに、僕は。

 大学進学と同時に両親と一緒に東京へ引っ越したから、参列者は多くない。その中に、呆然と遺影を見つめている友がいた。

 ――あきら

 ユアンが駿一の肩を叩いた。彼だけは駿一に触れるらしい。やはり、ただの参列者ではなさそうだ。

「確かに、君は死んでいる。しかし、神のくじ引きに当選した――つまり、私の力で君が死ぬ二十四時間前に遡り、君が死んだ過去を変えて生き延びるチャンスを与えられたのだ」

「過去を……変える……」

 なるほど階段からの転落死は不幸である。しかして「神様のくじ引き」に当選し、その死を免れるチャンスを得る確率はいかほどだろうか? 宝くじに当選するより、ずっと幸運なのではないだろうか?

「その通りだ、早乙女君」

 ユアンは駿一の思考を見透かしているかのように言う。

「君が買った宝くじの一等に当選する確率はおよそ一千万分の一。対して神のくじ引きに選ばれる確率は、ざっと四億五千万分の一といったところだ。どうだ早乙女君、やる気は出たか?」

「もちろんだユアン。僕はまだ、死ぬわけにはいかない!」

 駿一は友の姿を見つめたまま答えた。

「ではこれから、生きている早乙女君と区別するため、君のことを『アニー』と呼ぶことにする」

 弟子の役名(愛称)だな、と幽霊の駿一――アニーは思う。

「アニー、君は幽霊のまま時間を遡るが、幽霊は生きている人間に直接干渉することができない。過去の早乙女君にもだ」

 ならばどうやって過去を変えるのか。ユアンの説明は続く。

「その代わり、ある動物を眷属けんぞくとして操ることで、間接的に過去の世界に干渉することができる。君の眷属は、もちろん……」

 アニーは耳を傾けつつも、同時に別のことを考えていた。

 ただひとりの親友、明のことを。

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