第34話 「もしかして、俺のことを言っているのか?」

 8回の裏にそれは起こった。

 それまでも少なからず、スタンドの観客席から聞こえてはいた。つぶやきと、問いかけのような形で、それは、ざわざわと。

 何だろう、とマーチ・ラビットは思っていた。妙にそのざわざわしたものは、彼のやや長く伸びた後ろ髪にまとわりつく。

 彼の居た三塁側ベンチの真上でも、そのざわめきは次第に大きくなってきてはいた。いや、むしろそれは、そこを中心にしておきつつあった、と言ってもおかしくはなかった。

 波は、次第に広がっていく。

 マーチ・ラビットは首をかしげつつも、マウンドに向かった。

 気にはなる。だが現在は試合中だった。試合中に気を散らしてはならない、と彼は考えていた。それが誰に言われた訳ではなく、自分の中から湧いてくるものであることを、彼は気付いていなかったのだが。

 現在、一点の優勢。その一点をどうしても守らなくてはならない。

 一度引っ込んでしまったからには、彼に変わってストンウェルが出るということはない。マーチ・ラビットは何とかして、自分がこの回を押さえなくてはならないことを心に刻む。

 ヒュ・ホイのサインを見てうなづき、彼はワインドアップから思い切り投げた。

 最初に彼が出てきた時には見送ったサンライズの打者達は、その次の回から、攻撃に出てきた。やはりある程度様子を見ていたのか、と彼は納得する。

 三振もとったが、打たせてアウトにする、というパターンも多かった。それには守備陣の力も大きい。

 スクェアは彼の背後で、派手ではないが、確実にボールを取って、安定した送球で一塁を刺したし、テディベァルは三塁側に飛んだ打球を、その持ち前の足腰で、ジャンピングキャッチの離れ業を何度もやってのけた。

 皆が皆、このサンライズと対等に戦っているのだ。自分はそれに応えなくてはならない。


「ストラック・アウト!」


 主審が手を挙げる。三球三振、だった。ふう、と彼は帽子を取り、汗をぬぐう。

 その時、だった。一つの声が、高く、球場内を飛んだ。


「D・D!」


 彼は格別、その声に気を取られることはなかった。―――その声が一つであるうちは。

 だが同じ名を呼ぶ声は、次第に増えていった。ざわめきの中にある戸惑いの、次第に膨らみつつあったものが、その一つの声を皮切りに、ついに弾けた。


「D・D!」

「D・D!」

「D・D!」


 次第にその声は、球場の中で、大合唱となる。

 彼は一体何が起きたんだ、とその大合唱の真ん中で、大きな目を見開き、この急激に変化した空気に戸惑っていた。

 首筋が、ざわざわとする。長めの髪が逆立つ思いだった。


「タイム」


 審判が手を挙げる。何だろう、と思っていたら、スクェアが、彼のそばに寄ってきた。他のメンバーも、それが合図であったかの様に、マウンドのマーチ・ラビットの元へと集合する。

 その間にも、スタンドからの声は続いていた。いや、どんどん大きくなって来る。怖いくらいに揃いつつあった。


「……何だと思う? ラビイ」


 腰に手を当てたスクェアは、落ち着いた声でマーチ・ラビットに問いかけた。


「何って」

「それとも、それでも、判らないか?」


 彼は眉を大きく寄せた。言っている意味が、理解できない。


「あれは、お前を呼んでるんだぜ」

「俺?」


 何を言ってるんだ、とマーチ・ラビットは眉を寄せる。


「嘘じゃあないさ」


 ライトからゆっくりと近づいてきたペトローネも、そう付け足した。


「スタンドを埋めている、あの観客達は、あのD・Dが、この場に復活したことを、感じてるんだ。コモドドラゴンズの、伝説の投手の男を」


 は? とマーチ・ラビットは顔を歪める。ふむ、という顔で、トマソンはうなづく。


「やっぱりそうだったのかよ。名前はともかく、どっかで見たことあるよなあ、と思ったけど」

「俺なんかちゃーんと気付いてたもんねー」


 へへへ、とテディベァルは笑う。


「けど皆さん、早のみこみはいけない。彼自身はどうなのです」


 ミュリエルはあごに手を当てると、マーチ・ラビットの方を見た。


「何だよ先生、あんたは見たことないのかよ? あんな有名人だったんだぜ?」

「そうかもしれない。だけど、他人の空似ということもあるかもしれない」

「ふうん?」


 テディベァルは口を尖らせて、くい、とマーチ・ラビットの顔をのぞきこむ。


「ちょ…… ちょっと待ってくれよ」


 のぞき込まれた方は首を横に振りながら、グラブを付けた手で、球をぎゅっと握りこむ。


「さっきから、一体何のことを言ってるんだ? もしかして、俺のことを言っている、のか?」

「そうだ」


 スクェアは短く答えた。真剣な目が、自分を見据えているのを、マーチ・ラビットは感じる。その視線を受け止めているのが、ふとたまらなくなり、彼はまた目を逸らし、首を横に振る。


「嘘だ」

「あんたが嘘だと言おうと、客は正直なんだぜ?」


 聞き覚えのある声が、彼の右の耳に届いた。


「ビーダー?」

「ほらよく聞いてみろよ。あれは、あんたを呼ぶ声なんだ」


 マーチ・ラビットはつ、と観客席を見上げた。ぐるりと彼らを囲む、小さな小さな、顔顔顔。その顔が、口々に、こう呼んでいる。D・D、と。


「それが俺の、本当の名だと言うのか?」


 ビーダーはうなづく。


「俺の、消された記憶は、そういうものだったのか?」

「そうだ」


 そして断言する。


「俺達は、あの頃、一緒に戦う仲間だったはずだぜ? 俺も、スクェア先輩も、ペトローネ先輩も………… そして」


 ビーダーは一塁ベンチの方へあごをしゃくる。


「キダー・ビリシガージャ監督も」

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