第11話

 「遅くなって御免なさいね。

皆、よく眠れた?」


お昼過ぎ、精鋭6人が集う広間に、紫桜が顔を出す。


大事な話がある時は、これまでは謁見の間を使ってきたが、今日は予めここに集まるように伝えて貰っていた。


昼食を取らないでとも伝えてある。


皆の顔を見ながら、空いている上座の席に着こうとした彼女は、自分を見つめる皆の目が、大きく見開かれている事に気が付いた。


「どうしたの?」


不思議そうにそう尋ねる紫桜に、志野が答える。


「姫様、美し過ぎます」


「え?」


自分の容姿を褒められる事には慣れている紫桜も、今の志野のように、呆気あっけに取られた表情でそう言われるのは初めてであったので、少し戸惑った。


「一晩でそんなにお変わりになるなんて、一体どうし・・いえ、理由は1つしか思い当たりませんね」


何所どこと無くうらやましそうにそう言う志野の隣で、菊乃が顔を真っ赤にして下を向いている。


「・・そんなに変わったかしら?」


「お身体からあふれ出る生気、お肌の張りと肌理きめの細かさ、御髪おぐしの艶と滑らかさ、どれも見違えるようです。

勿論、それまでの姫様が劣っていたなどと言うつもりはございません。

今が凄過ぎるのです」


「・・有り難う。

お世辞でもそう言って貰えると、女として嬉しいわ」


「姫様、今の姫様がそう仰ると、いやみにしか聞こえませんよ」


あやめが少し引きった笑顔でたしなめる。


「御免なさい」


紫桜が、しゅんとして身をすくめた所で助けが入る。


「そのくらいにしておけ。

人の美しさは、何も容姿だけではない。

お前達だって、其々に素晴らしいものを持っているのだから」


ちょうど、広間への襖を開けて、和也が入って来る所であった。


居並ぶ精鋭達が、直ぐ様腰をずらし、平伏する。


「別にそんなに畏まる必要などない。

いつも通りで良いぞ。

今の自分は、ちりめん問屋の隠居だからな」


「・・何それ?

