最果てのアリア
葉月菜の花
大正洋館と平安少女
「え、ここは…。私、どうして。」
黒髪の映える可憐な少女は一人、気がつくと大きな屋敷の前に立っていた。
か細い不安げな声が人一人いない林にこだまする。
「どこ、ここ。」
見たことのない、少しさびれた黒塗りの西洋館。自分の何倍もの高さのあるそれを少女は信じられないものを見るように見つめた。
周囲に覆い茂る木々の隙間、西の空には見事な夕陽が見え隠れしながらゆったりと、彼方に沈んでいく。
「こんな黒い服、私は着てはいなかったはず…。もっと、違う色で。私は、どうして、こんな…。というか、こんな…こんな、破廉恥!!!!へ、変態だわ!捕まるわ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶ。丁度膝丈ほどのスカートを手で押さえ込む。少女は学生服を着ていた。足の間をスースーする感覚にわなわなと震える。
「帰らなきゃ。怒られる。―――え?」
一歩踏み出そうとしてはたと気づく。
「私は、どこに、帰るの?え。私は…」
表情が一気に強張る。
何かを、思い出そうとした。どうしてここにいるのか。見たことのない洋館。自分の名前。でも思い出そうとした途端、脳裏が、痛み出す。まだ思い出してはいけない、と警鐘を鳴らすように。
「なにも、わからない…。そんな、どうして。…いいえ。大丈夫。なんとか、なるわ。」
一度、落ち着こう。少女は深呼吸をすると辺りを見回した。
周りは木々ばかり。木々の向こう側は、ぼんやりとしていてよく見えない。目を細めても、水彩のように色を燻らせるばかり。どうやら、目の前の西洋館以外に頼れそうな場所はないようだ。
とにかく、帰るために誰か人を見つけなければならない。
「すみません。誰か居られますか。」
分厚い扉に向かって呼びかけるも返事は無い。
「すーみーまーせーん!…うーん。誰もいない?多分、この分厚い板が入口なのだろうけど。」
遠慮がちに取っ手に手をかけ、引く。軋んだ音を立てながらも、少女を招き入れるように少しの力で開いた。
中を覗き見ると薄暗く、霧がかかったようにぼんやりとしている。隙間から這い出た冷気が少女の足首にまとわりついた。
不気味だ。少し確認して誰もいなかったらすぐに出よう。
少女は薄い唇を横一文字にひき結ぶと、小さくうなずいて恐る恐る中へと足を踏み入れた。
「あ、あの…。誰か、居られませんか。私、その、帰り道がわからなくて。」
しかし、二度目の呼びかけにも応えは無い。
冷気が一気に自分を包みこむ。霧はいっそう深くなりどこかへ連れ去られていくようだった。
(なにこれ。こわい。)
引き返そうとしたその瞬間、扉が大きな音を立て、荒々しく閉まる。
「扉が…勝手に。」
少女は目を見開く。
そして、霧ばかりで何も見えなかった屋敷の中がぐるぐると、目まぐるしい速さで変わっていく。屏風、畳、鏡、大ぶりの桜の花が壁を彩っていく。パズルのようにすさまじい速さで組上げられていくそれに、少女はぽかんと口を開けて立ち尽くした。
しかし、少女は知っていた。桜の花も、調度品も、美しい着物が踊るように舞う様も、一つ一つ、確実に少女の心を突いていく。
どこか、懐かしい。
やがて、霞は晴れて独特の桜と白檀の混ざる香りが鼻をついた。
「これは…。」
屋敷の中は、大正の西洋館であるにも関わらずまるで平安絵巻の一場面のように、鮮やかで麗しいものだった。壁だけではない。よくよく見ると、もとは変哲の無い玄関ホールだったであろう場所は、鏡台など数多の調度品や着物が西洋館の家具に入り混じり、美しくも異様な光景だった。
「これは、どういうこと…。」
その場で動けずにいると、二手に分かれた回廊の奥から一人の青年が現れた。
