3

 ぼくが手を伸ばした先に、ECHOの笑顔があった。

「あーよかったー、コーヘイ、目が覚めましたねー」

 ECHOがぼくの手を握って笑顔を深くした。ぼくはぼんやりと笑い返す――気を失っていたのだろうか――一瞬の遅滞ラグにしては何かとても具体的な夢を見ていたような――そして自分の状況に気がつく。ECHOに膝枕されている。 苦笑が浮かぶ。これを狙ったように思われるのは癪だったが、ECHOのサービス精神にはまいど驚かされる。

 周囲を観察するもどこも似たような本棚が並ぶ回廊だ、ぼくには大きな違いがわからない。近くにはぼくの開けた穴があるようには見えなかった。修復されたのか、ECHOがぼくを引っぱって距離を稼いでくれたのかもしれない。

 すぐにポップアップが起動して、ここが、今まで来たこともないような最深部に近い場所であることを示し、物語の進行状況とオーディエンスの推移も教えてくれた。ぼくが作った穴は、単に落下するためだけではなく、物語の進行をも早める分岐のひとつでもあったようだ――いや、違う、確実にそれは〈彼女〉の登場が原因だ。

 ぼくはこの物語のあらすじを思い出す。主人公の幼馴染み〈彼女〉の登場によってこの物語――いまぼくが物語製作機械ストーリー・メイカー上でやっている『キミとボクと宇宙クジラ』は大きな転換点を迎える。〈彼女〉の登場によって主人公は選択を迫られるのだ。地上に戻り〈彼女〉と日常を暮らすのか、ECHOとともに宇宙クジラを巡る銀河の旅に出発するのか――そして、主人公はマクガフィンを見つけたECHOとの別れを選び、〈彼女〉とともに地上に戻り、日常を生き、銀河の旅を夢見る描写で締めくくられる――だからぼくは、前半部の胸踊る冒険の部分だけで――地下図書館の下りだけで物語がループするように、改変を行った。それなのに、〈彼女〉が現れた――改変された物語がまた改変されている。いや修正されている。

 誰かに介入されているのだ。

 そんなことは可能なのだろうか。

 おそらく可能だ。

 いままで試したことはないけれど同時プレイの相手がいてぼくと同じアクセス権限を持っていれば――

「ここまで深いところは初めてですねー」

 ECHOがデータ端末を見ながら言った。ぼくたちはまだ手をつないだままだった。

「ここまで来れば宇宙クジラも見つかるかもですねー」

「いや、そのものは無理だろうけどね、――っともう大丈夫、ありがとう」

 ぼくはECHOから身体を離してまず銃剣を点検する。カートリッジ部が熱で溶けたように癒着していた。ぼくはメタベースにアクセスして予備パーツを読み出し、根本から取り替える。ECHOには見えているだろうけれど、決して何が起こっているのかは認識できない操作だ。

「そうでしたねー、宇宙クジラについて書いてある本を探すのでしたー」

 データ端末を右に左に捻ったり傾けたりしてECHOは笑っている。

「早くクジラさんに助けてもらわないとー」

 宇宙クジラと彼が抱えた脳油――確たる計算資源がECHOの母星を救う。

 かつて崩壊寸前だった地球に降り立ち、その身を犠牲にこの星を救った宇宙クジラは人類に多くの財産を遺していった。そんな宇宙クジラに敬意を表して、彼の亡骸を原型に、この地下図書館は生まれたと言われている。崩壊以前の、まだ国家が存続していた頃の、多くの散逸した文化を納めるための、バベルの図書館として機能したとも言われている。その多くは背景設定としてこの物語の背後に埋め込まれている。埃が舞う書架に乱雑に置かれている、ふれれば崩れてしまいそうな紙の本を手に取れば、それにしたがって文章と図版が、経た年月分だけ劣化して表示されることだろう。このあたりはいったいどこの文化圏に属している棚なのか――しかしぼくに求められていることは、それを確かめることではない。

 キン、と高音が鳴ったような気がした。

「でもどうしてでしょうー、さっきよりも遠くに離れてしまった気がするのですー」

 ECHOが首をひねっている。

 不意に、ぼくは自分でもよくわからない感情に襲われた。

 ECHOはどこか楽しんでいるように、ぼくには見えた。もちろんECHOは基本的にかわいらしく笑っている。そういうボディ・モデルを選択しているからだ。それがぼくやこの物語を読んでいる/いたオーディエンスの要請であることは想像に難くない。