あなた、そんな事もやってたの?」


紫桜が、いぶかしげに尋ねてくる。


「いや、これは決まり文句のようなもので、身分の高い者が、自分の素性を隠す時に使う言葉らしいのだ。

別に自分の身分がどうこう言うつもりはないが、これを使うと、不思議と皆が納得していたのでな」


「ふーん。

・・意味を分って言ってるの?」


「・・・」


「やっぱりね。

そんな事より、何してたの?」


一緒にここへ来るはずが、やる事があったと1人で渡り廊下で立ち止まり、自分を先に行かせた和也に疑問をぶつける紫桜。


「本国とやらから、これまでお前達が迷惑を被った分の、慰謝料を貰ってきた」


「何をしたの?」


和也のする事だ。


きっと誰か他の、人の為になる事をしてきたのだろう。


わくわくしながらそう尋ねる。


「鉱山を潰してきた」


「え?」


紫桜だけではなく、6人の精鋭達も驚く。


「今頃、皆家族の下へ帰っているのではないかな」



 『今日もまた、目覚める事ができた』


たこ部屋の粗末な寝床から、窓越しに漏れる朝日を浴びて、無精髭ぶしょうひげを撫でながらそう噛み締める男。


夜寝る前に、もしかしたら、明日の朝日を拝む事ができないかもしれないと、この頃いつも不安になる。


半年前から出るようになったせきは、最近は特に酷くなり、一度咳き込むと中々止まらない。


仕事中は他の仲間に迷惑を掛けるから、極力我慢するが、どうしようもない時もある。


その咳に、わずかな血が混じるようになった頃から、男は、眠りに就くのが怖くなった。


もう一度、妻や子に会いたい。


そう願う男にとって、死は全ての終わりだ。


生きてさえいれば、もしかしたら、天帝様の恩赦おんしゃがあるかもしれないが、死んでしまっては元も子も無い。


安堵あんどの溜息を洩らして、起き出した他の仲間達と共に、粗末な食事を取りに行く。


味も量も、本国にいた頃とは比べ物にならないが、咎人とがびとである自分に施して貰えるのだから、贅沢は言えないし、言う気も無い。


つるはしで硬い岩盤を叩きながら、もう幾度も自問自答を繰り返した。


あの時、盗みは良くないと、踏み止まるべきだったのか。


病に苦しむ妻を、黙って見殺しにすべきだったのか。


その答えはいつも直ぐに出る。


行為の是非はともかく、やれる事があるのに、それをせずに妻を見捨てる事など、自分にはできはしない。


だがその先、今の自分の現状と、島送りになった妻達の事を思う時、もっと他にようはなかったのか、別の選択肢があったのではないかと、思考が堂々巡りになる。


直ぐに食べ終えてしまう程の量の、その最後の1口を大事に口に運ぶと、男は、今日の仕事に取り掛かるため、さっさと食堂を出るのだった。


 

 「サボるなよ!

働きの悪い奴は飯抜きだぞ。

無駄飯食らいに用は無いからな」


鉱山の監督者から、お決まりの言葉を浴びながら、つるはしを担いで坑道に入って行く。


互いが互いを監視できるように、ここでの作業ははん制になっていて、その班は、ここに送られてきた時期で決められる。


ここに来てもう3年近くになる男の班には、他に12人の咎人がいたが、その内の5人は既に死んでいる。


残りの7人は皆、自分と同じように、家族が『穢れし者』として別の島に流された者達だ。


何時いつかまた家族に会うという同じ希望を共有しているせいか、他の班の人間達よりお互いの結束が強い。


至る処から有毒ガスが漏れ出ている坑道の中で、互いの体調を考慮し合い、弱っている者には、よりきつい掘削作業を免除し、台車で掘った土を運ぶ作業を割り当てたりして、協力し合い、助け合ってきた。


それでも、年齢的なものや、運悪くガスを直に浴びてしまうなどして、全員がかなり衰弱してきていた。


『不味い。

咳が我慢できそうにない』


作業を中断し、邪魔にならない所で咳き込んでいた自分を、運悪く監督の兵が見咎める。


「そこ、何をサボっている!