「人んち入るなら、まず呼び鈴を押してくれないか。いきなりで、困る。…あぁ、お前、そういうやつか。珍しいな。」
学生帽からのぞく、さらりとした黒髪の青年は丸みを帯びた猫目で少女をじっと見つめた。
書生のような格好をした青年の黒い羽織には、真っ赤な椿が描かれていた。
絵になる人だ、とため息をつく。
「あ、あの。私、帰りたいんですけど、何もわからなくて、ここは、どこなのか聞きたいんです。」
「…ここはサイハテ。屋敷の中は、お前のものですべて埋め尽くされてる。詳しい話は奥でしよう。来い。ひとまず、お前のその髪も何とかしなきゃなんねえ。」
「サイハテ…?髪…あ。」
言われて気づく。自分のまっすぐとした黒髪は地面につくように長い。しっかりと手入れがされていて、たとえ量があってもぴしりと川のようにうねりはしない。
「待ってください!サイハテって…ちょっと!!」
もうすでに青年は歩き始めていて、見失わないように少女は両手で黒髪を束ねて後を追った。
案内された客間のようなところも、大正と平安が混ざりあう不思議なところだった。
この分だと、屋敷すべてがこのようになっているのだろう。
窓から夕陽が差し込みステンドガラスがキラキラと艶めく。勧められ、少女はふかふかとしたアンティークのソファに腰を下ろした。
「ここは、どこなのか教えていただけますか。」
青年は形の良いあごに手をあて、少女しばらく見つめた後口を開いた。
「ここは『サイハテ』。あらゆるものごとの終着点。」
「サイハテ…。」
「そう。人の感情、悩み、記憶、そういうあらゆるものの間に彷徨い、何かを望む者が最後にたどり着く場所。それがここ、『サイハテ』。要するに、お前は何かを求めてここまできたことになる。」
「私が、何かを求めていた?」
青年の言葉が自分の中で反芻される。
私はいったい何に彷徨い何を望んだのだろう。考えてみても、やっぱり頭がもやにかかってしまう。
「俺は、ここサイハテの主、椿だ。お前は?」
「その、私…。自分の名前がわからないんです。名前だけじゃなくて、ここに来る前自分が何をしていたのか。どこから来たのか。何一つ」
自分を形成するものが何一つ、残っていない。
それはぐらぐらする崖に立っているようで、なんだかおぼつかない。
「ただ、この屋敷の中には、なんだか懐かしく感じて…。私はここに来たことがあるのでしょうか。」
「恐らくない、とは思う。この屋敷の中に即視感があるのは当然だ。屋敷の中は客ーーお前のようなやつが来ると、その人物に合わせて内装をその都度変える。連動するんだ。だから、今現状お前の記憶の中の、調度品とかがごろごろしてる。もとからある大正時代のテーブルやアンティークのソファでちぐはぐだ。それに上を見てみろ。」
少女が視線を上にやると、高い天井には御簾や、屏風、ところどころに金箔がほどこされ、あちこちから桜の木が生えている。本来天井にないものが緻密に組まれて美しくも異様な様だった。
「これは……。変だけど、すごく綺麗。」
「こんな風に、屋敷の外つくり事体は変わらないもんで、記憶の中身がいびつに押し込められている。玄関の方に現れた衣装の類もそうだ。その無駄に丁寧な所作、調度品、文化的にパッと見、多分お前平安時代のお姫様だったんだろ。呼び鈴を押さなかったのも、あの時代に呼び鈴なんてないだろうし。その黒髪も、な。」
少女はティーカップをのぞきこむ。透き通った色と深い異国の香りに目を見張る。
これは、飲み物なのだろうか。
「…。」
気づいた椿が、先に紅茶を一口飲んでみせる。それを見て少女も取っ手に手をかけて、ぐいっと飲む。
「あつっ!」
「ばーか。熱いに決まってんだろ。気をつけろ。」
「なっ。失礼ね。慣れないのだから仕方ないでしょう?」
ふっと笑う椿に、涙目になりながらにらみ付けた。
