10 深夜の魔法使い1

「さっきまで至って普通のドレスだったのに、魔法具ってこんな急激に変化するのね。よし一つ詳しくなったわ……ってそれよりも今は逃げ道ッ!」

「あはは~、的確な一人ボケとツッコミ御苦労様~」


 混乱の極みの中の現実逃避に喚く私の傍ではやっぱり避難もしない日記が寄り添ってくれている。

 改めて感動だわ。

 もしもこれを生き残ったら金ピカのすんごい装丁にしてあげるわね!


「でもこんなの見つけられるわけないわよ! 発動直前にならないとマジでホントわからないじゃない! アイリスの性悪ーっっ!!」

「だってその通り性悪だもの」

「うううっこんなの酷い!」


 危険物は奇しくも着ていたドレスだったなんて運がないにも程がある。


 脱ぎたくても体が動かないし、このまま部屋の中央に魔法拘束されたまま死ぬだなんてあんまりだわ。

 でも私は勿論日記を読む限りアイリス自身も自分じゃ魔法を使えなかったみたいだから踏ん張りどころで秘めたる力が目覚めて……なんて奇跡は起きない。

 焦りの中にある間にも、黒ドレスは不穏な変化を遂げていく。

 まだ熱も何も感じないけど、これが全部染まったら絶対に歓迎できない事が起きるのだけはわかるわ。


「はっそうだ! 日記あなた動けるなら花瓶でもたらいでもバケツでも何でもいいから水持ってきて私に掛けてよ! 焼け死ぬつもりなら火が出るはずよね。水を被っておけば燃えないかもしれないわ!」

「ボク非力~。水なんてボクが最も敬遠すべきものに近付くはずないでしょ~」

「この部屋ごと焼けたらあなただって焼けるじゃないの」

「その前に逃げるよ~」

「えっ!?」


 感動した私が馬鹿だった。


「こ、この薄情日記ーっ!」

「ポンコツの次は薄情かー……」


 とうとう真っ黒だったドレスはその布地の全てを赤黒い輝きで満たした。

 一層輝きが強くなる。


「いやーっまだ死にたくないーっ!!」

「一度死んでるじゃない」

「そういうことじゃなーい!!」


 ボボボッと音を立てて床に付くドレスの裾が発火した。

 じわじわと炎は大きくなって上へと伝わってくる。


「ひいいっ! やだやだやだどうすればいいのよこれ。ホントお願いだから助けてよ日記! 日記ってば!」


 錯乱しかねない私の思考回路は何度も日記に救命を願う。

 なのに日記は最早宥めの言葉一つすら返してくれなかった。


 ってああ! いつの間にか私から離れたテーブルの上で大人しくなってるし!


「ホント何なの! 場の空気読めえええー!」


 ああ何て酷いこの世界の案内役!


 円く綺麗に広がった裾が均等に炎を宿し、その火は絨毯にも燃え移っている。

 燃焼の熱に炙られて皮膚表面は熱さだけじゃなくもうそろそろ痛みを感じ始めるに違いない。

 生きたままこんがりなんて、冗談じゃないーーーーッ。


「動けっ、動きなさいよっ!」


 魔法拘束は嘘みたいに頑丈で、見えないくさびでも打たれているようにやっぱり指先くらいしか動かせない。


「やだっ! 熱っ! 熱いわよーっ!」


 私は未だかつてこんな怖い思いをした経験なんてない。


 前世最期の間際でさえ、近付く車体に冷やりとしつつもどこか自分の身の上じゃないような感覚で眺めたっけ。


 悪女アイリスの死に様としては相応しいなんて、明日の皆は言うのかもしれない。


 けどそう思えばやり切れないものを感じた。


 日記を見るだに、この子はただ真っ直ぐに愚かしいだけの腹黒娘だったのよ。

 激しく方向性を間違ってはいたけど、外見とか表面しか見ない者たちに愛想を尽かした可哀想な愛されたがりだったのよ。

 この子の両親でさえ、小さい頃から才色兼備のできた良い子だと型に嵌めて、この子の真の姿を見ずにいた。ホントはもっと甘えたいって願いを意図せずも口にさせなかった。

 日記には所々でそんな気持ちだったって正直に綴られていたわ。妹が羨ましいって感じで。


 でも結局がたがが外れて我が儘し放題になったアイリスが、どうしてこうなるまで我が儘の一つも言えなかったのか。


 それは、――彼女が養女だったから。


 彼女自身物心がつくまでは知らなかったみたいだけど、ある日使用人たちの会話を聞いちゃって真実を知ったみたい。でも両親には今に至るまで一度もその話を訊ねられなかったからホントに養女なのか、もしそうなら自分の本当の来歴はどこかって確認できてないみたい。


