特別編・三ツ矢と部活顧問

 夏休みが始まって、最近景色が鮮やかに感じる。


 街に点在したそよぐ緑、プールの透き通った青、世界を輝かせて照らす天からの日差し。


 前までなんてことなかったものが、いまはどうにも気になってならない。


 そんなどこか高揚した気分で、職員室の戸を叩く。


「失礼します。部室の鍵、返しに来ました」


「おう、ご苦労さん」


 教師の一人がパソコン作業を中断して、回転椅子で身体ごとこちらへと振り向く。


 少しかすれた感じの声。ショートヘアに赤いジャージの、少しくたびれたような女教師。うちのホラー文芸研究部顧問の浅野あさのだが、部活にはあまり顔を出さない。


 私はどうにもこの人が苦手だった。職員室に入って部室の鍵を鍵掛けに返し、すぐに引き返す。


 途中で、後ろからがしりと手を掴まれた。


「なー、よほっちゃん」


「……そのあだ名、やめてください」


「最近、なんかあった?」


 どくりと、心臓が跳ね上がる。


 手首の汗ばみが伝わってきてはいないだろうか。というか、すでにもう悟られるようなことをしてしまったのではないか。


 私は余計に怪しまれないよう、平静を努めて声を出す。


「普通ですよ」


「そんなことないだろー。口元緩んでっぞ」


 すぐに口元を隠して、それがかえって悪手だったことに気づく。


 案の定、浅野は興味深そうにニヤニヤしながらこちらを見上げていた。


「彼氏か?」


「違います」


「じゃあ、彼女か?」


「……違います」


 いらない間が入った、と気づく頃には遅かった。


 浅野は「ほう……」と感嘆かんたんの声を漏らし、すぐに立ち上がる。そして、避ける間もなく肩をがしりと腕で掴んだ。


「興味あるな?」


「あの、後輩待たせてるんですけど……」


「後輩? さっき言った子って後輩なの?」


「うっ……」


「……面白そうだな。聞かせておくれよ。なあ?」


「……はい」


 渋々うなずく。下手に断ると、余計に話を大きくなりかねなかったからだ。


 そうして浅野にがっしり掴まれたまま、職員室から連れ出される。


「浅野先生! なにかご用事で――」


「部活動の相談ですー! なんか込み入った内容らしくてー!」


「ああ、そうですか。それなら……」


 禿頭とくとうをてかてかと光らせた教頭が、朗らかな笑顔で見送る。「どう見てもただの職務怠慢だろうが」と怒りたくなったが、結局そんな楯突たてつく勇気もないまま廊下へと連れ出される。


 職員室から少し離れたところまで来て、両肩をがしりと掴まれた。


 もう、逃げ場がない。


 先ほどまでくたびれた雰囲気だった浅野が、いきいきと聞いてきた。


「それで、彼女にしてる後輩って?」


「…………」


「ランラン?」


「違います」


「リンリン?」


「……生徒をあだ名呼びするの、良くないと思うんですけど」


「あっ、ふーん……」


 こいつ、たやすく察しやがった。


 一発芸を待つ酔っぱらいのように、浅野が何度も小さく手を叩いて話すのを待つ。こうなると、話すまでしつこくつきまとってきそうだ。


 私は深くため息をつき、視線を逸らす。反応を見ながら話すのは、どうにも恥ずかしい。


「……他言無用ですよ。あの子に迷惑かかるし、私も余計な水差されたくないですし」


「大丈夫! 無粋なことはしないから! ただ、よほっちゃんが浮かれポンチするほどのものに興味あるだけだから!」


「教師としてどうなんですか、それ……」


「いいから、早く」


 こいつが犬だったら、きっと尻尾をぶんぶん振っていたところだっただろう。


 ……犬のことを考えていたら、なんだか気持ち悪くなってきた。


 仕方ない。


 気を紛らわすために、私は話し始める。




 あらかたのことを話したところで、廊下の壁に並んでいた浅野がずるずると座り込んだ。


「まじかー……よほっちゃん、恋人どころか経験済みになっちゃったかー……」


「声落としてくださいよ。誰か聞いてたらどうするんですか」


「小説が恋人だったよほっちゃんが……清楚系クール美少女のよほっちゃんが、あのリンリンとチョメチョメとはなぁ……」


「言い方気持ち悪いなぁ……」


 浅野は一年の頃の担任で、廃れかけのホラー文芸研究部へと勧誘されてからの縁だ。これでも現代文の担当というのが、今でも釈然としない。


 浅野のことは、苦手ではあるが嫌いじゃない。部活のことでたびたび相談に乗ってくれた縁もある。ただ……


 まさか、よりにもよって真っ先にこいつに気づかれるとは思わなかった。


 わたしは鞄を肩に掛け直して、スケベそうにニヤニヤと笑う浅野をちらと見る。


りんには迷惑かけないでくださいね。話なら、私がいくらでもしますんで」


「分かってるよ。よほっちゃんの幸せ、絶対邪魔しない」


「……教師の自覚、あります?」


「親御さんに電話してもいいならするけど」


「あ、やっぱ勘弁してください……」


 というか、鈴を待たせているところだった。早く行かないと。


 早足で向かおうとしたところで、後ろから「そうだ!」と声をかけられた。なんだよ、とうざったい気持ちで振り返る。


「リンリンのこと、よろしくな」


「……なんですか、いきなり?」


「あの子、お姉さんのことで色々あったから。だから……よろしくね」


 いつになく真剣な顔だった。


 そういえば、鈴の亡くなったお姉さんはこの学校の生徒だったと聞いた。そういうこともあって、あの子もなにか思うところでもあるのかもしれない。


 まあでも、答えは変わらない。ふっと、心からの笑みを浮かべる。


「そのつもりです」


 それから浅野とさよならの挨拶を交わし、廊下を急ぎ足で進んでいく。


 下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出た先に、二人の後輩がいた。


「おまたせ!」


四星よほし先輩、遅かったですね」


「ごめん。顧問が話長くてさぁ……」


「あと一分遅かったら、鈴ちゃんと二人で帰ってるところだったんですけどね。良かったですね、先輩」


「いや本当、ごめんって……」


 鈴と手の甲がそっと触れて、お互いぴくりと反応する。


 瓶井かめいさんがいる手前、あまり大胆なことは出来ない。なんだか生殺しの気分だ。次に二人になれる時は、果たしていつになるだろう。


 私と、鈴と、瓶井さんと、その三人で歩いていく。


 視線をさまよわせながら、次に鈴と触れ合える日を夢想する。

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