93 再会は強引に
礼拝堂の最前列の長椅子で銀の髪の少女が一人、薄い瞼を下ろして祈っている。
カラフルなステンドグラスの光の下、その様は敬虔な信徒の手本のようだ。
一緒に来た両親は先に祈りを終え司祭と別の部屋で話し込んでいる。大方内容はこの教会で定期的に開かれてきた慈善事業に関してだろう。代々ローゼンバーグ家は
礼拝堂には偶然にも彼女以外に人影はなく、しかし彼女は一人ではない。
彼女ニコル・ローゼンバーグ伯爵令嬢を中央に、数多の小さな白い光が集まっている。
林檎くらいの大きさの光達はまるで意思があるかのようにそれぞれが不規則に浮遊していた。
他に見ている者があったなら、何と神々しいと称賛し或いは膝を屈しただろう。
聖女と言われたかもしれない。
「ビル兄様は姉様に会えたのでしょうか。見つけた、とは仰っていましたが」
彼女が瞼を半分開け声を発しただけで、光が動きを激しくさせる。
常人には光は見えてもそれらが発する音までは聞こえない。
「……相変わらず、ここはノイズがうるさいです」
伏し目のままやや低めた彼女の不機嫌な声にも光達は動きを休めない。
それには構わず彼女は顔を上げた。
「どうか姉様と一日でも早く会えますように……」
ひたと教会のシンボルたる正面の女神像へと菫の瞳を向ける。
ステンドグラスの赤い光が少女の菫の瞳を微かに赤く輝かせた。
「――へ?」
歩き出そうとしたら、不意に石畳から爪先が離れ、ふわりと腰まで浮いた。
指の先からパンの袋が離れていくのが妙なスロー速度で見えていた。
私の当惑の小さな息遣いに気付いたマルスが何とはなしに振り返って、珍しくも普段ほとんど変化のない面相の血相を変える。
「リズ!?」
パンの袋が落ち、マルスは抱えていた果物の紙袋を放り出してこちらへと手を伸ばす。
地面に落ちた紙袋から弾けるように丸い果物が散らばっていく。種類によっては潰れちゃったのもあるかもしれない。
直前、何の変哲もない箱馬車が普通速度で路地に進入してきたのには気付いていた。
だけど本当に往来のいつもの何でもない光景の中の一つだったから気にも留めていなかった。
その馬車がすぐ背後で急停車したかと思いきや、私ってば扉が開いて問答無用で引っ張り込まれたみたい。
マルスの手は空を掻いた。
「リズ! おい待てッ!」
こんな白昼堂々と連れ去られている危機的状況だってのに、私はマルスもあんな驚きと緊迫の表情もできるのね、なんてどこか呑気にも思った。親父殿と剣を交えた時とも違う不意打ちに焦ったような顔なんだもの。
そんなマルスが私の仮の名を叫ぶのが最早後方に聞こえている。
誘拐馬車は実に手際も鮮やかに私を連れ込むと、扉が閉まるか閉まらないかってうちに既に走り出していて、降車なんてもう出来そうになかった。
ほとんど一瞬と言っても過言じゃない出来事におよそ理解が追い付いていなかったけど、ハッとして手足をバタ付かせ後ろから私を拘束する誰かに抵抗してやる。
まさか視線の主がとうとう動いたの?
そいで以て標的は他でもない私だった?
王都警備兵が私を捕まえに来たってわけではなさそうね。
だって白昼堂々こんな強引に人を攫うなんて、きっと尋常じゃない輩に決まってるもの。
「ちょっと何するの!? 一体誰よ! 放してよ変態っ!」
恐怖より先に怒りが立って思い切り叫んで、どうにか身を捻って犯人の顔を拝んでやった。
一瞬、ううん、半瞬、思考が停滞した。
よく時が止まるなんて言うけど、感覚的にはそんなのに近いかもしれない。
或いはこうも思った――夢かもしれないって。
だってまさかこんな所で会えるなんて思いもしなかった。
会いたいって、けどまだ駄目だって自分に言い聞かせていた相手に。
「――ウィリ、アム……?」
そう、ウィリアムだ。
きっと今の私ってば声同様に物凄く間抜けで呆けた顔をしているんじゃないかしら。
某アイドルの歌じゃないけど、会いたかった会いたかった会いたかった!
