117 雨の降る夜に4

「間に合わなかった……」


 何も掴めなかった。


 空の掌を握り締め俯くと、ウィリアムは強く奥歯を噛みしめた。


 今日これで二度、彼は恋人を他の男に攫われたのだ。


「すぐそこに居たのに……っ。アイリス、君を絶対に取り戻す……!」


 浮遊魔法までは使えないらしい軍医は宙に浮かされたまま暫し呆然としていたが、落下しないとわかれば我に返った。


「まさかウィリアム殿下がこのように素晴らしい魔法使いだったとは……! どうかお願いです魔法の炎を打ち消して下さい!」

「…………」


 ウィリアムとしては持ち上げられようとへりくだられようと、本音を言えば今すぐ軍医の浮遊魔法を解除して地の底に落としてやりたかったが、おそらくはこの事件の大半の事情を知る人間を感情的になって死なせるわけにもいかず、取り調べて吐かせるためにも回収していく必要があると判断し我慢した。この男は法で裁かれるべきなのだ。

 軍医の訴えの通り、室内の諸々と共に落ちて行った魔法の炎は遥か下で消えずにむしろ勢いを増し上へ上へと這い上がってきている。


 きっとアーネスト・ソーンダイクはこの屋敷の存続を望んでいない。


 今まで放置していたのは多忙なための怠慢か、或いは心情的に目を向けずにいただけかはわからないが、不死鳥の炎とまではいかないが少々のことでは消えない強力な火系魔法を使ったのは最終的に旧本邸を燃やし尽くすためだろう。


「どうかウィリアム殿下!」

「アイリスの怪我はけいが負わせたものなのだろう?」

「あれは……彼女が思いも掛けなく刃物の前に飛び込んで来まして、それで……」


 軍医は不可抗力だったと言いたいのだろう。その流れを作ったのは他でもない軍医自身だというのにだ。

 その一部始終を見ていないウィリアムは軍医の台詞から当時の状況を想像し、ともすれば痙攣しそうになる両の瞼を力ませる。

 本当ならぶちのめしてやりたかったがぐっと堪える。

 既にアーネストが彼に制裁を加えていたし、これ以上痛め付ければショックで死ぬかもしれないと危ぶんだからだ。


「火を消して欲しいのなら、今すぐに浮遊魔法を解く必要があるが?」


 ソーンダイク家の秘所ということもあり地下墓所は階層的には地下一階に該当するが、標準の一階分の高さではなくもっと深い場所に造られている。

 故に天井と床の高低差はすこぶるある。

 実質的に建物何階分にも相当する高さから落ちては軽い怪我では済まないだろう。

 最悪命と引き換えだと暗に言われれば、さすがの軍医も顔色を変えて予想通り口を噤んだ。

 違法な人形は罪の証拠になり得るが、ウィリアムには端から炎を消す気はなかったのだ。

 ここで、様子を見ていたマルスが焦燥の声を上げた。


「おい、魔法で追いかけられないのか? アイリス嬢は怪我をしているんだ」

「怪我については彼が治癒魔法を施すだろうな」


 この点は断言してもいいとウィリアムは思っている。

 アーネストは治癒魔法も使えるはずだ。仮に使えなくとも連れ去った以上治癒の当てはあるに違いない。

 ウィリアムが意見を述べればマルスもその考えに納得した。


「確かにそうかもしれない。アーニーはアイリス嬢にとても懐いていたし、悪いようにはしないか」


 アーニーとしてのアーネストと暮らしていた経験が彼にそう思わせるのだろう。

 現在の記憶を失くし、アイリスと共に暮らしていたというアーネスト。

 マルスもそうだが、アイリスもアーニーをとても大事にしていた。

 人間性に大いに問題のあるアーネスト・ソーンダイクが彼らにそこまで気に入られたのは、アイリスが散々言っていた外見の可愛さだけではない……とは思う。


 純真だったのだろう少年を現在のように歪ませた原因を考えると、ウィリアムの胸には重苦しいものが広がった。


 基本的に各公爵家は独立性を重んじられていて他家からの介入はされないし介入もしない。干渉は揉め事の火種となるので見て見ぬふりだ。そういうこの国の無情とも言える無関心が歪みを生んでいるのかもしれない。