 いや――そういうことではないのだ、ぼくはこの感情の正体を知っている。

 ECHOは水の異星体との星間戦争において戦局を左右するような重要な任務に就いている――ECHOの笑顔を眺めながらぼくは考える。少ない手がかりを辿ってこの星にやってきたECHOは、現地のガイドを雇い、宇宙クジラについて書かれた文献を求め、この広大な地下図書館を冒険している。無二の仕事なのだろうと思う。おそらく責任に見合った誇りある特別な任務なのではないのか、でなければこの物語のバディ役には選ばれないのではないか――ECHOは必要とされているのだ。

「くそ」

 ぼくは思わず毒づいていた。

 ECHOがこちらを見たのがわかった。

 ECHOは笑っていた。笑われた――決してぼくの感情に気がついたわけじゃないことはわかっていたけれども、ぼくはECHOに近づくと思わず銃剣で殴りつけていた。

「なんだよ、くそ」

 もう一度同じように呻いてぼくは、ECHOに馬乗りになって殴った。拳で殴り、また殴った。ECHOの顔がみるみる歪み、髪留めがはじけて転がっていった。

 ECHOは無抵抗だった。何をされているのかわかっていないのかもしれない。ぼくは何かを吐き出すようにECHOを殴り続けた。殴る度に自分がどんどん高揚していることがわかった。ああぼくはこんなひどいこともできるんだぞ――視界の隅のポップアップがオーディエンス数の急上昇を示していてぼくはさらに高揚した。

「……わたしはー」

 ECHOの声が聞こえて、ぼくは自分が殴られたみたいに手を止めた。

「まだ地球人のことをよくわかってないからー、なにか気に障ることがあったらごめんなさいー」

 ECHOは、腫れた口の隙間からそんな意味のことを言っていた。

 ぼくは脱力した。この無気力感をぼくはよく知っていた。四月の始めに成績表を受け取った時と、その後で響子と最後に会話した時――視界の隅で水をかけたようにオーディエンス数が下降していくのを見て――それもそうだこんな情けないぼくの姿を見たって誰も楽しくない――ぼくはもう一度拳を振り上げようとしたけれど、もうぼくにはできなかった。

 不意にポップアップが警告を表示する。緊急回避が追いつかない――視界が大きな黒いもので覆われたと認識したときにはすでにぼくの身体は宙を待っていた。天井に激突して二度三度バウンドして回廊の床に強く叩きつけられる。

 ぼくはぐらぐらする視界を持ち上げて正面を見る。視界が揺れているのか、ぼくの身体アバターが構造から揺らされているのかぼくにはよくわからなかった。

 ECHOの側には影を煮染めたような黒子が立っていた。その奥にはもう一体の黒子が控えており、その肩に〈彼女〉が座っていた。

「探したわよ。あなた、いまいったい彼女に何をしてたの?」

 ぼくを突き刺す、静かな怒りを秘めた言葉だった。〈彼女〉は、本当に響子に似ていた。利発で芯のある明るさを持っていて、どこか世帯染みていて地に足が着いていた――日常の象徴だった。まるで自分とは正反対の女の子だった。だから惹かれたのだし、何度も助けられてきた。そんな響子に似た女の子が出てくる物語を選択しておきながら、〈彼女〉が登場しないように物語を改変する――自分の屈折っぷりにいまさらながらに気がつかされて、ぼくは苦笑した。

「なんで笑ってるの? なんとか言ったらどうなの?」

 さっきの衝撃でも不思議と手放すことのなかった銃剣がまだぼくの手の中にはあった。〈彼女〉が現れたと言うことはこの物語にいい加減にケリをつけなければならない、ということだ。

「いや、もう逃げられないんだな、と思って」

「そうよ、あたしがこの本を彼女に渡せば、この物語はおしまい」

 そう言って〈彼女〉はどこかからか取り出した分厚いハードカバーを掲げてみせた。

「兵吾は現実に戻るんだから」

 不意に響子の匂いを嗅いだような気がした。ここでは匂いまでは再現できないのに――いまになってようやく、『キミとボクと宇宙クジラ』の主人公が、どうして〈彼女〉を選んだのかぼくにはわかったような気がした。胸踊る冒険を捨てて、まだ見ぬ宇宙の旅を選ばず、どうして地上に帰還したのかを――ぼくは手の中にある銃剣を握り直した。左下段に構える。

