第12話 あした、群青色

 蒸し暑い教室。汗が顔の横をつたい、首筋から腹に流れ落ちていく。ぼんやりしている僕、でもセミの鳴き声が耳に痛いくらいはっきりと届いている。そんなセミに負けないぐらい大きな声で、ジャクソンが黒板の前で話している。

「と!いうわけで!今日から夏休みが始まる!みんな大いに、楽しい夏を過ごしながら~も夏休みの宿題は決して忘れずやるように!」

 夏休みという単語が出て、教室中にホッと開放的な空気が流れる。今日は午前中に終了式やら夏休みの過ごし方の説明やらがあり、そのまま半ドンで終わる。つまり午後からはいよいよ夏休みが始まるのだ。みんなはそれぞれにこれから始まる休みの予定なんかを話し始めた。

「静かにッ」

 響き渡る一言がクラスに静寂を取り戻させた。セミも一瞬泣き止んだんじゃないかと錯覚するぐらい、ジャクソンはどうしてこうも暑苦しい中、変わらずうるさくいられるのだ。すこしばかり尊敬してしまうくらいだよ、まったく。呆れながら、教壇の左の席に視線を奪われる。そこは、空席だ。

「お前たち、元気なのは結構だが夏休み十分気を付けるように・・・。今週の金曜日朝から、木田の初七日があるそうだ。そこでまた会うことになると思うが、誰も怪我一つするんじゃないぞ」

 ユキの死、その事実を自覚する度に自分の存在が不安定になったかのようにぐらつく感覚に襲われる。セミの鳴き声も、ジャクソンの声も遠くに感じるようだった。ユキは小学校生活最後の夏休みを迎えられなかったのだ。ぼんやりとした意識の中、授業の終わり、そして夏休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。


 半ドンとは言っても、しばらく教室が使われなくなるので掃除は行われる。今日の担当は、自分の班ではないな、そう確認しそそくさと教室を出ようとする僕の背中に「シュンペーまた一人で帰るべか」とシロが呼び止めた。あまり振り向かずに返事をする。

「いや、シロもマイも掃除当番だべ、一足お先にと思って」

 顔を見なくても分かる、シロは間違いなくじっと僕を見ているに違いない。そして同時にマイだって僕とシロの会話に注目しているはずだ。でも今は誰とも深く関わりたくない気持ちがしている。

「待っててくれないんか」

「・・・ゆっくり歩くべや、追い付いて来んべ」

「分かった。すぐに追い付くべよ」

 シロの言葉をあいまいに受け流し、僕は教室を出た。


 夏の日差しが目に痛いくらいだった。まだ12時過ぎなこともあって、町の人もあまりおらず静かな道を歩く。頭頂部に突き刺さる日差しがぼんやりした僕の思考をさらにぼやけたものにする。気付くと小川の土手の上を一人で歩いていた。ほんの数日前までこの道を四人で歩いていたのに。ユキが歩いていたのに。

「シュンペーくん」

 背後から名前を呼ばれて体が固まった。まさか、ウソだろ、ユキが今後ろにいるのか。暑さも日差しもすべての感覚が体から離れていった。静かな喜びを押さえながらゆっくりと振り返る。そこには―――

「シュンペーくん、シュンペーくん」

「・・・」

「シュンペーくん、一人で元気ないね、どうしたの」

「・・・何ふざけてんだべ、市橋」

 そこには隣のクラスの市橋恭也とその取り巻き数人が、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべて立っていた。市橋はサッカー部のキャプテンを務めるイケメンで、また勉強もそこそこできるため6年2組の中心人物として教師からの信頼も厚かったが、その実、気に食わない相手にこっそりと意地悪を働くようなずる賢いところがあった。そしてこの市橋はなぜか隣のクラスの僕に嫌にからんでくることが増えていた。