本当の本当よ、ずっとあなたに会いたかった。
直前までの出来事も全て忘れたように、今の私の視界にも思考にもウィリアム・マクガフィンしかいなくなっていた。
これまでの不安とか、苦労とか、恐怖とか、そんな感情よりも何よりも大好きっていう切なさが込み上げて胸が苦しくて、無意識のうちにじわりと涙が滲んでいた。
ああもう嫌だわ、無様に泣くつもりなんてなかったのに。
「本物……?」
少しぼやける視界の中、本当に彼なのかって確かめるように相手の頬に恐る恐る指先を伸ばして……触れる寸前でハッと我に返って弾かれたように指先を戻した。驚き過ぎて一瞬馬鹿になったけど、冷静にこれが夢でも何でもない超現実ってわかったから。
わかったら急に怖くなった。
今は変装中で可愛くないし、それに……指名手配なんてされるような女なのよ。連絡だってしなかったから大層ご立腹かもしれない。
無言でこっちを見つめる青い瞳からは感情を読み取れない。
今の彼はマルスに劣らないポーカーフェイス。
もしかしたら、前までは恋人の私に心を許してくれていたから感情を見せてくれていたのかもしれない、なんて思う。いつだったか私じゃ釣り合わないかもって感じたのも思い出した。
彼はこの世界では長く暮らしてこの世界の常識とか感覚とかをウィリアムとして培ってきた。
私とは違って。
アイリス歴の浅い私はまだまだ感覚としては異世界ファンタジーに右往左往する日本人でしかない。自由恋愛ができる現代日本人的には階級ガッチガチなここの貴族の考え方なんて慣れないとしか言えない。
それでもマルスと出会ってリズとして暮らして少しは常識や習慣を肌で理解した。
だから思い至りもする。
ウィリアムが私に愛想を尽かすかもれないって。
輪を掛けてこの野暮ったいカッコに羞恥を抱いた。私だって好きな人の前では可愛くしていたい。
「――おっ降ろして!」
逃げ出したかった。すぐにでも。一旦落ち着く時間が欲しかった。
焦って叫んで馬車の扉に飛び付くように取手を掴んで、走行中だってのに危険を顧みずに出ようとして扉を開ける寸前で、馬車の入口とは反対側の奥まで引き戻された。
後ろからウィリアムの両腕でさっきよりもしっかり捕まえられる形で。
「放してウィリアム」
「できない。危ない真似をするからな」
「もうしないから、放して」
「嫌だ」
「本当よ!」
「どうしてこんな君を放っておけるって言うんだ? アイリス……」
そのまま一度ぎゅっと抱き締められて、腕を緩めた彼から頬を拭われた。優しく優しく何度も。でも涙が止まらない。
「どうして泣くんだよ。強引だったからびっくりしたのか?」
「ち、違うわよ。初めは感激の涙だったけど、あなたが……、あなたが私を怒って幻滅して見限ったかもって考えたら居たたまれなくなったの!」
「……だから逃げようとしたのか」
「そうよっ」
自分でも幼稚で短絡的で勝手で恥ずかしい台詞を言ってるってわかってる。
「嫌われてたらって思ったら……悲しくて、だから……」
ふと顎先を上げられて唇を塞がれた。唇を離したウィリアムが嘆息交じりに軽く私を睨む。
「数ヶ月離れていただけで君はこれか。遠恋は無理だな」
「な……」
不意討ちキスに固まった私へとウィリアムは尚も囁き掛けてくる。
「これからは常に君から離れないようにするよ。俺の気持ちが離れるだなんて愚かな考えすら湧かないように。どうして俺が嫌うと思うんだ。俺はこんなにも……」
彼の睫毛が近付いて、でも今度は避けられる速度だったのに、私はそうしなかった。彼も私の気持ちを探っていたのかもしれない。滑らかに触れ合って離れてお互い少し息をした。彼の気持ちも私の気持ちも互いの心の中に伝播するみたいだった。
ああ、私はやっぱりこの人が好き。たとえ嫌がられても離れたくない。
