第2話
「月河さん、起きて」
肩を揺すられて、目をさました。あっ、とちいさく声を出してしまった。どうやら眠っていたらしい。口のなかがひどく乾いていた。
「セミナー、終わりましたよ。来週は講師の先生の都合によりお休みだそうです」
授業が終わった教室は比較的にぎやかだった。中途半端に立っているひと、こじんまりとした集団で話し合っているひと、携帯をチェックするひと、教室から退出していくひと、自由があふれていた。前のホワイトボードには今日の盛りだくさんな授業の内容がびっちりと書かれており、その隅に次回の日程があった。
「月河さん、めずらしく寝てましたね。——はい、これ次の資料です。次回までによく目を通しておくように、とのことです」
ありがとうございます。おじぎをして受け取ろうとした。けれどつかむことができなかった。距離感がわからなくて、手が空をかすった。あれ、おかしいな、と思いつつもう一度手を伸ばすと、今度はうまくいった。相手はあまり変に思わなかったらしい。それはわたしを安心させたけど、はて、このからだじゅうにまとまりつく奇妙な感覚はなんだろうか。その正体はわからない。
それとも、まだ起きぬけで寝ぼけているのか、わたし。
(あまりここに居たくないな)
ふとそう思ったので、机にひろがったテキストやノートを手早くまとめて、布のバッグにおさめた。
「もしかして、お急ぎですか」
「いえ、そういうつもりは」そういうつもりは、「ないん、ですけど」
わたしが寝ていたことがよほどちぐはぐな感触を与えてしまったのか、ふだんよりも干渉されてしまった。これからごはんでもどうですか? 今日、ちょっとメイク変えました? 今日の授業退屈でしたよね。わたしは始終、はあ、とか、ええ、とか愛想を浮かべつつ、大事なものを胸にぎゅっとかかえて逃げるように教室をそそくさと退出した。
出入り口の扉を閉めて、お手洗いに駆け込んだ。狭い個室の壁にもたれかかって、そのまま腰が抜けたみたいにずるずるとしゃがんだ。耳鳴りのような喧騒がようやくしずまって長大息をはいた。
いったい今日のわたしはなにやらおかしい、口のなかはいまだ乾いたままだった。バッグから水筒を取り出して、お茶をひとくちふくんで違和感に気づいた。
今日身につけてきたのは、雫のようなアクアマリンのペンダントだったはずだ。しかし今あるそれは、心地のよいブルーではなくて、洞穴から見上げた豊かな森林のようなグリーンをしていた。また、モチーフは雫ではなくて、『@』を描いたような。
「?」
こんなもの、身に覚えがなかった。わたしはこういった趣味のものは集めないのだけどなあ、そう思っていると、扉の外側から声が聞こえてきた。ふたりか、さんにん、主婦たちの腹の探りあいのような会話だった。ということはずっと中にいても気が滅入るだけだろう。
ペンダントのことはとりあえず忘れて、しかたなしに、お手洗いを出ることにした。
これ以上誰かとかかわるのはいやだった。心が休まらないのは苦しい。けれどじっとしているのも、またつらい。
わたしは午後の時間の許すかぎり、ぶらぶらと街なかを歩いてみようと思った。いつもならばセミナー終了後は、だいたい仲のいいひととお茶をしたりするけれど、今さら教室に戻るのは気が引けた。誰かといると、たしかに時間を忘れることはできるけれど、それは自分のことを考える時間を奪われていることと同じだった。もしかすると今日は自分と向き合うタイミングだったのかもしれないな、わたしはそのように言い聞かせてさっそく街に繰り出した。
ドライアイスに風を吹き当てたような肌寒い空気が街に流れていた。秋から冬にかけてやってくる、時つ風、すこしずつコートに身をつつむひとも見られるようになってきた。本格的な寒さはまだ先のようで、ちょっと辻が変わるとそこは意外にも温暖な空気だったりした。
空は一点の曇りもない青空で、高くのぼった太陽からの光がビルの窓に反射してまばゆかった。ビルのすきまから青空を見上げると鳥が二羽横切っていった。二羽はたちまち上空に溶け込んでゆき、ビルの裏側に隠れて消えた。
地上はおだやかだった。歩いていて、ひととすれ違っても気を止めなくてよいのだ。なんなら、そのあたりのコーヒーショップにてカフェ・ラテなんかを買って行き交う車に目をよこしたり、立ち並ぶ雑貨店の内側を窓の外から覗いたりしてもぜんぜん、構わない世界だった。