「ふざけてないよ、シュンペーくんが下を向いてトボトボ歩いてるから声をかけたんじゃないか」

「そうかそうか、じゃ元気出たからあっちさいけ」

 わざとらしく肩をすくめる市橋。少しはこっちの身になってくれ、こんな気分の悪い日にお前となんて話していたくない。そんな気持ちを露わにするかの如くプッと踵を返し再び歩き出す。しかしこちらの内心を知ってか知らずか今日の市橋は一段としつこかった。歩き出した僕の横に並んできて、さらに会話を続けようとする。

「ノンノン、そんな言葉信じられないよ。この前の葬式で君、ゲロ吐いたらしいじゃないか」

 頭と胃にキリリとした痛みが走った。式のあった公民館の入り口近くであんな醜態をさらしたのだ、誰かが見ていてもおかしくはない。よりもよってこいつに見られていたとは最悪だ。

「見てたべか」

「いや、僕は葬式に行ってないよ。噂で聞いてさ、ほんとに心配してたんだから」

 僕が苦虫を嚙んだような顔になったことがよほど嬉しかったのか、市橋はさらにぺらぺらと話し始めた。ユキの葬式ぐらい来いよと思いつつ口には出さなかった。こいつは隣のクラスだし仕方ないことかもしれないと自分を納得させた。

「心配あんがとな、だから」

「ゲロぐらい気にしないでいい、ただ周りにいた人はどう思ったか分からないね」

「かもな」

「例えば近くにいたらしい都築さんとかね」

「マイはそんなことで態度変えたりしねべよ」

「そうだといいね、ただ人の心は分かったもんじゃないからさ」

 急にマイの名前を出したかと思うと、市橋は得意げになって少し早足になった。何なんだこいつはまったく。早くどこか行ってくれないかと心底面倒くさくなっていた。もう適当に返事をしてやり過ごそう。

「そうだべな、分かんねーや」

「シュンペーくんは著しく周囲の評価を下げてしまったかもしれない、だけど僕は君のことを大切な友人と思っているからね。覚えておいて」

「それはそれは」

「すべての元凶は死んだ木田なんだよ」

「ああそう・・・は?」

「まったく迷惑な奴だよね、あの根暗地味子が死んだせいで君は葬式でゲロを吐くことになったんだから」

「おい」

「もともと存在感無い奴だったから、死んでも僕はまったく気にならないけどね」

 体中の血が頭に集まってくるのを感じた。怒りが沸騰し始めている。人は本気で人へ怒りをぶつけるとき意外なほど冷静な側面もあるのだと知った。斜め前を歩いているこの男の減らず口を今すぐに閉じさせるのだ、そう頭が命令した。

「黙れや屑野郎ッ!」

できるだけ力を込めて市橋の背中を突き飛ばした。背丈があまり変わらないため「おうっ!?」と驚いた声を上げて屑はよろめいた。転ばせるぐらいの勢いで押したはずなんだけれど、やっぱりサッカー部のキャプテンは手強かった。すぐに体制を立て直し僕の方を向き直す。その顔は笑っていなかった。

「君が先に手を出したよね、そうだよね?」

「ユキのこと悪く言からだべっ!」

「手を出したのは君なんだからね?」

 市橋がスッと左足を踏み込んだことを確認するとほぼ同時に、左太ももに強烈な痛みが走った。サッカー部で鍛えた市橋渾身の蹴りをお見舞いされたのだ。それはもうたまらなく痛かった。今度は僕が「うぐっ」と声を上げる番だった。しかしそれでも僕は引かなかった。ユキを侮辱したこの屑野郎にもう一撃食らわせなければ気が済まない。痛む足で必死に踏ん張り、市橋の体を掴むべく襲いかかった。

