蒼碧の森

霧野

白い空間

 少年が目覚めたのは、白い光の中だった。

 ミルクが溶け込んだかのような、ふんわりとした優しい白。そんな柔らかな光でも、目覚めたばかりの目には少し眩しく感じられる。


 少年は少し顔を歪め、目を瞬かせた。身を起こし、ゆるゆると頭を振る。長めの前髪が額の上でさらりと揺れる。


 立ち上がり周囲を見回すが、何も見えない。天井も床も無い。壁も空も無い。立っている足の裏に、空気の塊のような弾力を感じるだけだ。

 自分の姿を見下ろすと、お気に入りの青色のTシャツとカーキ色のハーフパンツが見えた。足元は履き古したスニーカー。履き口から、みかん色のソックスがちらりと覗いている。

 色のある物を見て、少年は少しホッとする。両手を握って開き、掌の裏表を眺め、手をハーフパンツの脇で軽く擦った。



「ミィ?」


 呼びかけてみたが、やはり返事は無い。



「ママ? パパ? 居ないの?」




  数秒の間声を待ってみたが、少年は小さく頷き呟いた。そして、最近「お父さん、お母さん」と呼び方を変えたのに、うっかり「パパ、ママ」に戻ってしまった事に気付き、気恥ずかしさを誤摩化すように鼻を鳴らした。


「ふん。やっぱりね」



……そんな気はしていたんだ。ここには自分ひとりしか居ない。




 少年は再び周囲を見回した。


 不思議と不安は無かった。この空間には出口があると、何故か確信があったのだ。


 目が慣れてきたのか、うっすらと明るくなっている場所があるのに気づいた。溶け込んだミルクがそこだけ薄まったかのように、透明感のある空間が開けているのだ。ちょうど、人が一人通れるくらいの空間が。


 少年は自然と引き寄せられる様にそちらへ向かった。


 光へ向かうにつれ白い靄が徐々に晴れてゆき、向う側の景色が見えてきた。一面の白い砂と、その砂が踏み固められて出来た道。その先には大きな河。そして小さな木の舟と、ひとりの若い男。


 少年は恐る恐る光へ踏み込み、砂の道を踏んだ。河のほとりで男が大きく手を振っている。


 男の方へ踏み出しながら、少年は背後を振り返った。光の向こうはやはり白く煙ったような空間があるばかりだ。


「おーい、こっちだよ」


 男が声を上げ、少年は再び振り向くと小舟の方へと走り出した。



「えー、延江蒼一くん。9歳。で、間違いないかな?」


 背の高い男は腰を屈め、目線を蒼一に合わせた。柔らかそうなくせ毛が一筋、額に落ちかかる。



「はい。間違いないです。あの、僕、死んだんですよね?」


「あー、うん。そうなるね」


「ふん。やっぱりそうか」



 男は屈んでいた腰を戻し、意外そうに目を瞬かせる。


「随分と冷静だね」

「うん。事故の瞬間、あ、これ死んだなって思ったから」

「……そっか」


 男は寂しそうに視線を落とし、薄く微笑んだ。


「そんな顔、しないでください。僕、大丈夫なんで」

「いや………その、俺にも息子がいたからさ。君より少し小さいけど」


 男はくるりと背を向け、小舟に設置された箱の蓋を開けた。その時、男が何か呟いた気がしたが、蒼一には聞き取れなかった。


「ま、とりあえず乗りなよ。ハイこれ着て」

「ライフジャケット? 死んでるのに?」

「そう。波は無いし転覆の危険も無いんだけどね。ま、シャレみたいなもんじゃないかな」


 元の穏やかな表情に戻った男が手渡したのは、目に痛いほど鮮やかなオレンジ色のライフジャケットだった。


 「服はそのままでいい? 白のロングシャツなら無料で支給出来るけど」


 男が親指で舟を示した。座るべき場所に、白い服が畳まれているのが見えた。襟やボタンは無く、頭から被って着るタイプのざっくりとしたシャツのようだ。


「このままでいいです。これ気に入ってるんで」


 答えながら蒼一は、ごわごわとしたジャケットに腕を通した。


「オーケー、じゃぁ乗って」


 男が差し伸べた手を取ろうとして、蒼一は躊躇した。


「あの、お兄さん。ママ……えっと、僕の、父と母は? 姉は、どうなりましたか?」


 男は伸ばした腕を下ろし、申し訳なさそうに視線を揺らした。


「ごめん。それには答えられないんだ。俺が知らされているのは、君の名前と年齢だけ。俺の仕事は君を向こう岸へ送り届けることと、その間にちょっとした説明をすること。それだけなんだ」


