97 転がり落ちる日常2

 窓を開けたり戸を開けている故の空気の流れか、厨房入口に下がる薄い暖簾はあたかも私とマルスを導くように厨房側へと微かに押されるように揺れている。

 嫌な動悸の中、見えない導き手に手を引かれるように私達は厨房へと入った。


 そしてその入ってすぐの所にザックがうつ伏せに倒れていた。


「ザック!?」


 彼の体の下からは現在進行形で赤い物が流れ出していて、得体の知れない不気味な生物がじわじわと彼の命を吸って周囲を浸食しているようにも見えた。


 ゾッとした。


「ザック……ッ!」


 悲鳴染みた声を上げて私は彼の傍に膝を突く。

 スカートが彼の血で汚れるのなんてどうでもいい。

 焦りと怯えのような胸中で震える手を伸ばしたけど、私同様素早くザックを挟んだ向かいに膝を突いたマルスからその手を掴まれた。


「いい、僕が診る。怪我なら仲間のを見慣れてる」

「あ……そ、なんだ……なら、お願い」


 頷く彼に放された手を引っ込めてぎゅっと握り込む。

 マルスはゆっくりとザックを仰向けにした。

 山賊仲間にもその手の怪我は付き物だったのかもしれない。真剣な面持ちで傷の具合を見下ろす様は私みたいに狼狽はしていないように見える。

 こんな若い子が冷静でいるのに、私ってば無様に取り乱しちゃってみっともないわね。


「うぅ……うっ……」


 動かされて刺激を与えられたおかげで意識を取り戻したのか、ザックは激痛に顔を歪めたまま小さく呻いた。

 でも朦朧としているみたいね。

 ザックの顔色は言うまでもなく蒼白だ。


「ザック! 待ってて今お医者を呼ぶから!」


 ああ、でも神様、良かった生きてる……!


 だけど服はもうすでにぐっしょりと血で濡れていてこのまま放置できない容体なのは感じた。

 服の状態を見る限り刃物で袈裟掛けに斬られている。仰向けにした状態で服の下の傷を確かめるマルスの表情は厳しい。でも顔を上げた時、眉間のしわは少しだけ緩められた。


「幸い、内臓には達してないようだ。かと言って浅いとも言えない。医者を呼ぶ前に圧迫して止血しよう」

「わかったわ、まずは包帯を取ってくる!」

「待て! 僕も一緒に行く。まだ犯人が潜んでいるかもしれない」


 立ち上がった私だったけど、マルスに強く制止の声を掛けられた。

 聞こえているからそんな声を大にしなくても大丈夫って思って振り返ったけど、彼の手は血で汚れていたから、きっと掴むのを躊躇した結果、代わりに叫ぶようにしたんだって何となくわかった。

 血が付いたって別に良いのに、こんな時なのにホント頑固にというか無駄に紳士なんだから。ああ違うかも、紳士ってよりも己に課した信念を謹厳実直に保持実行する中世の騎士みたい。

 だけどマルスの言う通りだわ。

 誰かが潜んでいる可能性だってあるのを迂闊にも失念していた。

 警戒心がまだまだ足りないわね。


「ザック、悪いけど我慢してね。すぐ戻るわ」


 辛うじて意識のあるザックは呻いたけどきっと返事のつもりね。


 マルスと連れ立って厨房の奥から住居の方へと行こうとして、だけど私は少しの違和感に足を止めてしまった。


 ザックが咳き込みながら、まだ呻いている。


 まるで何かを訴えるように。


 血の臭いって強烈だからそりゃあ広がるだろうけど、店内ホールから厨房に入って来た時に風向き、つまり空気の流れはどうだった?

 表口から微風となった空気は、ホールから厨房の方に流れ込んでいた。

 だけど私達はホールでも薄くはない血の臭いを感じたわ。

 ホール内に血の跡なんてなかったと思う。

 なのに、嗅覚に訴えてきた。


 まるで、血の付いた何者かがホール内に潜んでいたかのような濃さで……。


 その可能性に思い至った途端、ぶわっと冷汗を掻いて全身の毛が逆立った。


 背後はがら空き。

 もし犯人が私達を狙うならちょうど良い隙だろう。

 ザックの呻きが微かに強まる。こっちに何かを訴えるように。


 ハッとして咄嗟に振り返った私の目に暖簾が跳ね上がるのが見えた。


「マルス!」


 立ち止まった私の様子を不審に思って、彼も彼なりに考えて何か重要な見落としを悟っていたのか、マルスももうはっきりとこの場の四人目の人間を認識していたみたい。

 その証拠に、背後からの不意打ち同然に剣で斬り掛かってきた相手の攻撃を紙一重で躱わした。

 だけどちょっとの差だったから肝を潰したわ。

 おそらくはザックの血だろう赤に濡れた剣先を、私達、ううんこの場で唯一戦闘員っぽいマルスへと真っ直ぐに向けてくる相手の顔を見て、私は大きく目を見開いていた。


「どうしてあなたが……!?」


 相手は答えない。

 人形のように温度のない眼差しで敵認定のマルスを見つめるだけだ。


 ――王都警備隊の紺色の制服を着て。


 階級や担当業務なんかによって制服の色は違うらしいけど、いつも見掛ける彼らは紺色。余り目立たないけど、制服に飛んだザックのだろう血が斑点状に染みになっている。


「剣を下ろして下さい!」


 先日もアーニーと一緒に立ち話をしたのは記憶に新しい。

 何かの誤解で口論の末の刃傷沙汰? それとも、ザックに個人的に恨みが?

