第4話


栗毛の猫さんにふたたび会いまみえたのは、わたしがホットドッグを食べ終わりつつみ紙を鳥の巣のようなごみかごに捨てようとしたときだった。外側まで溢れ出したごみかごはまるで映画館で売られているポップコーンのようで、わたしが投げ入れるとつつみ紙はごみの山にはじかれて、地面にぽとりと落ちた。そこを見計らったかのように駆けつけたのが、あの栗毛の猫さんだった。

 猫さんはつつみ紙を前足で器用に開いて、べったりついたソースをぺちゃぺちゃと舐めるのだった。ああ、ああ、落ちたものなんて汚らしいのだからやめたほうがいいのに。わたしはつつみ紙をひょいと取り上げて、前足をぺろぺろと舐める猫さんを見下ろした。すると猫さんはもっとほしいよと嘆くみたいにわたしの足にすり寄ってきた。

「めめぱ、なあ、くっぱ」

 はあ、この子はふつうににゃあと鳴くことはできないのかしら。やれやれ。かがんで、猫さんの頭を撫でると、目をつむってのどをごろごろと鳴らした。それからこんなことが起こった。

 わたしの奇妙なペンダントが、かがんだ拍子に宇宙にたゆたう振り子みたいに揺れた。すると、猫さんは回転木馬みたいにくるくる動くペンダントに反応したのか、俊敏な挙動でそれをつかまえた。両前足でしっかりとペンダントをホールドしてしまうと、するどい犬歯でゴム紐を噛み千切った。

「あ、ちょっと!」わたしが叫んだときにはもう遅かった。猫さんはペンダントをくわえて、とてとてと地下鉄に通じる階段を降りていった。気が動転してしまったわけではない。けれど、わたしはあのペンダントを大事に持っておかなければいけないというような使命感を感じたのだ。気づいたときには、猫さんを追いかけていた。


 光と闇が入れ替わるようにして、あたりは黒くくすみはじめた。まるで意識が消え失せる寸前の、ぼやけた闇がそこにあった。視界が黒くぬりつぶされてしまうと、たとえば聴覚に気持ちを集中するのだけど、いつまで経ってもなにがしの音もわたしの耳に馴染まなかった。歯ぎしりの音のようでもあったし、屋根に打ちつける雨だれの音のようでもあったし、さきほどの猫さんの意味不明な言語の音のようでもあった。

 とにかく、今起こっている状況はわたしに関する秩序をことごとく蹂躙し、しまいにはわたしの深いところの、ふれられたくないところにまで上がり込もうとしていた。

 いやと思った。いやだ、と強く思った。こんなところにいるのは、すごくいやだった。本能が赤く充血し、聞き分けのないだだっ子みたいに喚きちらしていた。

 

 たぶん、それでわたしは一心不乱に駆け出したのだろう。なにものも受けつけないように両手で耳をふさぎ、ぎゅっと目をつむって。なるべくうるさくない場所に。駆けた。

 わたしがたどりついたのは、木々におおわれた小径だった。シラカシやケヤキが蛇行する砂利道のわきに並んでいた。木々のすき間を縫って日光が漏れ出して影ができ、そこに立ってみると乾いた清涼感があった。ふだんより髪の短くなったわたしは、後頭部と首筋がとくに冷えた。

 小径をみちなりに進んでいくと、ところどころで丸太や木の枝を組み合わせて作ったと思われる人形が見られた。大きさはまちまちだったけれど、どれもみな仁王立ちだった。そしてまた目のところはボタンほどの穴がぽっかりと開いており、そこにはなにもなくて、しかし見えないなにかに監視されているようでやけに不気味に感じた。それはたとえば音楽室の壁にあるベートーベンなどの肖像画が自分のことを見ているように錯覚してしまう感じに近かった。木製の人形をやり過ごすごとに、後ろを振りかえるとそれがわたしを追いかけてくるんじゃないかという恐怖がわたしのそもそも小胆な心をさらにびくびくさせた。

 とにかくまわりのものを見ないようにと、うつむいて歩くことにした。そうすると目線の先の砂利道に、わずかながら足の形跡を確認することができた。その足あとは左右にぶれることなく道の向こうにつづいており、まるでほかのものには目も呉れぬといった様子があった。

 そうだ、なにも気にしなければまっすぐ進むことができるのだ。あるいは遠くを見つづけることだ。

 わたしは好奇心から足あとに沿って歩くことにした。たちまち恐怖は消え去り、きのこの家についたときわたしはちゃんとゴールしたのか気づかなかった。少なくとも、めじるしにしていた足あとが玄関の扉の前でなくなるまで、きのこの家の存在は意識の外側にあった。

 それだから足跡が消えて「おや?」と思い、前を向いたときにきのこの家があったために、わたしはびっくりして尻もちをついた。地表面は砂利道から芝生に変わっていて、きのこの家の周辺は色鮮やかな草花がところ狭しと繁盛していて白い柵がかこんでいた。つまりそこはガーデンになっていて、じっくり見ると草花の種類ごとに整頓されていた。

 きのこの家は外装がきのこのようだというだけで、実質的に巨大なきのこそのものが住まいになっているというものではなかった。ただ屋根の部分は赤地に白のみずたま模様がぽつぽつと点在していてかわいかったし、石造りの灰色の壁面には無数のつたが這い屋根まで勢力がおよんでいたりして、おとぎの国にありそうなデザインだったのでわたしは気に入った。ついでに壁には窓が二箇所あって、きのこの家はどうやら二階建てのようだった。

 ところでわたしの追った足あとが消えたのは玄関扉の前だったが、よく見ると扉の下にはもうひとつちいさい扉があった。それはポストの開け口にようになっていて、正面から押して入れるような仕組みになっていた。足あとの主はどうやらここから家のなかに侵入したらしい。