キス一つでもうもどかしい言葉なんて要らなかった。
ホッとして気持ちも頬も緩みかけた矢先、噛み付くように、だけど慰撫するような深いキスをされた。
びっくりしたけど抵抗するなんて気は微塵も起きない。
ああ、私も彼とこうしたかったんだわって思って、何だかそれも可笑しいけど妙な感慨を以て心で納得した。
息継ぎさえ忘れたように何度も何度も何度も、角度を変えて互いを確かめ合って、零れた涙まで彼のキスに埋没するまで……って、そうしたかったけど、現実はそう容易くないのよねー、ホホホホ。
増していく愛しさとは裏腹に現実を思い出せば少しは冷静な思考も戻ってくるというわけで、やんわりとウィリアムの胸を押し返せば、彼も彼できちんと状況をご理解頂けているようで、しつこくしてはこなかった。
「まさかこんな風に変装した君とキス出来るなんて思ってもみなかったな」
それでもこんな風に
「へ? ああ……」
だけどまあそういえばそうよね。
「この野暮娘姿でよく私だって見抜いたわね」
「ん? 魔法もなしなお粗末な変装如きでどうしてわからないと思うんだ?」
「……」
心底不思議そうにされたけど、いやいやこっちが不思議よ! ホントにどんな察知能力なわけ?
でも、もしかして最近付き纏っていた視線ってウィリアムなの?
だとすれば辻褄は合うわ。全く人騒がせな……。
「折角だしもうちょっと堪能するか」
「へ?」
注意が疎かだった隙を狙ったのか、楽しそうに低めに笑う彼からちゅっと軽く唇を吸われた。
「も、もういいでしょ。それよりお互いに話すべきことが沢山あると思うんだけど」
窘め諭すように睨めば、私の長く分厚い前髪を梳き上げたウィリアムはふうと小さな溜息をつく。
「俺はまだまだ足りない。電池残量で言う所の赤ランプだ。残り三パーもない。君は俺が恋しくなかったのか?」
「そっ、れは恋しかったけど、それ所じゃないし、今のこの姿って最高に可愛くないし」
下手な言い訳のように言葉を並べるとウィリアムは微苦笑した。
「どこが可愛くないんだ? 可愛いが」
「えっ!?」
「それに、時々はこういうのもすごく盛り上がると思う」
「……変態」
半眼で抗議するも「こんな変態で愛想を尽かしたか?」なんて逆に得意気な挑発顔で問われてぷうと頬を膨らませた。
「尽かすわけないじゃない」
わざとらしく顔を背け言ってやれば、ウィリアムは笑みの種類をまた微苦笑へと変えて、次にはその顔で酷く責めたそうな目をした。
ちょっとだけ、どこか泣きそうにも見えた。
……ウィリアム?
「本当に無事で良かった。どれだけ俺が案じたと思っているんだ……」
その表情と台詞だけで、彼の心情が伝わってくる。
……今のキスの数々でも、うん、まあ、一二〇%は伝わったけど。
「もう俺が嫌うとか馬鹿な考えはなくなったろ?」
「うん、心配掛けて、ごめんなさい」
自然としおらしくなる私をウィリアムは何も言わずに深く抱きしめた。今度はちゅーなしで。
「……まあ、怒ってはいるけどな」
「えっ」
「だけどこれでご機嫌取りしてくれれば、怒りも治まるかもなー?」
これでって言うのはたぶん現状のハグ。仕方がないなってくすりとした私も彼の背に腕を回して、私達は馬車の車内でしばし互いの存在が未だこの世界上にある幸運を確かめるかのように抱きしめ合った。
それ以上の言葉がなかったのは、真実私が無事なのだと伝わっているからだろう。
馬車は走り続けている。
そう、走行中だ。
私がまさに誘拐されたとしか思えない状況を放置しっ放しで。
…………。
「あああっどうしよマルス!」
思い出して両手を突っ張ってあたふたとすれば、
「マルス……? 誰だそれは? さっき仲良さそうに一緒にいた奴か?」
座席に押し倒されて低く問われた。
え、怒ってる? ご機嫌取られてくれたんじゃないの?