いけないのは、なんやかやとかかわってしまうことうや巻き込まれてしまうことだ。なにしろわたしは臆病なのだ。本音なんて絶対にはかない。わたしはなにより、感情の皮をぺりぺりとむかれてしまうことがいっとう嫌いなのだ。
そうやっていろいろなことから逃れ、事なかれ主義(オストリッチ・ポリシー)を指針として生きてきたのだ。つぼのなかに甘い蜜があったとしても、ほんとうに安全であることを確認しないのでは吸ったりできない。穴にえいやと飛び込むならば、その向こうに誰かわたしを受け止めてくれるひとがいてほしい。このような後ろ向きなわがままが今の今まで許されてきたのは、他人に甘やかされてきたことにおおもとの原因がある。
とか、言い訳して。ほんとうは自分がかわいくて傷つきたくないから、必死で守ろうとしているだけなんだよね。いつか憂き目にあうぞ、なんて通告しながら。
街の大きい駅が遠くに見えた。わたしは、その駅からまっすぐに伸びる大通りの歩行者通路を歩いた。ちょうど電車が到着したころなのか、駅舎の出口から黒っぽい大群が放出され、三々五々めいめいに散らばっていった。そのうちの三分の一くらいがこの大通りを進んできた。
ぐんぐんと彼らとの距離が縮まる。やがてその流れがわあと押し寄せてきて、わたしは首をすくめて飲み込まれないように、なおかつぶつからないように懸命によけて歩いた。ちいさくなれ、ちいさくなれ、と念じながらどうにか群れを切り抜けることができたと思った瞬間、最後の最後でなにかにどすんとぶつかってしまった。
「あいた」
「痛いのはこっちだよ。とろとろ歩いていると、わざわざこっちがよけなきゃなんねえのよ」
そう言うのは、真っ黒いスーツを着こなす蟻だった。商社マンらしく、脇にビジネスバッグをかかえていた。剪定バサミみたいなあご、それから二本の触覚が特徴的だった。
とにかく蟻さんはぷりぷりしていたので、すみませんすみません、とわたしはぺこぺこ平謝りだ。
「こちとら上司どうしがけんかしちまって、部下の俺まで巻き込みやがるんだからな、まったく散々だよ。別、あんたに説教する義理はないんだけどな、俺は腹の居所がわるいんだ」
「はあ、すみません。すみません」
そんなふうに平身低頭して謝っていると、すらりと伸びた体躯の蟻さんがこちらにぐいと顔を寄せた。ふいの動作だったので、わたしはひっ、とちいさい悲鳴をあげてたじろいでしまった。しかし蟻さんはなおもずいずいと寄ってきた。
まだなにか言われるのだろうか、とおっかなびっくり構えていると、蟻さんはにやにやしながらこう言った。
「へえ、あんた、いいモンつけてるね。そのペンダント、センスあるよ」と蟻さんは、うずまきみたいなグリーンのペンダントを指さして言った。「俺、宝石を扱っている会社で働いてんだよね。職業柄、他人の持ってるアクセサリーには目ざとくなっちまうんだ。だいたいの場合、辛口評価つけちゃうんだけどさ、あんたのそれ、すごくいいね。俺が見てきたなかでもうんといいやつだ」
「えっと、ありがとうございます」
怒ったり、褒めたり、忙しい蟻さんだなあ。一集団の働き蟻のうち七割は仕事もしないで、休日のお父さんのようにだらだら過ごしているんだっけ。
「うちんとこのCEOは女王みたいなものでな、けっこうな年のおばちゃんなのに、いまだにおぼこちゃんなのさ。そのくせして社員は雄しか取らねえってんだ。雄はべらしているのに、肝心の相手がいないわけよ」
蟻さんはくつくつと笑った。ペンダントのことからすっかり機嫌をよくしたらしく、会社の功績や自慢話をえんえんと聞かされてしまった。
「そういや昨日、抽選券をもらったんだけどな、俺今、ちょうど二枚持ってるんだよな」
「抽選券?」
「そう。半年に一回、社内でくじ引きみたいなイベントが開かれるんだ、羽振りだけはいい女王さま主催のな」
「当たるとなにがもらえるの?」
「さあな、毎回景品は異なるんだ。前回はシロップ一年分で、前々回はチリのチュキカマタ鉱脈採掘許可証だったかな」
さすがは宝石を扱っているだけのことはある。現地で天然ものを取ってこいということかしら。なかなか面白いことを考える女王さまだと思った。
「まあ、とにかく一枚取っといてくれや。たぶん、当たらんだろうがな」
わたしは蟻さんから抽選券を受け取った。
はがきくらいの大きさのピンク色の紙で、見てみると『抽選番号A1EEDA・1837』とあった。わたしはちょっとだけ期待してみようかな、と言ってバッグにしまった。