 とにかく、ニコルちゃんとは違うんだって変な遠慮があった。


 ああだけどこれは偶然なのか、はたまた実は出生は近しい親戚筋だったのか、本当の姉妹じゃないのに二人は同じ菫色の瞳をしているみたいね。


 同じ色だから余計色々と比較しちゃったのかも。

 何であれ、本来はそんな風に自分を控えちゃうくらいに臆病な子だったのねアイリスって。まあ人間変われば変わるけども。どうしてこうなった……ってそこは置いとくとして、アイリスが目の敵にしていた妹ちゃんはいつもアイリスの肩を持ってくれる良い子みたいだけど、我が儘の一つも言えなくなっていたアイリスとは違って自由だった。

 更には約二年前、彼女が想い人のウィリアムと婚約したのがかなりショックだったみたい。

 日記を見るにそこからなのよね、憂さ晴らし的な悪戯で済ませられる程度だった悪行がレベルアップしてったのは。完全にグレたってわけ、二人の婚約がきっかけでね。

 このまま結婚を認めるなんて真っ平よって思っていたみたい。

 真っ平と言えば、私だってこのまま死亡なんて真っ平御免だわ。

 だからどうか、神様がいるなら、きちんと私の転生人生に責任を持ってよ!


 火勢が増して火傷するくらいの熱が鼻先を立ち昇る。


 視界が揺らめくのは陽炎のせいなのか涙のせいなのかわからない。


「――お願いだから誰か助けてっ!!」


 刹那、激しい音を立てて窓ガラスが割れた。


 バルコニー側の格子戸が蹴破られたせいだった。


「――ウンディーネ!」


 張られた裂帛れっぱくの声とほぼ同時に、私の上から土砂降りの雨みたいな水が降った。


 一気に炎は消され白い煙が上がったけど、どうも普通の炎じゃなかったらしく、ドレスの裾は再び発火する。


「きゃああっ」


 呆然となりながらも助かるかもなんて思った私も、さすがに再びの恐ろしさに身を竦めた。


「うううわあああんっやっぱり見つけられなかったから死亡フラグは回避不能なの!? 私のこんがり丸焼き決定なの!? 絶対美味しくないわよーーーーッ!」


 涙声で自棄になって叫んでいると、水がまた降り火は消えて、その最中に誰かが傍に来て問答無用で素早く魔法のドレスを引き裂いた。


 その瞬間束縛魔法からも解放されたようで、支えを失って思わず体勢を崩した私は誰かの大きな掌に肩を抱かれて部屋の中央、正確には裂かれても尚、床で未だに燃えようとするドレスから遠ざけられるように引っ張られた。

 無意識に恐怖に身をガクガクと震わせながらも、真っ白い思考回路は言葉一つも生み出さない。

 ただしばらく状況の把握も忘れ、ドレスが勝手に燃えて灰になるまでを見守ってしまった。

 ポタポタといくつもの滴が顎先から離れて落ちていく。

 きっとしょっぱいのとしょっぱくないのとが混じり合って……。


 頭の先からずぶ濡れたまま、私はこれが本当に現実なのかと疑ってさえいた。


 むしろ臨場感があり過ぎて、逆にこれは夢なんじゃないのなんて思ってもいた。

 きっとこのまま気を失ったら、日本の病院のどこかのベッドの上で夢落ちよろしく目が覚めるんだわ、なんて。

 だけどこの期に及ぶそんな淡い期待はあくまでも期待だ。


 変な話、こんな怖い目に遭って「ああ、ここが本当に私の現実なんだ」って、ようやく心の奥まで理解が収まった。


 呆然とする中でも引き攣った自分の浅い呼吸の音が耳に届いているのに気付いて、ようやく少しだけ現実感を取り戻した時、


「アイリス、大丈夫か?」


 気遣うような、どこか控えめな声が耳朶に落とされた。


 こんな気弱な調子の声なんて知らなくて、でも葵みたいな抑揚に心の中がだいぶ落ち着いて、ふと誰の声だろうと見上げれば、ギリシャの芸術的彫像が……ああいやいや違った違った類稀なる美貌がすぐそこに。


「ウィリ、アム……?」


 彼から発されたものだとは一瞬信じ難く、無垢な子供のように問い掛けていた。

 意識すれば自分はまだ小刻みに震えている。

 室温は決して低くはないのに、しかも焼き豚よろしく炙られたのに、体の芯から冷えたように寒かった。

 会ったばかりだけど知ってる顔を見たら安堵が込み上げて、目尻に更なる涙が盛り上がる。


「火がっ……ドレス、がっ、いきなりで動けなかったのに、燃えて……っ……」


 あうあうと唇が震え言葉にならない引き攣りを挟んで、要領を得ない説明が口から転がり出てくる。

 それでも助けてくれたのだろう相手に言いたかった言葉が咽の奥から何とか出てきた。


「助け…てくれて、あり、がとう……ッ」

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