「あ~そっか、ヤキモチ!」
茶化したら思い切り睨まれた。
これは話せば長くなるけど、話すしかないわよね。
「ええと実はね」
「別の男の話はどうでもいい」
でも説明しようとしたのに拒否されちゃった。
しかも額同士をくっ付けられて「君から来るか俺から行くか、どっちがいい?」なんて言葉が飛んできた。
これってキスの催促よね。え、まだするの?
何かしらねー、会わない間にこの男ってば随分と糖分増し増し男になっちゃってまあ……。
感激して泣いちゃうくらい嬉しいけど、ホントちょ~っと待って待って。何これ再会して早々にドキドキさせて殺す気なの?
密着しているせいか、力を上手く入れられず解放を見込めないと悟った。
だけどさすがにどうしたもんか頭突きでもするかって半ば本気で思案した矢先、ガクンと馬車が衝撃に揺れて停まった。
「何だ……?」
「何今の?」
私もだけど、ウィリアムも即座に身を起こして警戒の視線を走らせる。
私を片腕で抱き寄せたまま、彼は馬車の後方が見える窓を睨むようにした。
既に馬車は停車している。
私の方は私の方で、馬車前方が見える小窓に目をやった。その先では御者のおじさんが「今確かめて参りますのでお待ちを」と慌てたように御者席から降りた所だった。
刹那、馬車の乗り口の扉が乱暴に開け放たれた。
御者のおじさんはその扉とは反対側に降りたから、彼じゃない。
「アイリスッ!」
マルスだった。
とても必死な顔の。
いつもどこか一線を引いている「アイリス嬢」呼びじゃない。リズでもないのは懸命過ぎて思わずそのまま呼んじゃったんだわ。彼自身呼び捨てにしたのを自覚してなさそうだけど。
「マルス……」
思わず名を呟けば、彼は目を潤ませ男に抱き寄せられている私を見て殺気を放った。両眉と両目を吊り上げる。
「あんた……ッ! 彼女に何をした!? さっさとその劣情に塗れた汚い手を放せ!」
ええと、劣情って……。外れてはないけどマルスったらわざと際どい言葉を選んでいるわけじゃないわよね~……?
彼はそのまま馬車に勢い込んで踏み込んでくると私の腕を掴んで引っ張った。
でもウィリアムも私を絶対渡さないとでも言うように腕に力を込めた。
「えっ二人共落ち着いて!」
右に左に体が揺れる。綱引きかッ!
「は、話せばわかるからそんなに引っ張らないで頂戴!」
右、左、右、左……右右左左上上下下――って違う違うゲームの裏ワザかッ!
男達はそれぞれの険呑な視線を合わせてバチバチ火花を散らしてるけど、冗談抜きに腕抜けそうなんですけどね!
「痛い痛いっ腕もげるーっ! ――ああああここに来たれい大岡越前よーーーーッ!!」
ってどこか壮大な気持ちで痛みを訴えれば、ハッとした二人の手がほぼ同時に離れた。
フッここでこそ「私のために争わないで!」って台詞がピッタリって思ったけど、咄嗟に出てきたのは大岡越前様だった。
案の定、直後の馬車内はしんと静まり返った。
二人から解放されホッとしつつ、密室たる馬車の中じゃ絶対息が詰まるって思って路上に降りる提案をした。どうせ馬車は車輪に問題でも生じたのかまだ動かないみたいだし立ち話でいいでしょ。
大岡裁きを知っているウィリアムは渋い面持ちで、知らないマルスは不可解そうな面持ちで、私の提案に素直に頷いてくれた。
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