「でもまだ、終われないんだ」

 ぼくは強く踏み込んだ。一歩で距離を縮めるとECHOを守るように立っていた影の黒子に肉薄し、腕を切り飛ばす。回転して飛んでいく黒い太い腕がぼくの背後の本棚に突き刺さる。影の黒子が残った方の剛腕を振り回し、それをぼくは刀身で受け止めそのまま吹き飛ばされる。ぼくが吹き飛ばされた先には本棚に突き刺さった黒子の腕が残っている。ぼくは銃剣のカートリッジを構造分解言語に変更、トリガーして黒子の腕に突き刺した。黒子の腕が得体の知れない獣のような音をあげながら銃剣と同化していく。

「いったい何してるの?」

 銃剣が黒い熊手のようなものに変化していく様を見て、〈彼女〉が理解できないという表情で聞いてくる。文献はまだ、〈彼女〉が両手の中で抱えている。まだ間に合う――自分でもよくわからなかった。でもやれそうな確信があった。これはぼくがやらなければならなかった。少なくともぼくは作中の主人公とは違うのだ、責任をとらなければならなかった。

 漆黒の銃剣を逆手に構え、ぼくは言った。

「ECHO、さっきはごめん。……いやそれだけじゃない、この物語をループさせて本当にごめん。こんなことがお詫びになるか正直わからないけど、役に立たないガイドだけど、でもきっと君の力になるから――もしまだ宇宙クジラの探索に、ぼくの力が必要だっていうのなら、ぼくを宇宙に連れていってくれ」

 ECHOは身体を起こしてぼくの方を見ていた。もしかするとこの行為はECHOには見えていないのかもしれない。

 それでも構わなかった。誰かに見られているからやるんじゃない。ぼくがECHOを見続けるためにやるんだ。

 銃剣を身体に突き刺した。身体の内側から膨大な閃光がはじけて、視界が一瞬で奪われる。ぼくはそのまま縦方向に銃剣を引き下ろしていった。真っ白な視界の中で猛烈な勢いでアラートポップアップがひらめいては消えていく。

 光が収まると、ぼくの隣にはコーヘイ工兵が立っていた。コーヘイはぼくにうなずいてみせた。ぼくは〈彼〉にうなずき返した。

 コーヘイは、あっけにとられている〈彼女〉からハードカバーを受け取ると、ECHOの側にしゃがみ込んだ。コーヘイがECHOの手に本を握らせ、〈彼〉は痛々しく傷ついたECHOの顔をさっと筆でなでるように修復してみせた。そして歩いている途中で拾ったのか、ECHOに髪留めを付けてあげている。とても丁寧な仕草だった。ECHOは笑っている。笑って、ついに見つかりましたねー、とコーヘイに向けてしゃべっている。

 ぼくはそれを見ている。〈彼女〉が近づいてきた。影の黒子はもういない。ぼくが銃剣を通して計算資源としてすべて使ってしまったからだ。

「いったいどういうことなの?」

「〈彼〉はぼくの似姿アバターなんだ。さっきの瞬間のぼくを写しとった、ぼくそのものさ。単純なコピーアバターじゃない。想いが込められている、特別製。アクセスすればいつでも状態を確認できる」

「それがあなたの責任のとり方なのね」

 ぼくは肩をすくめてみせた。

「……それ、ようやくわかったような気がする」

「何が?」

「照れてるのね」

 ぼくはマジマジと〈彼女〉の顔を見つめた。

「それで――ここまで来た、あたしにはどう責任をとってくれるの?」

 ぼくから逃れるように顔を伏せた〈彼女〉がそう言った。

「それは――」

「なあ!」コーヘイがこちらに呼びかけてきた。「そっちもうまくやれよ!」

 その隣で文献を抱えたECHOが目をつむり身体を震わせている。

 キン、と高音が聞こえたような気がして――そしてかすかに確かに、どこか遠くから音楽が聞こえてきた。

 物語の終わり――深海で聞こえるクジラたちの会話のような軽快なリズムが、ぼくの覚醒を促している。

 薄まっていく視界の中でぼくは響子に言った。

「あの桜の下で――」

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