128 念願のビンタ

「――アイリス!?」


 狭く暗い闇の中、それは人知れずパチリと目を見開いた。

 アイリスの心の悲鳴を感じ取った……わけではない。


「ああ何だ夢か~。江戸末期の武士みたいに天誅って叫んだアイリスから魔女裁判よろしく棒に括られて焚書ふんしょされるだなんて、無茶苦茶な夢だよね~。ふぅ~う、ボクも相当ストレス溜まってるのかな~」


 一人ぼやく呑気な声を聞く者は、生憎と誰もいない。


 ここはソーンダイク公爵の書斎机の抽斗ひきだしの中。


 もしも誰か、掃除の者の一人でもいたのならくぐもった怪奇な声を聞いただろう。


「はあ~。ここに閉じ込められてから一体何日経ったんだろ。ずっと暗いから時間感覚もなくなるよ~」


 はあ、と深々ともう一度嘆息すると、それ――日記は寝返りを打とうとしてゴツッと上の板に自身の角を打った。


「……狭い。痛い」


 元の姿勢で横たわったまま諦めたような呟きと共に日記は静かに力を抜いた。

 最早暴れる気も失せていた。

 それまでは手足をバタつかせたり体を浮かせたりして抽斗から出ようと何度も試みたが、全て何の功もなさず誰にも気付かれもせず、全くのお手上げ状態だったのだ。


 ウィリアムから持たされたというか、栞と見紛うような紙状にして日記の中に隠すように挟み込まれた幾つかの連絡用の魔法符はこのままでも使えるが、如何せん報告すべき情報が何一つ得られていないので、使っても意味がない。


 故に一度もまだ連絡していなかった。


 王都では気を揉んでいるだろうが、こればかりは致し方ない。

 ウィリアム曰く、一応は発動直後に魔法の気配を霧散させるような設計らしいが、用心深い敵なら隠蔽の痕跡さえも気付かれるおそれがあるらしく、出発の際に無意味な連絡は一切不要だとよくよく言い聞かされていた。

 それ以前にふざけた報告はするなと凄まれてもいたので、日記としても退屈凌ぎに「はろ~」などと送って後々の災いを招くような愚行は犯さなかった。


 厄介な敵たるアーネストは未だに一度として抽斗から日記を取り出してはいない。


 当初は予想に反し警戒された。


 しかし、しかしだ。日記は書斎机に仕舞われたまま、ハッキリ言うとすっかり忘れ去られていた。


「ああもう誰でも良いからここから出してよ~。アイリス~っボクはここだよ~っ!」


 もう一度言うが、この部屋には現在誰もいなかった。

 ガタガタと開かない抽斗を揺らす日記のくぐもった声だけが、虚しくもしばらく書斎内に響いていた。





 天敵を前にいつまで衝撃を受けて放心している気だって呆れたのかもしれない。不死鳥が窘めるみたいに私の頬を軽くつついた。

 痛くはなかったけど、それでようやっと我に返ったわ。

 アーネストが私の反応をどう思っているのかはわからないけど、得意気にしていようと嘲りを浮かべていようとそれはこの際どうでもいい。


 依然として何か得体の知れない力に慄くような心境を抱える私だったけど、転生者が蘇芳秋って聞いて気になったのはやっぱりこれよ。


「ねえ、ところで、蘇芳……さんは、彼はいつ地球で死んだの? まさか若くして不慮の死を……?」


 これぞトラック転生上等って感じで来ちゃったのかしら。それとも私とウィリアムみたいに死んでいないけどこっちに来たケースなの?

 するとアーネストはあっさりと答えをくれた。


「彼は大往生だったよ。百まで生きた。生涯独身で偏屈で迷惑条例に引っ掛かったりご近所トラブルは絶えなかったから、常に孤独が付き物だったようだけど。まあまさに憎まれっ子何とやらってやつだよね」

「えっ百歳!? すごいわね」


 驚きながらもやっぱりこの世界と地球とじゃ、時間のズレとか歪みがあるんだって思った。だけどまさか地球で長生きして死んでから、こっちに私よりも先に転生者として来るなんて、神様もややこしいことをするわよね。まあそれを言うなら葵に関しても似たようなものだけど。

 私は最後にもう一度だけ確認しておきたくて一つの質問を投げかける。


「じゃあ本当の本当に蘇芳さんの意識は微塵もないのよね? よくある逆襲的展開だと密かに復活して相手の、つまりはあなたの体を乗っ取ったりするじゃない」

「ふふっ、アイリスは心配性だね。私がそんな間抜けだと? 他人の意識が僅かでも残るなんて許すはずがないだろう。君だって酷い頭痛や胸やけがあったとして、そのまま放置しておくかい? 薬を飲むなりして不快な原因を取り除こうとするだろう?」

「それはそうだけど、他人の意識があるってそういう不快な感じなの?」

「たとえて言えばね」

「ふうん」


 アーネストは非情な一面もあるようだし、手抜かりはないのかも。

 じゃあ本当に蘇芳さんが私の前に現れるなんて嫌な展開にはならなそうね。良かった……けどちょっとだけ複雑だわ。だって魂の消滅って、想像は付かないけど無に帰すみたいな感じでしょ。お気の毒よね。


