第12話
まず、脳が起きた。
わたしはわたしだと認識をした。
そこからやけにひどい夢を見たのを思い出した。その内容は語るにはあまりに鮮明すぎて、むごたらしくて、わたしの思考の許容量を超えていて、まったく不愉快で不可解だった。
だから忘れることにした。
さて脳が起き、次いで視覚がはたらきはじめた。外部の光を受容するところに端をなし、全体のぼやけた輪郭を視界がなぞり、やがて視界にうつる物体の表面に質的な立体感があらわれるようになった。
しかしいまだ、わたしの意識は覚醒しきっていなかった。からだがセメントで固定されたみたいに動いてくれなかったのだ。
まばたきで目を閉じると新たなまどろみの波がわたしを飲み込もうとした。意識が水に溶かした小麦粉のようにとろけ、肉体が深い海にどぼどぼと沈もうとしていた。わたしのからだは動かなかったので、抵抗する余地もなく引きずり込まれる。見えない力によって頭の先が下方にぐうっと引っ張られているような感覚があった。
ああ、いけないよ。このまま寝てしまっちゃならないんだから。朝の光を浴びて一度起きたのなら、そこですっぱり起きなきゃいけないのに。
けど、あと……三十分、三十分だけだから……寝させて……
わたしの意識がふたたび落ちる寸前だった。
ぴしゃり、とカーテンの開く音がわたしの聴覚を刺激した。
さらに、ぴしゃり、ぴしゃりぴしゃりぴしゃり、とカーテンは何度も開け閉めされているようだった。目のくらむようなまばゆい光と、うすぼんやりした暗さがかわるがわる切り替わることでわたしは苛立たしい気分になった。
ぴしゃり、ぴしゃり、ぴしゃり、ああ、もう!
とうとうわたしは完全に目を覚ますこととなった。いったい誰がカーテンを開け閉めしているのです。妹? それともいけ好かないあの宇宙人さん? どちらでもいい、わたしの気分はすこぶる悪く、一言いわないと新しい一日をすっきり迎えることができない。
わたしは布団から起き上がり(そのとなりに妹がぐっすり眠っていた)、窓側に向かって両のまなこをかっと開き、クリーム色のプリーツカーテンを見た。
ぴしゃり、ぴしゃり、ぴしゃ。
カーテンをやたら開け閉めしていたそれは、わたしが見とめて三回目の開閉時にわたしに気づいたらしく、後ろを振り返った。
「おや、ようやくお目覚めですか」
それをひとと呼ぶにはあまりに短小で、生き物と呼ぶには言葉づかいがきちんとしていて、ひよこと呼ぶには色が木炭のように黒くて、けれどどう見てもひよこに変わりはなくて、とどのつまりわたしは驚きのあまり、声を失って一瞬のうちに眠気がふっとんだということだった。
「どうも。黒いひよこです」
自己紹介をするひよこさんは赤いネクタイをきゅっと締め、短いくちばしで羽の裏っかわをちょこちょこつついたのち、短い肢でこちらのほうにひょこひょこと近づいてきた。わたしのちょうど見下ろした位置でぴたりと止まり深々とおじぎをした。
後方のカーテンは開ききっていて、そこからあふれんばかりの光量を背中に受けるひよこさんは、まるで教会の扉を開けヒロインのもとに駆けつけた王子様のように見えた。
ええと、どうも。
流暢でなおかつ礼儀正しい挙措を徹底してくるひよこさんのしぐさは、動物のあらゆる行動とはちぐはぐであり、完全にペースに流されたわたしはひよこさんのおじぎにつられてぺこりと頭を下げていた。
というか、すみません。どちらさまですか。
「わたくしですか」
ひよこさんはスカーフのような羽で自分をさし示し、わずかに首をかしげた。
「先ほども申しましたが、もしかして聞き取りづらかったでしょうか。でしたら失礼。改めてもう一度名乗ることにいたしましょう。ええ、わたくし、黒いひよこでございます」
黒い、ひよこ!
「おやおや、まるで鳩が豆鉄砲を食らったようなお顔をしておられますね。本来あなたとは、はるか昔(昔と言ってもたかだか一年ほど前ですが)一度お会いしている仲であったはずなのですが」ひよこさんはちょっぴりかなしそうに言った。
わたし、黒いひよこなんて今まで見たことないんです。もしかしたらひと違いではないですか?
