第95話 貴方ならどうする?
一瞬、風が凪いだ気がした。
後に残るは夜陰を満たす、濃密な潮の香。
だのに、不可思議な力が、シュルルの身をゆっくり着実にその影の元へと招き寄せる。
理由は判っている。
呪の力が、自分に刻まれた拘束の念が、あの男の元へと誘うのだ。
その男は、静かに海を見つめていた。
そして、シュルルが声の届く距離に近付いたのを見計らったかに振り向くと、影に色濃く塗りたくられた闇の中より、涼し気な面差しでじっと見つめて来た。
「やあ、散歩するには良い夜だね」
「どうして、貴方が……ミスター・ゼニクレイジー……」
「そいつは、やっかみ半分の悪口だよ。
僕は貧乏貴族の三男坊、遊び人のゼニーさんさ」
「酷い冗談」
「だろ?」
フッと笑う気配に、ちらりと白い歯が覗く。
すっと差し出された手に招かれる様、ほぞを噛むシュルルはその傍らへ。逃げる事は叶わない。そういう衝動が、真綿でくるむ様にまとわりつき、うねるのが判る。己が身口意に、敗者の身に刻まれた呪詛の刻印。
まるで戯れに、猫がネズミをいたぶるかの様、と一度は受け入れようと想った衝動に、抗いを試みるも、暖簾に腕押し、糠に釘。胡散霧消する魔力。それもそれ、シュルルの身を拘束せんとするそれは、根が同じ。相殺するは当然の理。
どうしてこんなタイミングで?
胸を締め付けられる想いで、その青い瞳を覗き込むも、まるで湖面の様に吸い込まれそう。
ほのかに香る、酒の精。
腰に回された上着の生地が、シュルルの素肌に触れ、妙にざらりと感じられた。
「酔ってらっしゃいますね。ゼニマール様?」
「そうとも。今宵は君の為に祝杯を上げよう。副ギルド長殿」
ぴったりと寄り添い、並び立つ1尾と1人。彼の右手にはワインのボトルとグラスが2つ握られていた。
如何にも楽し気。
それをシュルルの胸元へと近付けるのを、そっと押し戻した。
「申し訳ございません、ゼニマール様。
わたくし、まだ仕事を残しておりますの」
「あいつの所へ行くのだろう?」
そう。判っていた。
互いに息もかかる距離で、言葉も無く見つめ合う。
そよぐ風に前髪が躍る。
能々見れば、とても整った顔立ちで、きっと彼に心を寄せる女性も多かろうと思えた。
決して嫌いじゃ無い。
人当たりも良さそうで、欠点らしき欠点なんか無いんじゃないかと想えるけれど、だけれど、彼からはあの方から感じた、迸る様な情熱が感じられない。
この方にとって、目の前の私も、その他大勢の中で、ちょっと毛色が変わった、面白そうな珍獣でしか無い様に思えた。
それでも、唇を塞がれ、彼の熱い息吹が肺へと吹き込まれると、胸の内にわだかまった硬いこわばりが、見る間に融解していく。
どちらかと言うと、好き、なんだ……
鼓動が高まり、全身が燃える様に熱く脈動し、拒む様に身構えていた腕が、彼を求めて滑り出す。男のそれに呼応する様、沸き立つ潮騒が高鳴り、溢れ出ようとするその頂きで、とんと胸を押され、余韻を引きずるように口づけを終えた。
どうして?
「うん。今はこれで良い」
そう告げたゼニマールの眼差しは、優し気でいて酷薄な鋭さを孕んでいるかの様。
すっと肩に暖かな物をかけられ、それがたった今まで彼が羽織っていた上着だと判ずるや、シュルルは戸惑いを隠さずに見つめ返した。
理由は判っていた。
須らく。
「その上着は、自分では脱がない事。そして、僕にちゃんと返すんだ。
僕は、ここで一杯引っかけてるからね」
「え?」
「待ってるから」
「で、でも、そんな事をしたら……」
「そうだね……」
そう言って、にっこり微笑むゼニマールは、シュルルの前髪をすうっと撫で、半歩後ろへ下がった。
「これはあいつへの、僕からの挑戦状さ。
これで、あいつの本気が判るだろう?
君も知りたいんじゃないかな?」
「そんな……あの方を試す様な真似を!」
「出来ない? 本当に?」
「でも、私は……」
「人間じゃないから?」
ハッと胸を突かれた想い。
いつから?
いつから気付いて?
多分、最初に出会った時から?
シュルルの胸中で、これまでの疑問がピタリとはまる。
この方は、本当に一体、何者?
何者かに支配されているという不安。ただ、この支配者は簒奪者では無いらしく、興味のままに振る舞おうというのか。
自分がこの街でやろうとしている事が、まるで掌中の玉の様。
「答え合わせは、帰って来てから。ささ、行った行った。
僕たちの物語を始めようじゃないか?」
子供の様な、屈託のない彼の笑顔。嫌いになれない衝動が渦巻き、思わず自分も笑顔になれる。
彼が楽しんでいる内は良い。
けれど、興味を失った時に、自分はどうなるの?
巻き込んでしまった姉妹達は?
ましてや、あの方に酷い事をしないとでも?
これでは、小さな子に課せられた初めてのおつかいじゃない?
シュルルは酷くみじめな気分になって、しゅるると夜の街へ消えて行った。
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