 マルスのいる廊下に軍医と移動したウィリアムは、浮遊魔法を解くと一人引き返して床の縁から下方の炎を見下ろした。

 熱による上昇気流に金糸のような前髪が煽られる。

 衰えを知らない炎がじきにここにも到達するだろう。


「火を消すのか?」


 傍に来たマルスへと一度視線を向けて元に戻す。

 ようやく思い至って自己治癒魔法を行使し始めた軍医が期待の眼差しを浮かべたが、ウィリアムはそちらを見もしなかった。治癒魔法を使えると言っても、軍医はウィリアムやニコルのように一瞬で完治させられる程優秀ではないので、地道に治癒魔法を重ねていくしかない。ウィリアムには命は助けても治してやる義理はないので痛みはしばらく続くだろう。まあそれも自業自得だ。


「まさか。これはソーンダイク家の私事であって、現当主の決定でもある。他家の事情には極力介入したくないし俺には関係ない。……そもそもここはきっと、燃えるべき場所なんだろう」

「燃えるべき場所……」


 ウィリアムは公爵家同士の暗黙の決め事がなくとも、基本他家の事情に興味はないので干渉はしない主義だ。

 唯一の例外はローゼンバーグ家だが、それも今のアイリスがいなければ他家と扱いは同じだったろう。


 一方、ウィリアムの台詞を受けて何を思ったのか、マルスは常識的な観点から消火すべきだ何だと反駁はしてこないようだった。


「意外にも何も訊いてこないんだな」

「失礼な、意外って何だ。あんたはおそらく大体の事情を知っているだろうとは思うけど、そこを狡いと責める気もなければ、つまびらかにしようという無神経な好奇心も僕は持ち合わせてはいない」


 軍医の方は案の定まだまだ癒えない痛みに顔をしかめながらも五月蠅く吠える。

 お願いです、頼むから火を止めて下さい、殿下どうか、どうか早く消してくれえええ……などなど、とにかく煩わしく喚き立ててウィリアムとマルスの鼓膜は大迷惑だった。


「……五月蠅い」


 もう軍医を敬う気持ちの全くないマルスは少し思案すると、的確に急所を突いて一時的に彼を黙らせた。ウィリアムは何も言わなかった。奇しくもそこは軍医がアイリスを気絶させようとして強く打った場所だったが、マルスたちが知る由もない。

