85 酒場の野暮娘
今は王都も夕暮れ時。
多くの労働者たちが帰路を、或いは馴染みの店へと、一日の労働からの解放感を足取りに滲ませる。
きっと今夜も王都の酒場「処刑どころ」は賑わいを見せるだろう。
「いつ見ても、何とも言えない店名よね」
鍋に突き刺さるナイフとフォークという悪趣味いやいや斬新なデザインの店の看板を軒下から見上げての私の呟きに、外掃除用の箒と塵取りを手にしたマルスが小さく同意に頷いた。
死刑執行人との思わぬ再会から一月余り。
私とマルスはこの店で働かせてもらっている。
そう多くない死刑執行の仕事だけでは食べて行けず、やむなく副業を持つ同業者は多いのだと死刑執行人の男――ザックは言っていた。
むしろザックの場合は死刑執行の仕事の方が副業扱いって感じらしいし。
予期せぬ再会のあの夜、店の奥の厨房で怯える私に、理由を知らないマルスはその理由をザックの口から聞くまでずっと手を握っていてくれた。それは安心を促すためと、そして念のためいつでも私の手を引いて逃げられるようにって配慮からだろう。
マルスが親父殿から言われてここに来た旨をもう一度説明し、私の事も簡単に話した。
『なるほど。そう怖がらなくても良い。お嬢さんを取って食いやしない。そもそも処刑は取り消されたんだ、わしがお嬢さんをどうこうする必要はないさ』
『で、ですけど、私を縛って逃亡犯として警察に突き出す気なんじゃ……?』
『けいさつ?』
『ええと取り締まりの……』
『ああ、王都警備隊のことか。どうして?』
ここ王都では王国軍に属する王都警備隊が、地球で言うところの警察の仕事も兼任しているみたい。そもそも警察って呼び方もしないようだしね。まだ私はそういう細々とした常識を覚えないといけないのよね。
『どうしてって……私は賞金首だって聞いたので。お金欲しさに売られるのは御免です。しばらく雲隠れしたくてマルスのお父さんの言葉に従ってここに来たんです。でももしもそうできないなら……』
ここも危険なら逃げると臭わせればザックは何だか不可解そうに変な顔をしていたけど、彼が何かを問う前にマルスが私に代わって言葉を紡いだ。
『あなたは僕達の力になってくれると親父殿は言っていました。親父殿はアイリス嬢の正体を知った上でそう言ったんです。そして当然彼の息子の僕の稼業もお気付きですよね。そこをわかった上で、親父殿は送り出してくれました』
マルスの言葉はザックにだけ向けられたものじゃなく、きっと私へも向けられていた。少し落ち着くようにって意が暗に込められていた。
私達の事情に関係なく、この目の前の死刑執行人は助けになってくれるだろうってマルス自身そう感じていたからだと思う。
そして現にそうなった。
ザックは徐に腰を上げ店内へと「少しの間注文停止だ」と叫んで戻ってきたっけね。
え、いくら自分の店だからってそれはいいのかしらって思わず心配しちゃったわよ。
しかも戻って来て椅子に座り直すかと思えば「安い茶葉で悪いが」とか言いつつすごく綺麗な色味の紅茶を淹れてくれた。目利きなのか安いながらも質の良い物を選んで仕入れているんだわって思った。
逃亡中の身で出された物を無警戒に口にするのを躊躇っていたら、ザックは「変な物は何も入っちゃいないさ」って苦笑した。
遠慮なく先に手を付けていたマルスはともかく、おずおずと私がカップに口を付けるのを見て、更には「あ、美味しい」なんて思わず口から出ちゃったのを聞いて、彼は嬉しそうに朗らかな笑みを浮かべた。
そうすれば目尻のしわが深くなってえくぼが出来て、彼が冷然と処刑を行う面を持つ人間だなんて思えない人懐こさがあった。
癒し系のイケオジって言えばそうかもしれない。
ぶっちゃけ言えばその笑みに警戒心が薄れちゃったわよ。
そして少しずつ会話を重ねて、その結果ここで働けばいいって流れになった。
私としてもマルスとしてもさすがにただ飯食らいは遠慮したかったのもあって、働きながらだったらお世話になるのに抵抗がなかったからザックのその言葉に同意したの。
この酒場はザック一人で切り盛りしている。
結婚はしていたみたいだけど、奥さんは彼の公的な稼業が嫌でとうとう出て行ったとか何とか。
とにかくそういうわけで私はマルスと二人でここの従業員に収まったわけだけど、もちろん外見をそのままで店に出るわけがない。
だって王都の至る所に他の手配書と一緒に私の手配書が貼ってあるんだもの。買い出しに行く途中でいつも見掛けるし、何だかもう選挙にでも出てる気分だわ。え~、清き一票をよろしく~。
視界に入れるのも嫌で目を逸らして通り過ぎていたけど、反対にマルスは時折りじっとそれに見入っていたわね。
人相書の方が美人とか思ってたらゲンコツよゲンコツ。
まあ掲示板には他の情報も載っているし、広く情報の確認もしていたんだと思う。
「――それ、メイクをし直した方がいい。そばかすが滲んで不自然になってる」
「え、薄い?」
開店前の掃き掃除を終えたマルスから指摘され、私は黒髪の下の鼻の頭を触った。
周囲にはマルスとは姉弟だって言ってある。