「いいえ、あなたでした。あなたのまことのお名前は存じませんが、たしかに我々は約一年前に大事な約束を交わした仲でございます」
だいじな、約束? それはいったいどういうものなの。
「こう申しておいてなんなのですが、肝心の内容はとんと思い出せないのです。しかしわたくしは、あなたともう一遍会うべき使命感がありました。ですからここにおるのです。あなたがわたしのことを覚えていないのであれば、それは致しかたないことなのでしょう。ですが、わたくしは心よりうれしく思うことが今たくさん湧き出てきます。あなたと出会えたこと、過去にふれあったこと、つむいだ言葉、あこがれと嫉妬、そしてみずみずしい心の寄り添い。わたくしにとってあなたの存在がどれほど支えになったか、あなたの想像では計り知れないことでしょう。わたくしはあなたとやりとりをするたび、耳の裏っかわが熱くなって心地よい気持ちになります」
ひよこさんは、そのように語った。言われている内容は恋人どうしのささやきくらい、くすぐったいものだけど、わたしの脳がまだ正常にはたらいていないのかひよこさんとの親しげな記憶が一切見つからなかった。
「ん、うーん」ふと、妹が寝返りを打った。そうして寝たまま、わたしの腰周りに抱きつき顔をうずめた。おそらく窓の外の光がまぶしいから、わたしを盾にしているのだろう。わたしは彼女の髪をさわってみた。入念に手入れしているだけあって、指通りのなめらかさや色つやはとてもよかった。
「そちらにおられるのは?」
妹に興味を持ったらしいひよこさんは子どもがホテルのフロントにある動物の剥製なんかを見つけたみたいに、彼女の寝顔に向かってひょこひょこと近づいていった。そうして短い羽をはばたかせては、いろいろな角度に回って観察した。最終的に不慣れなはばたきでわたしの左肩の上に飛び乗り、妹を見下ろしてこう言った。
「美しいかたですね。いったい、どなたなんです」
妹ですね。むっつ違います。
「さいですか」
あまり似ていないって言われます。
「このかたはまつげが長くて、たいへんよいですね。くちびるの厚さもちょうどよい。ああ、それから肌つやもさることながら、顔のかたちのバランスが抜群に優れていらっしゃる。そしてですね、なんと言っても、この薄い墨を引いたような濃いまゆげ。わたくしはこれが気に入りました。これが似合うかたは総じて麗人が多い。と、こう言われておりますからね。いやはや、早晨からめでたきものを見せてもらいました」
ひよこさんは、このように妹を誉めそやした。それは本人でないわたしも聞いていて、嬉しくなるほどだった。わたしはひよこさんに、妹を起こしましょうかと提案をした。起きた彼女に直接伝えてあげたほうがきっと喜ぶと思ったのだ。
「いえ、それはなりません」しかし、わたしの妙案はすっぱりと棄却されてしまった。「わたくしは、あくまであなたにお会いするためにここにおりますからね。それを忘れちゃなりません。むしろあなた以外に見られては、わたくしとしてはたいそう決まりがわるい。かような理由がございますから、ここはひとつわたくしたちだけの密事ということにしてもらえませんか」
ひよこさんはちいさなくちばしをぱちぱちと開いてそう言った。
さすがにここまで言われては、わたしも引き下がるほかなかった。けれどそうなると、妹ではないわたしである必要性についてはなはだ疑問なところであるけれど、さきに言っていたようにわたしと過去、なにかあった(らしい)という根拠に帰着するのだろう。
「じっさい、このようななりをしていますからね。起きたらとつぜんわたくしのようなものが、べらべらとさえずっておったら喫驚すること受け合いでしょうね」と言って、ひよこさんは、ぴよぴよ笑った。
「長話に花を咲かせることは愉快でよいですが、そちらの眠り姫が真実を知る前にわたくしはおいとまにすることにいたしましょうかね」
ひよこさんは窓の金具を解錠し外に出ようとした。わたしは立ち上がって窓をがらがらと開けた。窓を開くと、ひんやりした朝風が突風のように部屋に舞い込んできた。とても冷たく、背中を丸めてしまいたくなる寒さだった。たんぽぽの綿毛みたいにふんわりとしたひよこさんのからだも寒さでまあるくなっていた。