 外装がおしゃれでかわいいと当然ながら内側の様子が気になった。気になることは多くあった。ひとつには、ここの家主の存在、それから先ほどから気になってしかたのない足あとの主、もうひとつはここがどこかということ、考えているうちにまだまだ思いついきそうだけど、当面のところ誰が住んでいるのかということにたいしてわたしの興味は向かっていた。

 けれども、はたしてお邪魔してもよいのだろうか。いきなり見知らぬ人間が上がり込んだら、誰だって困惑するだろう。玄関には呼び鈴が見当たらなかったのだ。めったにお客が来るところではないのだろう。そもそもなにゆえこんな辺鄙なところに家なんか(しかもきのこというきてれつな外観なのだ)があるのか。ここで住まおうと思った家主はよほどの変わりものに違いなかろう。そんなひととうまいぐあいに交われるはずない。ああ、だけど家のなかはぜひとも見てみたい。

 ひどくもどかしい気持ちで玄関前をうろうろしていると、一階の格子状の窓のすみのところに、白毛の猫が座っていることに気がついた。翡翠色のひとみがわたしのほうをじっと見ていた。それから細いしっぽを蛇のおもちゃのようにふりふりしていた。

 そちらにぬっと近づくと白猫はさっと姿を消してしまった。さて窓に来てしまった以上、内装をのぞくことは造作もなかった。わたしは気持ちのおもむくままに窓から半分のところまで顔を出して、目だけで内部を観察した。これじゃでばがめと言われても反論できないけども今さらだった。

わたしの見たかった内部の様子は、わたしの期待を裏切らなかった。部屋の広さはおおよそ12帖くらいでキッチンとリビングにわかれていた。リビングにはドーナツ状のテーブルがあって、その空洞には猫タワーが置いてあった。先ほど見た白猫ちゃんの用かもしれない。

それら以外に目立つものと言えば左の壁に貼られているかなり大きい世界地図だ。そのほかには観葉植物を植えたプランターなどが見られた。ちょっと変わっているけれど、そうじてわるい印象は持たなかったし、やはり外装と同様にわたしはこの家が気に入った。

そうなるともう、玄関を開けることにちゅうちょはほとんどなくなっていた。ほんのあとひと押しでノックできるのだ。わたしはふかめの深呼吸を二回したあとで、意を決して玄関をノックしようとした。

その瞬間だった。

後方から、車のはげしいエンジン音が聞こえてきて、砂利道を突っ切ってこちらに迫って来た。でこぼとをものとのしない暴力的な馬力。すぐにその車は見えた。白いアウディだった。砂利道を曲がった白いアウディはきのこの家、もうすこし言うとわたしのほうに猛スピードで突っ込んできた。

わたしの足は釘に固定されたみたいに動かなかった。

しぬ、と思った刹那、急ブレーキの強くこすり合わせるような音が森中に響き渡った。白い車体は前輪を軸に後部が滑るようにして弧を描き、わたしの数メートル手前で停止した。もしわたしがちょっとでも逃げていたらおそらく衝突したかもしれない。芝生にはブレーキ摩擦のあとがくっきりこびりついて、そこは黒くなり、けむりを上げていた。わたしはただただ呆然とし心臓がばくばく跳ねるのを感じるばかりだった。

わたしが突っ立っていると、白いアウディのフロントドアの窓が下りて内部から女性の声が耳に入ってきた。

「ねえ、あなた、どこから来たの?」

その声はオカリナのように清涼感をもって響いたけれど、完全にわたしを警戒していた。まるでさそりが砂漠の放浪者を見つけたような、その存在を根本からうたがっているような、返答いかんによっては処遇が大きく変わるような、そのような語気だった。

「えと、どこからと言われると、はっきり覚えていないのですが、」わたしはなるだけ正直に答えようとつとめた。「地下鉄を降りていたんです。すると息が止まりそうなまっくらな空間につつまれて、そこを抜けるとこのようなひらけた場所にたどりつきました」

「ううん。あなたのおっしゃることはにわかに信じられないのだけど、思っているほど危険ではないみたい、いや、どうなの」

 そう言うと彼女は車から降りてきた。

 芝生に立った彼女は背が高く、すばらしいスタイルを誇っていた。きれいに磨かれた黒いヒールもあって、雑誌の表紙を飾るようなモデルさんに見えた。また彼女はサングラスをかけていた。まるで映像系のアトラクションで貸し出されるような、だいぶ大きめのサングラスだった。髪はウェーブがかかっていて、おでこに近いところだけ編み込まれていた。

 わたしの彼女にたいいする第一印象は、このひととは住む世界がまるきりべつものなのだという内容だった。そしてじっさいにそのことは、彼女のことを知っていくと明らかになっていった。

 先に話しておくと、彼女は一種の能力者であり、能力者は世界でかなり稀有な存在、いわば世界の宝なのだった。それだから彼女の身柄は確保されなければならないし、ひと目のないところが安全だという理由から居住もこのようないっぷう変わったところにあるというわけだった。

 彼女が最初にわたしにいぶかしげな反応を見せたのは、わたしが諜報機関の一員だとか、組織の斥候などではないかと正体を探るためだったらしい。けれどやがて、そのうたがいはきれいさっぱり晴れたので、わたしは安堵した。

 ところでそのうたがいを払拭してくれたのは、わたしと彼女によってではない。わたしの正体を彼女にちゃんと説明してくれたのは、『猫さん』だった。

 猫さんと言えば、その数時間前にわたしがひょんなことから美容院で出会ったあの栗毛の猫さんのことだ。いったいどうして、その猫さんがわたしたちのあいだの取り持ち役になってくれたのか、そのあたりのことから振り返ってみよう。そうしよう。

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