舌がひりひりする。自分の知らないものには慎重にならなければならない。
「名前も、自分が誰なのかわからない、か。わりかし、お前はわかりやすいな。大方、お前の求めているものはそれら―――仮にお前のひっくるめて『中身』としよう。何らかしかで失ってしまったそれを取り戻せばいい。」
「なるほど。私の中身、か。」
もし何も思い出せず、このまま宙ぶらりんになってしまったら。私は、どこにいってしまうのだろう。自分の中に何も無いくせに、なまじ意識がしっかり働くものだから、どうしても不安と恐怖で胸がざわつく。気がつくと、少女はうつむいていた。
椿は立ち上がると、意匠を凝らしたテーブルの引き出しを開けてゴソゴソと何かを、取り出すと少女の後ろに回った。
「ツバキ、さん?」
「椿でいい。敬語もいらない。ちょっと髪を貸しな。多分そのままはこれから動きづらくなる。切るか、結う。」
「切らないで。髪は、女の命なの。何度も、そう言われたの。え―――誰に?」
不意に自分から飛び出た言葉に驚く。
誰か、はわからなかった。ただ、繰り返しそういわれていたのは、わかる。私の髪は美しいと、誰かが言っていた気がする。
「…そうか。じゃあ、結うぞ。じっとしてな。」
椿が少女の黒髪に指を通した。重い黒髪が持ち上げられるのが伝わる。
なんだか、この感覚知っている気がする。
男の人に髪を触らせるなんて、今まで、あったのかな。
そう考えると、少し恥ずかしい。きっと今まで髪を結ったことはほとんど無かったような気がする。首筋に空気が漂っている感覚に身体が驚いた。
「椿。私は、しばらくここにいることになるのかな。」
「そうなるな。お前が自分の中身を取り戻すまでは。まあ、心配するな。もとの場所に戻れば、時は正しく進みだす。時間が簡単に進むことはない。ここは、切り取られた特殊な空間だから。」
椿は器用にまとめあげると、鏡を差し出した。
可愛らしく纏め上げられ、手近にあった赤い簪が黒髪によく映えている。でもそれよりも自分の姿を今しがた初めて見た。
憂いを帯びた瞳は確かに高貴な雰囲気を感じさせる。なんだか信じられなくて思わず、手で頬をなぞる。
「私、こんな顔なのね。なんだか、全然私じゃないみたい。」
まるで他人の顔を見ている気分なのは中身がないからだろうか。
「ありがとう、椿。とってもかわいい。」
「それはどうも。それじゃ、お前がここに間の呼び名を決めといたほうがいいな。」
少女もうなづいた。いつまでもお前と呼ばれるのも、気持ちが良いものではない。
「まぁ。最後には名前もわかるだろうし、適当でいいか。それじゃあ、その黒髪にちなんでクロカと呼ぼう。」
「ミは?」
「四文字は長いだろう。」
クロカは押し黙る。なんというか椿はセンスは良いが、少々独特なところがあるのだろう。
「…まぁ、いいや。じゃあ、私はクロカ。しばらく、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。じゃあ、行こう。」
羽織を翻すと、椿と同じ名前の真っ赤な花が、黒の衣の中をふわりと漂う。
クロカはぼんやりと眺めながら、ぐるぐると考える。
自分は一体誰なのだろう。どうしてこうなったのだろう。何かがあったのだろう。
私は、そのすべてを受け止めることができるのだろうか。
心の隅にある一抹の不安を振り払うかのように、首を振る。私はきっと中身を見つけなければならない。私が私を取り戻す。
小さく決心して、クロカは椿の後を追った。
不思議で色鮮やかな小さな世界の主、椿。中身を追いかける平安少女クロカ。二人の数奇な運命の幕が上がった。
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