「サルが」

「ぐえっっ」

 今度は腹を前蹴りされてしまった。そのまま僕は後ろに吹っ飛んで背中から地面に倒れこむ。蹴られた腹の痛みと、地面に背中を強く打ち付けた衝撃で一瞬、息ができなかった。

「げほっ、げほっ」

 むせ返る僕に追撃するため市橋が助走をつけて駆け寄ってきた。次はどこを蹴られるのだろう、半ば諦めるように目を閉じる。ごめん、ユキ。

「シュンペぇー!!!」

 聞きなれた声が飛び込んできた。真っ直ぐに僕らに向かってかなりの勢いで走ってきている。そういえば、追い付くって言ってたっけか。

「源田のバカか、クソ」

 猛然と向こうから走ってくるシロの姿を見て市橋の動きが止まる。運動神経抜群の市橋だが、運動会の50メートル走、体力測定、はたまた人気者度合いを含めてシロは市橋の上だった。全クラス対抗ドッヂボール大会ではシロの馬鹿力で放たれたボールにぶつけられて市橋は泣かされており、完全にシロに対して苦手意識を持っていた。そんなシロは息も絶え絶えに駆けつけ間に割って入ると「大丈夫かシュンペー」と僕に声をかけ、ギロリと市橋たちを睨みつけた。

「俺が納得できる説明を5秒以内にすんべーやお前ら」

「いや、違うよ源田君。先に手を出してきたのはシュンペーくんなんだよ」

「そんな訳ねえべ。覚悟しろや」

「いやいやいや、本当だから、ねッ!シュンペーくんッ!」

 焦った市橋がこちらに助け舟を求めてきた。急にコロッと態度が変わるやつだなこいつは、と呆れつつも市橋の言うことは正しいのでシロに声をかける。

「僕が先に突き飛ばしたんだシロ」

 驚いた表情を僕に向けたシロに、真実であることを目で伝える。形はどうであれ、僕の方にだって非はある。そこにシロを巻き込むわけにはいかなかった。腑に落ちない様子であるが少しだけ怒気を抑えて、けれども変わらず市橋たちを厳しく睨みつけながらシロは僕に肩を貸して立たせる。

「やっと理解してくれたかい源田君。これは正当防衛、なんだよね」

「それで、まだやる気あるんか。何なら今から俺も含めて二回戦やるべよ」

 明らかに市橋たちはたじろいだ。正当防衛とか、そんな理屈が通じる相手ではないことが理解できたようだ。

「僕も暇じゃないからね、日本人の心は常に平和主義さ」

 捨て台詞なのか何なのかよく分からないことを言い残して市橋たちは去っていった。僕の体には市橋から受けた痛みと、情けない気持ちが残っていた。黙って説明を待っているシロに何て言ったらよいか考えていると、シロの来た方向からまた走ってくる足音がする。

「もう、シロちゃん…置いてかないでよ…」

 荒い息をしたマイも追い付いてきたようだ。汗で張り付いた前髪を直しながら、僕たちに明るい笑顔を向ける。

「あれ、シュンちゃん泥だらけじゃない、こけちゃったの?」

「あぁ、これはさっきシュンペーに」

「そうそう、こけたっぺや!」

 シロの言葉を遮るように言い切った僕を不思議そうに見るマイ。

「なっ、シロ」

 促すようにシロを見つめる。頼む、黙っていてくれとまた目で伝えると一瞬間を空けてから、すぐにテンションを変えて「それはもう豪快なこけっぷりだったべよ」と返してくれた。僕もその言葉に乗っかるように「砂が汗で張り付いたべ、最悪」とおどけてみせた。

「そうなんだー、私もみたかったな、シュンちゃんの豪快なこけっぷり」

 三人で明るく笑った。これで良かったんだ、市橋を突き飛ばした理由を話せばシロは市橋をただでは置かないだろうし、その結果シロがジャクソンにこってり怒られてしまうかもしれない。マイだってユキが悪く言われたと知れば悲しむに違いないだろう。みんなが笑っていられるならそれでいいのだ。そもそも僕が市橋にきっちりとケンカで勝てていたらこんな状況にもならなかったんだし。でもやっぱり運動神経の良い市橋に勝つなんて、魔法でもなければ無理だったんだよな。―――魔法でも、あれば・・・

 突拍子もない考えがこの時思いついたのは、夏の魔物が与えた贈り物だったのか、それとも君がくれた最後の優しさだったのか。今も僕はこの瞬間から始まった、どんな夏よりも忘れられない体験を信じられないでいる。

「もう一度、魔女屋敷に行くべ」



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