 黙り込んだ蒼一に焦ったのか、男はふわふわの髪に手を突っ込み、くしゃっと握った。そしてすぐにその手を蒼一の頭に置き、撫でようとして手を止め、結局蒼一の肩へ下ろした。


「心配だよな。でも向こう岸へ渡れば、何かわかるはずだ」

「わかりました」


 蒼一が頷くと、男は少しだけ強く蒼一の肩を掴み、ポンと優しく叩いたあと手を離した。


 川に近づくにつれ、足元は白い砂からたくさんの白い小石に変わっていた。踏みしめる度、ざり、と微かな音がする。

 男が再び差し伸べた手に掴まり、蒼一はそろそろと舟の縁を跨いだ。と言っても、舟は岸に乗り上げる形で停まっていて、全く揺れたりしなかったけれども。


「僕、ボートに乗るの初めて。水の上に浮いてるんじゃないんだ」

「この舟は特別な舟なんだ。勝手に河に入って、勝手に進んでくれる。よし、そこへ座って。向こう岸へ着くまでに、こっちの世界のことを少し説明するよ」


 ライフジャケットの留め具を嵌め終わると、男は蒼一の向かいに腰掛けた。


「さあ、行こう」

「よろしくお願いします」


 両手を膝の上に揃えてぺこりと頭を下げた蒼一に、男は白い歯を見せて笑った。


「おう。任しとけ」



 舟が勝手に、ゆっくりと進み、するすると河へ入って行く。


「わあ、水に触ってもいい?」

「身を乗り出さなければね」


 河の水はどこまでも透明で、河底の白い石がよく見える。魚や草の全くない、不思議な河だ。骨を削ってできたような白く丸い石には、苔さえも生えていない。腕を伸ばして触れた水は、思ったより温かかった。



「これから君は、『狭間』という場所に行く。そこで49日間を過ごすことになる。その間は、比較的現世と繋がりやすく……って、君、聞いてる?」

「あ、大丈夫です。聞いてます。水触るのが面白くて」

「んー、まぁいいや。聞いてるなら。じゃ、続けます」




 岸に辿り着いてみれば、そこは一面に白い花が咲く斜面だった。遠くからは向こう岸と同じ白い砂浜に見えていたのだが、こちらは灰色がかった薄緑の葉と真っ白な花で埋め尽くされている。

 小舟はそこだけぽっかりと空いた砂地に乗り上げて止まった。直径3メートル程の砂地の先には粗い石でできた階段があり、花の咲く緩い斜面の頂上まで続いている。


「その階段を登ると、『狭間』が見える。門のところで誰かが待ってるから」

「誰かって?」

「さあ、わからないな。おじいちゃんかおばあちゃんか……」

「おじいちゃんもおばあちゃんも、まだ生きてるはず。でも僕、どっちにもあったことないの。父と母は、ふたりで家出して結婚したんだって」

「そうか。じゃあ、親戚の誰かとか、ご先祖様とか……」

「お兄さんも、誰かが待ってたの?」


 男は静かに頷いた。


「ああ。待っててくれたし、俺も人を待ったことがある。大丈夫、安心して行きなさい。君が階段を登りきるまで、俺はここで見てるから」

「はい」

「ちゃんと見てるから、大丈夫だからな。よそ見して転ぶな…よ、っと」


 男は蒼一が脱いだライフジャケットを舟の上に放り出すと、舳先から飛び降りようとしていた蒼一を後ろから高く抱え上げ、そっと砂地に下ろした。



「じゃあ、ここでお別れだ」

「うん。舟、楽しかった。ありがとうございました」

「おう。俺も楽しかったよ」


 ぺこりと頭を下げた蒼一に、男は片手を高く掲げた。蒼一はぴょんと飛び上がってその手を叩き、笑った。




 階段を上って一番上でこちらを振り返り、笑顔で大きく手を振る蒼一に、男も手を振り返す。



 蒼一の姿が見えなくなってしまうと、男は呟いた。


「大丈夫、なんて無理すんなよ。まだ9歳だろ」


 男はしばらくその場で佇んでいたが、やがて岸に背を向け、小舟に乗り込んだ。小舟は再び向こう岸へ、音もなく静かに進み始めた。


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