けれども、わたしを見上げ軽く一礼すると、窓のへりの先のベランダに一度飛び出してそれからもう一度飛び上がり、ベランダの縦格子の手すりの上にとんと着地した。
ひよこさんはこれからどうするんですか、とわたしは急いで呼びかけた。ひよこさんは首だけくるりと動かすと、わたしに向かってこのようなことを言った。
「わたくしは、たまごを産みつづける『にわとり』になろうと思います。——多くのひとにおいしく食べてもらえるような、新鮮で濃厚なたまごを、産み出していきたいと思います。——そうするためにはわたくし自身が個体として成熟する必要がありますし、たまごは渾身の力をもって産み出さなければなりません。——わたしはこれから、それを目 指していこうと、うっすら考えております」
すてきなにわとりになったらまたここに来てもらえますか。ぜひそのおいしいたまごを使って、わたしに料理をさせてくださいな。
「もちろんですとも。……さて、時間です。さようなら」
わたしがさようなら、ありがとうと言おうとしたときだった。わたしの腰に巻きついていた妹が呻いていた。うわごとのようで聞き取りづらいが、どうやら寒いから窓を閉めてと言っているようだった。たしかにこの時期に、パジャマという薄着だと朝の風はたいそう身にしみるだろう。
わたしがなんとなく妹に気を取られ、すぐにはっとしてベランダの手すりを見たけれど、もはやそこにはなにもなかった。
なにひとつのこらなかった。
立つ鳥あとを濁さずか。去りぎわは花火のごとく一瞬のうちに。
「お姉ちゃん、なんで窓開けてんの、寒いんやけど」
いよいよ本格的に目覚めてきた妹はぶうぶう文句を言いだすようになった。わたしはごめんと言いつつ、ベランダの手すりにちょっとだけ目をやって、なにもないことを確認するとぴしゃりと窓を閉め施錠した。
「ねえ、それよりさ」
唐突に妹は、木登りの人形みたいに、わたしの左腕にぎゅっとからんできた。すこし反応してしまった。
「実は今日デートするんだよね。いいでしょ」
デート? だれと?
「宇宙人さん」
そう。
「なんでげんなりした顔するんよ」
え、ああ、なんでかな。
「もしかして苦手だった? 昨日の様子」
べつにそんなことはないけれど。自分でもなにが気に入らないのか、ほんとうのところはわからなかった。
それよりもさ、あんた、寝ぼけているときになにか気づいた?
「? とくになにも」妹は不思議そうに首をかしげた。彼女の髪が顔をさらりと隠した。
そう、よかった。
「なんでちょっと嬉しそうなの。いいことあったん」
べつにそんなこと、ないけれど。
ほら、そろそろ起きよう。
デートしにいくんでしょ、お姉ちゃん手伝うから、さっさと着替えなさいな。あんた、デートとかじっさい何年ぶりなのよ。相手の前でどうふるまったらいいか、もうわからないんじゃないの。
「うん、わかんないね」妹はそう言ってにやけた。
内心はあまりいい気はしなかったけれども、妹は妹なりに自分の理想にすこしでも近づくために努力をするのだろう。わたしのこのような憶測や気を揉むことは彼女にとって無意味かもしれないが、なんだかんだそわそわしてしまうのだから仕方がないのさ。
ああ、仕方がない。
さて、わたしも気持ちを上向きにしていくところから自分を盛り上げていこう。
今日は昨日のスージーさんとの約束で、彼女のお姉さんに会いに行くことになっている。絵描きのお姉さんで、わたしを絵のモデルにするのだとか。わたしにとっては、絵の被写体などむろんはじめての経験だった。場合によってひとつのポーズを一時間とかあるいは数時間ぶっ通しで継続することもあるだろう。わたしは持久力にすこぶる自信がなかったが、そこはなんとか踏ん張りたいと思う。
今日は、むしょうに張り切りたい気分だった。
もしかすると黒いひよこさんのおかげかもしれない。
わたしは一日のスケジュールをおおまかに整理しながら、ひよこさんの飛び立ったベランダの手すりを最後にもう一度見やった。そうしてさきほどの一連のやりとりなんかを、大事に取り出す記憶のようにひとつずつ思い出しながら動きはじめた。
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