 ザックは稼業の片っぽはアレだけど、それだって国から公式ルートで依頼されてのものだから彼に落ち度はない。彼自身も恨まれるような人じゃない。

 そして巡回中街角で会えば気さくに話しかけてくれるこの警備兵も、理由も告げずに人に斬りかかるような人間じゃない。


「お願いだからやめて!」


 私の声が聞こえていて敢えて無視を決め込んでいるのか、それとも聞こえていないのか、警備兵は長剣を抜いたマルスと斬り結んでいる。

 常日頃からの訓練の賜か、兵士の剣捌きは中々大したものだった。

 短剣よりも慣れない長剣な上に、我流の剣法しかないマルスは親父殿相手の時のように苦戦している。

 短剣は馬車に食い込んだままだったから回収できなかったのよね。御者のおじさんが外して保管してくれるとは思うけど、タイミングが悪いったらない。


 でもマルスの動きが冴えないのは、相手の意図が掴めない以上、下手に傷付けられないって思ってるからってのもあると思う。


 私だってこんな真似をした理由を知りたいもの。


 マルスの振った剣が鍋に当たって派手な音を立てて床に転がった。幸い中身は空だったけど、広くはない厨房内で体勢を崩した所に腹に蹴りを入れられて、彼は壁際の調味料の棚にしたたかに背中を打ち付けた。


「マルス!」


 その隙を見逃さず兵士が切っ先を返して迫る。


「やめてってば!」

「アイリス嬢!?」


 ただ突っ立って見ているだけなんて出来なかった私は、金属製の片手鍋を手に無謀にも間に割って入った。素人考えだけど金属同士で何とかなると思ったのよね。

 ふっ、見事に功を奏して耳に五月蠅い甲高い金属音を上げて一撃は阻止できたわ。良い鍋使ってるじゃないザックってば。

 けど腕が痺れて鍋を取り落とした。

 そんな私の上に兵士は無表情にも剣を振り下ろそうとする。


「止めろ!」


 痛みに顔をしかめ、よろけるように立ち上がったマルスが叫んで、今度は逆に私を庇おうとする。焦っていたから剣で防御なんて発想もなかったのか、まさに肉の盾で。


 ちょっと何やってるのよマルスのばかーっ!


 これ以上は体勢的に私にも庇えない。


 ああもうピンチなんだから不死鳥が出て来てくれればいいのに、危ないのは私じゃなくマルスだからか、それとも帰ったばかりだからか、こういう時に限って出て来ない。

 他力本願はよくないけど、今だけは出て来てほしかった。

 悲鳴すら呑み込んでいると、しかし予想に反して兵士は剣を振り下ろさなかった。


 ただ脇に下ろして、別の手で強く私の腕を掴む。


「え!? ななな何!?」


 そのまま無表情に引き摺って行こうとするから、恐怖に慄いた。


「いやっ放してっ!」

「アイリス嬢っ」


 マルスが追い縋るように足を踏み込んだ刹那、兵士が横に吹っ飛んだ。


 痛そうな鈍い音を立て棚にぶち当たって動かなくなる。

 激しく揺れた棚の上からボウルが床に落ちて、これまた騒々しい音を立てた。

 兵士はその音にも反応しなかった。

 おそらくは完全に伸びている。


 ――な……に!?


 呆然と目を見開く私の視界中央に映るのは、ウィリアムだ。


 彼はすずしい顔をして兵士を蹴っ飛ばした足を戻したところだった。





「あ、ありがと。でもどうしてあなたが……」

「はあ? どうしてだって? 君がここに来るように言ったんだろう?」


 あ、そうだった。襲撃から回し蹴りまでの一連への動転の余り、思考回路がうっかりしたわ。でも予想外にもお遅いお着きでー。


「アイリスが戻るだろう時間を見計らって来てみたが、もう少し早く来た方が良かったようだな。酷い怪我をしているこの男性といい、剣を手にした王都兵といい、何があった?」


 何が、と問われ、私はザックの止血を思い出す。


「悪いけど話は後でするから!」


 加えて、ウィリアムに医者を呼ぶようにお願いすると、マルスと連れ立って即刻住居の方へと駆け込んだ。

 今度は警戒するマルスが頑固にも先を歩いてくれたけど、単独犯だったのか、幸い他の襲撃者はいなかったから救急箱を持って厨房へと取って返した。

 先になって廊下を急いでいると、マルスが沈んだ声を掛けてくる。


「ごめん。僕がもっときちんと周囲にまで気を配れていたら、侵入者に気付けた。そうしたらあんただって危ない目には遭わなかったのに」

「何言ってるのよ。そんなのお互い様じゃない。マルスが気付かないといけないなんてルールはないのよ」


 道端で向けられる視線に気付くくらいに敏感なマルスが店内の気配に気付けなかった辺り、彼も何だかんだで急な血の臭いに緊張を強いられて、尚且つ直後のザックの大怪我にすっかり気が動転していたんだと思う。

 はあ、こんなの年上としての立つ瀬がないわね。


 こうやって私を護ってくれようと気負って自責の念に駆られるくらいに、マルスってばこの上なくお人好しなのよね。


 さっきだって彼の方が危なかったのに……。


 そう考えたら、表情が曇った。

 後ろのマルスからは見えなくてよかったわ。

 暗澹あんたんたるものが胸に広がっていく。

 全くもう、このアイリス・ローゼンバーグって存在は、悪役令嬢としての何かをしなくても、こうやって他者に迷惑を被らせる迷惑星って星の下に生まれたのかしらねー。


 でも私が彼女になったからには、そんなのは御免だわ。勿論このトラブル体質もよ。


 喫緊の事態への現実逃避もあったのか、よおーしこれからは体質改善に努めるわよって良くわからないやる気が漲った。

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