「全く、蘇芳秋からの仕打ちを忘れたのかい? 同情するなんてお人好しだねえ」

「……別にそんなんじゃないわよ」


 まんまと見透かされてムッとしたけど、その通りだって自分でも思ったから溜息一つと一緒に俯いた。


「とにかく、そんな体験のおかげでこの世界の外側を知ることができた。その上でこうも思っているよ。世界さえ超えて魂を弄ぶ何者かがいて、人々はそれを神と呼ぶけど、その存在にひと泡吹かせてみるのも悪くないってね。だからそのために君の血が欲しいとも思った」

「ひと泡って、まさか本気なの? この世界の魔法で本気でそんな領域にまで行けると思ってるの?」

「当然。君の血さえあればね」


 ああ、だから逃げないようにこうやって執拗に監視しているってわけね。

 えー、でももしも生贄いけにえ的に命ごと捧げなければ究極の魔法には辿りつけないとかいう無情な法則があったらどうしよう……。


「ねえ、もし私の全身の血が必要だったら、私をその……殺すの?」

「それしか方法がなければあっさりそうするだろうね」

「――ッ」


 ひいーっやっぱりそうなのねこの外道ーッ!


「……以前までの私だったなら、ね」

「外道の中の外道がッ……って、え、以前……って? 今とどう違うのよ」


 何か含みのある言い方に疑問を浮かべていると、両手で頬を包まれた。


「ち、ちょっとまた何!? いやーっ放しなさいよ!」


 喚いたけど無駄で、またもや爽やかフレッシュな吐息が近くなった。


「キスなんてしたら冗談なしに本気でぶっ飛ばすわよ!? 頭突きかますわよ!?」

「それくらいで私が怯むとでも?」

「なら鳥さんたちと今すぐ魔法で飛んでまたどこかに潜伏してやるんだから!」

「…………」


 え、あれ? 黙っちゃった……。


 怯んだの? 何で?


「……それは困るね」


 その通りだったのか、そう呟いてアーネストは頬から手を放した。吐息も遠ざかる。

 ふう、とりあえずは良かった。

 内心ホッとした矢先、こっちの油断した隙を突いたように、撫でるように前髪を指先で退けられて露わになった額に柔らかな何かが押し当てられる。


「約束するよ。アイリスの目は、他でもない私が治すって」

「な……」


 実は不死鳥にも試してもらったけど、私とリンクしている不死鳥でも目の治癒はお手上げだった。

 そんな私の眷属とも言える精霊にも無理だった目の治癒を、彼は自分が成し遂げるって宣言よねこれは。神殿の書物に何か有効な方法があると踏んでいるのか何なのか大した自信じゃないの。

 ただ、どうして彼がそこまでしてくれるのか、未だにハッキリとはわからない。


 それに今の、何?


 知らない感触じゃなかったから、十中八九でこちゅーなんでしょーよって思ってるけど、本当に唇だった?


 ふざけてグミとかマシュマロだったとかって線はない?


「あ、なた……何して……」

「ああ、額にキスしたんだよ。感動で言葉も出ない?」


 やっぱりか……っ。

 嫌がらせにしても程がある。

 半ば呆然となった私の額からアーネストはとっくに唇を離していたけど、顔はまだ近い位置でこっちを覗き込んでいるのが声の近さでわかった。


「キス……。そう…………ねえ、ちょっといいかしら?」

「何かな?」


 私は無言でスッと右手を持ち上げると思い切って力を入れて、見舞ってやった。


 パーンと一発、盛大なビンタを。


 声の発生位置から大体顔はこの辺かしらって目星を付けての会心の一撃よ。

 見事命中で、あ~すっきり~ってくらいに小気味の良い音がした。

 ずっと引っ叩いてやりたいって思っていたからようやく念願叶ったりって所ね。


「こっの破廉恥公爵! 今後また勝手にキスしたら身包み剥いで王都の城壁に吊るしてやるんだから!」


 くくっと愉快そうな笑声が聞こえてきた。


「強烈……。だけど、ははっ生まれて初めて叩かれて興奮したよ」

「はっ!? 何あなた実はマゾの変態だったわけ?」


 ドン引きを隠しもせずいると、アーネストの気配が離れた。離れたって言っても傍に立ってはいると思う。


「蘇芳秋は君のその気性で憐れ恋が散ったようだけど、私には通用しないよ。むしろ馴らし甲斐があるよね。じゃじゃ馬って言うのかな、そういう相手を屈服させるのってとても痛快だろう?」

「あなたってホント性格ねじくれまくってるわよね!」


 じゃじゃ馬ですって? こんなレディを馬扱いって失礼極まりない男だわ。


「ねじくれまくり……。そこまで分析してくれるくらい興味を持ってもらえて光栄だよ」

「ばっかじゃないの! そういうのじゃないわよ!」


 咽も枯れんばかりに怒鳴ったら、足音が遠ざかるのがわかった。


「アイリス、そのうち君の方から私にキスをせがむようになるよ」

「絶対にならない。――私にはウィリアムだけよ!」


 居る方をキッと睨んでやった。


「……へえ。だけどこの世に絶対はないってよく言うよね」

「その言葉にこそ絶対はないわよ!」

「ややこしいことを言うねえ」


 ふふっとアーネストは小さく笑う。


「今日の所は退散するけど、神殿行きは決定だからね。必要な準備はこっちで全て整えておくから、君は神殿でやっていく覚悟だけしておけばいいよ」

「覚悟って……」

「そうだねえ、神官に必須な魔法学の実習なんかがあるかな」

「へえ、神官って魔法必須なのね」


 なんて納得しかけたけど、根本的な重要事を忘れていたって思い出した。

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