私はマルスに合わせて髪は黒く染め、前髪を長めにして瞳を隠し、そばかすを念入りに描き込んでいた。
野暮ったい娘を印象付けるには持って来いのメイクをしているおかげで酔客からほとんど絡まれずに過ごせている。
未だに誰も私が人相書の令嬢だとは気付いていない。
この変装案はザックのものだ。
彼はたまに客から私が絡まれると上手く取りなして無難に私を店の奥へと引っ込ませてくれるし、客同士の
店舗兼住居の建物の屋根の下、ザックの奥さんがそのままにしていったって言う小さな鏡台の前で入念にそばかすメイクをし直しながら、きっと今夜も何事もなく過ぎて行くんだろうなって思う。
正直、この緩やかな平穏に身を委ねてしまいたいって思ってしまう時もある。
だけど……脳裏を過ぎる顔がある。
それに、あんのワル魔法使いアーネストの事だってある。
今まで来ていないのは彼も私の行方を把握していないからじゃあないかしらね。
それはそれで好都合。不意打ちは御免だもの。こっちから捜し出してやるわ。
とは言え、いつになるかはわからない。
実家に戻れる日だって……。
手配書が風化して勝手に掲示板から剥がれる日を待つか、さっさとアーネストを取っ捕まえて私の冤罪を証明する方が先か、考えると先が思いやられるわ。
大事な人に手紙だって出したい。
だけど王都から出せば足が付くから、そのうち遠出してそこから投函するつもりでいる。まあそれもいつになるやらって話だけど。
ザックは情報収集にも長けていて、ローゼンバーグ家がどうなっているのかを教えてもらった。
お咎めはなし。
マクガフィン家とはやっぱり婚約解消されていて、その最たる理由は公開処刑時にウィリアムが言っていたように託宣の変化によるせいみたい。
本来のアイリスが死んで、私がアイリスになったから変化が生じたんじゃないかって思ってる。
まあその真偽はともかく、もう一つ大きな理由もあると思う。
公爵家としては逃亡犯が息子の婚約者じゃ外聞が悪いものね。だから婚約解消に至ったんじゃないかしら。
決してウィリアムが望んでの破談じゃないってわかってはいても、やっぱり少しどこか胸が痛んだ。
処刑どころは本日も客の入りは上々。
私もマルスもザックも等しく忙しい。今も空いたテーブルを手早く片付けていると、およそこの一月の間王都やその近隣を騒がせているとある話が耳に飛び込んできた。
「昨日もまた出たらしいぞ、吸血鬼」
一瞬、皿を重ねる手が止まった。
カウンターで飲んでいるおじさん達の会話に私は何食わぬ顔で黙って手を再び動かしながら耳を欹てる。
「またか? 娘にも気を付けるように言っておかんとなあ」
「お前のとこは赤毛だから平気だろう。被害に遭うのは大半が茶色っぽい髪だし、目の色だって青だか紫だって話だぞ」
「夜暗かったら犯人だって間違うかもしれないだろ?」
「それは確かにそうかもな。気を付けておいて損はないか」
「だろだろ。お前のカミさんにも注意喚起しておけよ?」
「ああ、そうするよ」
彼らとしては対岸の火事のようにしか感じていないのか世間話の一つに過ぎず、話題は他のものへと移っていく。
私は密かに溜息をついた。
……吸血鬼、か。
日本じゃオカルトとか創作物の中の代表的な魔物の一つよね。
でもこっちは魔法もあるし、精霊もいるし、聞く所によればエルフやドラゴンとかの伝説の存在だってどこかにはいるらしいし、吸血鬼も実在するのかもしれない。
いるとしたらやっぱり美形? 漫画の中じゃ吸血鬼ってウィリアムみたいな美形が多いもの。試しに唇からチラ見えする牙を想像したら凄く様になった。魔物だから瞳は深紅で妖艶さが漂っていて……ごくり。
あ、ニコルちゃんもありよね。夜光に仄かに浮かぶ銀髪と底光りする紅の瞳で血を下さいって迫られたら……これは流血姉妹百合確実だわ!
いつか二人にコスプレ頼もうかしら、なんてにやついた所で近くの客からの怪訝な視線にハッとして慌てて妄想を打ち消した。危ない危ないうっかり鼻から流血するとこだった。
この吸血鬼事件じゃ未だに死人は出ていないって話だ。
血を抜かれるけど死に至るまでは抜かれずに、襲われた後道端に倒れている所を発見されるケースばかりだとザックが言っていたわ。
狙われるのは決まって若い女性で、特徴は先にお客達の言っていた通り。
本当に血を抜くだけが目的で、幸いにも性的な乱暴は一切されていないみたい。
美容のために若い娘の生き血を飲むだとか、イカれ系の危ない用途じゃないといい。
輸血用とか、平和な考えで血を欲しているのを願うわ。
まあ、襲っている時点で最早全然平和もへったくれもないけども。
ふと、何となく、血って聞いてアーネストが思い浮かんだ。
そうよ、変態なんだし彼の仕業って線もあるのかも。
もしも犯人があいつって推測が当たっていれば、彼を取っ捕まえる絶好の機会なんじゃないの?
「どうかしたか? ――リズ」
ついつい考え込んで手を止めちゃっていたらしい私の様子を怪訝に思って、マルスが声を掛けてきた。
そう、今の私は、リズ。
これも念のための偽名なの。
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