第3回 海の底で待ってる白く綺麗な椅子
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大将の店で酔ったみいちゃんは、カウンターでずっとブラジャーの話をひとりごとのように言った。
「フランスだったかなあ。あれは。女性解放運動が盛り上がっていた頃の話よ。デモとか集会があって、女性を締め付けているブラジャーをみんなが燃やしたの。大きな火のなかにブラジャーをみんなが投げて、燃やしたの。女性解放運動。燃やされた何千のブラジャー。その象徴として、なぜかブラジャー。ガードルでもなく、パンツでもなく、ブラジャーをみんなが燃やしたの」
「それは新品の?」
「そこが問題なの。新品はもったいないし、多分、使われたことのあるブラジャーなんでしょうね」
「とても不思議な話やね。ブラジャーって燃えるん?」
「燃えるわよ、そりゃ」
大将の店はお寿司屋さんだ。もちろんお寿司も食べることができるけれど、メニューは居酒屋のそれと混在していて、煙草も吸える。値段もリーズナブルだ。
「ここの大将とも、あっちゃんの定食屋の喫煙室で会って、会話したのが始まり。中学の先輩だってわかって、それで仲良くなったんよ」
「へえ、大将も世界の片隅の喫煙室にいるのね」
大将は聞こえていないふりをしている。でもどうしてこんなに可愛い子を連れてきたのか、それが不思議なんだろう。気を遣ってプライベート空間には口を挟まないが、たぶんみいちゃんが帰ると、問い詰められるんだろう。こんこんと。
「みいちゃん、出身どこ?」
「あら、加古川よ。この辺り」
「標準語で喋るやん」
「高校出て、すぐに東京に行ったから。まだ標準語のままなの。でも酔ったら、関西弁も話すの。けい君は?」
「同じだよ。若い時は東京で標準語で、こっちに帰ってきて、中学時代の仲間に会って、関西弁が混じった」
「青春も燃えるのよ。知ってた?」
「もちろん。この店は僕の中学時代の先輩や後輩がやってくるんよ。不思議な場所だよ。みんな時が経つのに、歳を取らないっていうか。そのままなんだよ。青春は燃える。確かに」
「私も歳を取らない人やねん」
「あ、関西弁」
「そうやねん」
彼女がなぜ28歳以上にはなりたくない、なんて言ったのか、今ではわかる。どうやって時を止めたのかも今では知っている。みいちゃんは、いつも未来と過去を同時に生きていたんだろう。そんな気がする。
お互い学生時代の話をして、みいちゃんは半分くらい眠りながら、自分の部屋までの道を歩いた。僕たちは腕を組んでいた。
僕はあっちゃんが言った、世界には燃えるものがもうひとつある、という言葉を思い出していた。
「けい君、聞いて」
「何?」
「あんな、深い海の底に椅子があってな、それは私のために待っている白い綺麗な椅子でな、そこに座るために生きてるような気がすんねん。そこに少しでも座れたら浮上すんねん。浮上の火をもらうねん」
「誰から?」
「わからん、神様とか愛とかそういうの」
「愛? みいちゃんって男の人好きになったことないの?」
「ないねん。ごめーん。パンダを燃やしてばかり」
お互い手を振って、みいちゃんの家の前で別れた。みいちゃんは酔っていて、僕も酔っていた。
考えられないものが燃えていく。普通ではありえないものが燃えていく。僕の心の中だけでしか燃えないもの。
どうして僕はその手を離してしまったんだろう。
みいちゃんが消えてしまうその前に。
あんな、深い海の底に椅子があってな、それは私のために待っている白い椅子でな。。。
そうやってこの街の小さな事件は始まった。
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