それからも蟻さんの話をくどくどと聞かされたあと、なんとお茶に誘われてしまったのだが、蟻さんのめまぐるしい気勢についていけそうになかったので、やんわりと断った。
すると立ちどころにぷっくりふくらんだ蟻さんの腹部はみるみるしぼんで、干し柿のようにだらしなく垂れてしまった。そうかあ、それは残念とため息をついて、とうとうわたしたちは別れることになった。その去りぎわ、蟻さんはわたしにこう言った。
「あんた、彼氏いるのかい」
わたしは首を横にふった。蟻さんはふうん、と微妙な反応をした。そのあと、またなにか言うのかと思ったけれど、次の言葉はいつまで待っても来なくって、新たにやってきた砂塵のような一群がわたしたちを飲み込もうとした。すんでのところでそばの信号が青に変わったので、わたしはそこを足早にわたった。蟻さんはむざんに一群に飲み込まれてしまった。それきり蟻さんの姿はすっかり見えなくなってしまった。
ちょっとかわいそうだなと思ったけれど特別な感情はなにも湧いてこなかった。
でもペンダントのことを褒められたのはうれしかったので、自然とわたしはにんまりしていた。最初は気色わるいと思っていたが、いざ良い品と言われると、おかしなことにほんとにいいものに見えてくる。そうするとなんだか気が晴れた。
浮ついてしまったわけじゃないけれど、いっそ思い切って気分を変えてみたいなと思った。そのとき風が吹いてきて、黒髪が横になびいて、目に映った。長くなってしまった髪、最後にさっぱり切ったのはいつだったか。20歳くらいのときか。青春映画のヒロインが決意を示すためにばっさり切るみたいに、わたしは切ったのだった。あのときはたしか、彼氏にふられたあとじゃなかったか。今にして思うと古典的な発想だなあと笑えてしまうのだが、当時は本気だった。
やだやだ、あんな思い出消えてしまえばいいのに。
大人になりながら伸びた髪は、強がりの証拠でもあった。次にさっぱり切ってしまうのは、社会にこてんぱんに負けてどうしようもなくなったときと決めていた。けれど負けたくなかったから、がんばった。だから切らなかった。伸ばしつづけた。だんだん重くなっていく髪は、矜持でもあったけれど同時に固執することでもあった。何度何度もわたしってちっぽけだなと思うたび、自分の重い髪がちらついた。
友達は髪を切ってくると、わたしに駆け寄ってくる。幸福な笑顔を振りまいて。それはとても美しいことを知っている。心のなかでは憧れていたことも知っている。大人の放つきらきらに近づいていく周りと変わらない自分をくらべて、泣いたこともある。そのうち強がりははち切れてしまうかもしれないなあとか思う。
わたし、今、すごい揺れてるのだなあ。自分でもびっくり。
ふらふら歩いていると、街には多くの美容院であふれていることに気づいた。よく来る街のはずなのに、こんなにあったっけと思う。もしかしたら無意識に気づかないようにしていたのかもしれない。けれど、もう気づいちゃった。髪のことを意識してしまうと、気にならずにはいられなかった。
さっきの蟻さんが言っていた、宝石を扱っているうちに他人のアクセサリーが気になってしまうという気持ちがわかる気がした。今のわたしがまさしくそれだった。
ちょっとだけ覗いてみようと思って、ある美容院に近づいた。看板に読みにくいフォントの英字が書いてあった。お店の名前だろう。外装はガラス張りになっていて内側がまる見えだった。全体の雰囲気はよかった。
美容師さんとお客さん、あるいは美容師さんどうし気さくに話し合っている様子がとてもよかった。室内のあちこちに植木鉢があって色とりどりの観葉植物が飾られていた。これもいい。入口に受けつけがあって、ちょうどひとりのお客さんが会計をしているところだった。受付係の女性のほんわかした感じとお客さんを見送る笑顔がとてもかわいらしかった。首をちょっと傾け、それに合わせて髪がふわりと揺れて、彼女はきっとしつこすぎないアロマのようなにおいを放つだろう。
会計をすませたお客さんが扉を開けて出るとき、わたしはその受付係の女性と目が合ってしまった。彼女はにこやかにほほえんだ。すごく、どきっとした。
もう、遅かった。あらゆる意味において、手遅れだった。
わたしはそのお店にいやおうなく吸い込まれた。
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