 その後三人はウィリアムの空間転移魔法で王都まで飛び、軍医はザックへの殺人未遂の首謀者兼吸血犯として即日投獄された。





 この夜、とある広大な屋敷が燃え落ちた。


 雨天だったにもかかわらず、屋敷の皿一つ残らずが灰となった凄まじい火の手だったと聞く。

 それは存在が露見した地下墓所も例外ではなく、人骨の一つすら形そのままには残らなかった。

 ある側面から見れば、浄化と清算の炎だったのかもしれない。

 その後降り続いた雨が止んだ時、数多の悲劇と血に濡れたその地は人の手を離れ、ようやく安穏へと還った。





 またその炎の夜、とある貴族の屋敷に一人の青年が戻った。


 王宮と見紛うばかりの白壁に金の縁取りのなされた壁、そして一つの塵もない清潔で整然とした赤絨毯の敷かれた床、その広く長い廊下を青年は一歩一歩ゆっくりと歩いていく。

 両腕に抱えた一人の少女に極力刺激を与えまいとするかのように。

 あるいは、二人の時間を噛みしめるかのように。

 外からは絶えず雨音が聞こえている。

 場所が離れているにもかかわらず、偶然この地も雨だった。

 少女の襟元や袖には血の染みが色濃く残っているが、反対に黒から元の色に戻された柔らかな栗色の髪や、肌理の細かな白い頬にこびり付いた血は既にない。

 しかし滑らかな瞼を下ろしたまま、未だ目を覚まさない。


「君の怪我は治したよ。けれど……」


 青年は今は眠る少女を見下ろして、顔を曇らせた。

 傷口の治癒は完璧だ。

 ただ、彼女は今まで難なく保持していた自らの血の均衡を些か崩している。

 だから彼は危惧しているのだ。


 彼女の快復は未知数で、こればかりは彼女が目覚めないと何とも言えなかった。


「そう睨まなくとも、そのうち起きるよ」


 女性も羨む長く美しい金髪を後ろに靡かせる青年――アーネストは、少女――アイリスを横抱きにしたままうんざりしたように溜息をつく。


 アーチ形の高い天井の下を進む彼を真横から監視しているのは、丸々としたチビ不死鳥だ。


 その傍には風の小精霊の姿もある。


「なあ炎の旦那、姐さんの中で魔力がぐるぐるしてるけど大丈夫なのか?」


 小精霊の言葉に、不死鳥はただでさえ悪い目付きを一層極悪にしてアイリスを見つめる。


「うおっ、旦那こえーって!」


 そこには殺人鬼さえも黙らせる凄みがあったが、不死鳥はただ懸念を表していただけだった。

 漫才でもやっているようなノリの精霊ズに、アーネストは珍しくも若干の呆れ目を向ける。

 精霊妨害の結界のない場所に出たのを察知した彼らは即刻アイリスの前に現れ、彼女の惨状にアーネストを攻撃しそうになったものの、彼が治癒魔法でさっさと傷口の手当てなどをしてしまったので出鼻を挫かれた形になっていた。

 不死鳥に至っては、ローゼンバーグの屋敷でまさに酷い目に遭わされた相手でもあったので怒りが再燃したが、アイリスの安全を優先して暴れるのは諦めた。不死鳥の炎はアイリスに悪影響を及ぼすことはないが、逆上したアーネストに何かされては大変だと判断したのだ。


 アーネストがどこか以前とは異なって見えたのも、攻撃の手を止めた理由の一つかもしれない。


 アイリスをかつての自分に対してのように遊び半分観察半分の実験対象とは考えていないようだったのは良かったが、何故かウィリアムへと常々感じている腹立たしさを彼にも感じ取っていた。

 要するに、こいつマジアイリスにべたべたしてムカつく野郎だなーと思った。

 とにかく、不死鳥はそんな経緯で現在大人しくアイリスの傍にいる。


 その横で、アーネストは当面は無害だろう精霊たちにはもう興味を向けずにふっと相好を崩す。


「初めてこんな充実を感じるよ。アイリス、君のおかげでね」


 ここはゾーンダイク公爵家の新本邸。


 この広い屋敷の主であるアーネストは、魔法使いの黒ローブから黒地に金糸の刺繍の施された貴族的なロングコートへと流れるように服を変えると、優雅な長靴ブーツの動きと共にその裾をバサリと翻す。


 服装の変化に伴って、背に流れるままだった長い金髪もいつの間にか黒いリボンでうなじで一つに結ばれている。


 その黒リボンはレースを施されてはいたが、シックな色合いもあって必ずしも少女限定とは言えない仕立てだ。

 しかし元は女性たちが喜んで買い物に出向く店の商品だった。


 アイリスから贈られたが紛失し、しかしアイリスがゴミ箱から拾って持っていたリボンだ。


 リボンの端をひらりひらりと靡かせて、彼は初めて手にした至宝に酔いしれる者のように一度目を伏せ口角を持ち上げると、静かに廊下の奥へと進んで行く。


 その先には当主の寝室があるのだ。


 しばらく姿が見えなかった貴人の帰還に気付いた屋敷の誰もが胸を撫で下ろした。

 彼らは皆、彼のおかげで生活が出来ている。

 しかし同時に、これまでのように主人の気まぐれな狂気に触れないように気を張った日常が戻るのを覚悟した。


 彼が連れて来た少女のことは記憶に留めはしたが、何らかの命があるまでは誰も余計な詮索はしなかった。

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