第8章

ムーグゥ 延江蒼一改め、延江碧


 ムーグゥへ向かう電車の中で、碧はしきりに髪を引っ張っている。その様子を隣で眺める桃香が、その手を優しく取った。


「あんまりいじってると、ハゲちゃうぞ」


 碧は唇を尖がらせ、俯向く。今度は両手を握って膝の上に置き、両足を揃えてブラブラさせ始めた。

 幸いにも碧の隣は空席だったから、桃香はいかにも子供らしいその仕草を咎めることなく、ただ見守っていた。今まで押さえつけていたであろう子供らしさを、碧が素直に出せる様になったことが嬉しかった。



 窓の外を流れ去る田園風景を眺めながら、桃香は病院を出る前に大月の部屋を一緒に尋ねた時のことを思い出していた。


 「おじさんに謝りたい」と、碧は自ら言ったのだった。


 自分は、酷いことを言ってしまったから。

 自分もおじさんと同じことをしていたことに気づいて、おじさんが感じていた辛さが少しわかったから。もちろん、息子を置き去りにしたのは酷いことだけど、でも、そうするしか無かった、という気持ちも、今なら少しわかるから、と。



 当の大月は、「謝る必要なんて無い。君が言ったことは、その通りだから」と慌てていた。自分は、愛する者の面影から逃げ、息子を捨てたろくでなしだ。しかも、悪者にもなり切れず、細々と繋がりを保とうとしていた卑怯者なのだ。

 そんな狡い自分から目をそらし続けてきた。はっきりと言ってもらえて、むしろ良かったのだ。

 そう言って、大月はベッドの上で深々と頭を下げた。


「本心を言ってくれて、ありがとう。蒼一くん」


「……蒼一じゃ、ない。みどり」


 碧は低い声で答えた。端から見ると無愛想で不貞腐れている様にも見えるが、耳の縁が赤くなっているので、気恥ずかしさを誤魔化しているのだとわかる。


「みどりちゃん、か。綺麗な名前だ。みどりちゃん、仲直りの印に、おじさんに写真を撮らせてもらえないかな。おじさん、カメラマンなんだ」


 碧は少し戸惑ったが、やがてこくんと頷いた。


「いいけど……もうちょっと髪が伸びてから」




 それからずっと、碧は髪を気にしている。蒼一を演じることをやめた今、やはり普通の女の子なのだ。


「ねえ碧ちゃん、電車降りたら、駅ビルで帽子買ってあげようか。可愛いやつ」


「え」

 驚いて見上げる碧に、桃香は楽しそうに笑いかけた。


「今日は暑くなりそうだしね。何色のがいいかな。可愛いの、あるかな」


 途端にその瞳が輝きだす。遠慮して答えないが、全身から期待と喜びが溢れている。女の子はいつだって、おしゃれとお買い物が大好きだ。桃香は思わず、碧の小さな頭を撫でた。

 碧はくすぐったそうに、でも少し嬉しそうに首をすくめた。


「あのね、桃香ちゃん。あたしのこと、みぃって呼んでもいいよ」

「みぃ? 猫ちゃんみたいね」

「ソウが、そう呼んでた」


 一瞬、言葉に詰まった。けれど桃香はすぐに微笑んで、碧の軟らかな髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。


「わかった。みぃ、ね。かわいいじゃん」


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