さっさと作業に戻らんか!」


ドカドカと近寄って来て、自分を殴るために兵がしならせたそのむちを、仲間の1人のつるはしが受け止める。


「何だお前、反抗する気か?」


新たな獲物を見つけたように、兵がその相手の顔を見る。


「なっ、お前か」


その男の顔を確認すると、兵が舌打ちをして去って行く。


「大丈夫ですかな」


助けてくれた初老の仲間が声をかけてくる。


「有り難うございます。

ですが、貴方にご迷惑が・・」


兵達の報復を心配した私に、その人は平気な顔をして言う。


「なあに、あいつらには何もできんよ。

今はここも人手不足で、以前のように勝手に囚人を殺したりすれば、今度は自分達がここで働かされるからな」


あまり自分の事を話したがらないこの男性は、何でも有名な剣術家らしく、本国では、天帝様が出席なさる御前試合で優勝した事もあるらしい。


だが、何年か前の試合で、皇族出身の相手が仕掛けた反則技に咄嗟とっさに対応できず、つい本気を出して相手に怪我をさせてしまったらしい。


本来なら、反則をした相手が悪いのだが、その相手はかなり身分が高く、審判が全員この男性の過失を主張し、ここに送られてきたと他の仲間から聞いた事がある。


「本当に有り難うございます。

いつも足手纏あしでまといで、済みません」


腑甲斐無ふがいない自分を恥じながら、頭を下げる。


情けなくて、涙が零れる。


「気にすんなよ。

俺達仲間じゃねえか」


「そうだよ。

みんなお互いに迷惑かけあって生きてんだからよ」


何時の間にか、他の仲間達が集まって来ていた。


どうやら心配して、様子を見に来てくれたらしい。


どの人達も、本国で罪を犯したからここに送られてきている。


ある人は人を殴って、ある人は自分と同じ、盗みを働いて。


だが、必ずしもその人だけが悪い訳ではない。


大事な人を守るため、大切な何かのために、已むを得ず犯す罪もあるはずだ。


決して自分を正当化する訳ではないが、この人達を見ていると、悪い人にはどうしても思えない。


これ以上ここに居ると、また兵に見つかって、更に迷惑を掛ける事になる。


肺に刺し込むような痛みが走るが、気力だけで立ち上がろうとしたその時、坑道全体に蒼い風が吹き抜ける。


『お前達はもう十分、罪を償った。

犯した罪と向き合い、自問自答を重ねて、より深い思慮を得た事で、同じ過ちを繰り返す事もないだろう。

また、本来なら、罪に問われる事のなかった者達よ。

汝らには、我からささやかではあるが、贈り物をしよう。

せめて残りの人生を、有意義に生きるが良い』


各自の耳元で、そう声がする。


そして、其々の身体が蒼い光に包まれた。



 和也は鉱山のある島全体にジャッジメントをかけ、解放する者と、そうでない者とを峻別する。


元々無罪であるはずの者、犯した罪と比較し、明らかに刑がきつ過ぎる者で、既にそれを償い終えたと判断される者は、身体の異常を治した上で、其々が心の内で望む場所に転移させた。


未だ罪を償い切れていない者、反省が見られず、再犯の可能性が極めて高い者は、兵達と共に本国の牢に転移させられ、そこで改めて、刑を決められる事になる。


その後、無人になった島に、和也は力を行使する。


まず鉱山全体から、きんを全て抜き取り、それを1キログラムごとの延べ棒にして収納スペースに送り込む。


そして鉱山を崩し、坑道を全て塞いで更地にし、地中から漏れ出す有毒ガスの新たな抜け道を海底深くのプレートに通す。


島の全土を浄化した後、その4分の1は干潟にし、渡り鳥たちが羽を休める地とし、残りを森にして、そこに湖を造り、川を通す。


とある世界の過去へとさかのぼり、今では絶滅が危惧される草花の群生を見つけては、少し分けて貰ってそこに植え、その星では、都市開発で次第に姿を消していった生き物たちを探し出し、種の維持が可能な程度を移り住まわせる。


ついでに、現在に戻り、その食害が問題となっている鹿や猪を、数十頭ずつ捕らえ、病気の有無の検査をした後、火狐によって動物がほとんどいなくなった、自分の島の森に放す。


天敵がいなければその世界と同じ事が起こるが、肉を調達するために島の者達がある程度の狩をすれば、大丈夫であろう。


数年から数十年をかけ、新たに創った島の自然環境を定着させるため、その周囲に人が入れぬ結界を張り、しばらく様子を見る事に決めて、和也は、先に行かせた紫桜の後を追うのであった。



  「ちなみに、菊乃と喜三郎の父親は、この島に来ているぞ」


「え!?」


「誠でございますか!!」


その衝撃の大きさに、思わず声を大きくしてしまう2人。


「ああ。

菊乃の父親は肺をやられていて、あのまま放っておけば長くは持たなかっただろう。

喜三郎の父は元々無罪故、本国から受けた仕打ちに対し、自分がその補償をした。

2人共、身体の異常を全て治した上で、この島の正門前に転移させてある。

他にも何人か、島の住人の家族達と一緒にな」


菊乃は正座したまま下を向き、肩を震わせながら涙を零す。


「お父さん、・・良かった。

良かったね」


喜三郎は和也が発した『無罪』の言葉に強く反応し、母と2人で耐え忍んできた無念の涙を、現実の涙に変えて、嗚咽おえつを洩らすまいと歯を食いしばりながら流している。


「迎えに行って来ても良いぞ」


和也がそんな2人に優しく言葉をかける。


「・・有り難うございます。

でも、大丈夫です。

小さな島ですから、その内、母を見つけるでしょう。

最初は母に会わせてあげたいですから」


次々に湧き出る涙を拭きながら、菊乃がそう答えると、喜三郎も同意する。


「父上なら、島の散策をしておられる内に、母上を探し出すでしょう」


「・・そうか。

では、今日の本題に入るぞ」


紫桜がスペースを空けたその横に、和也が腰を下ろすと、6人は再び姿勢を正す。


「先ずは報告からだ。

自分は今日、正式に紫桜を妻の1人に迎えた。

これからは自分の妻であり、また眷属として、共に果てしない時を過ごしていく。

そして、自分に付いて、様々な世界を旅する事にもなる。

よって皆には悪いが、近い内にこの島から離れるだろう」


紫桜を妻にめとったと聞かされた6人に、あまり表情の変化は見られない。


源が目で喜びを表現し、あやめと志野が僅かにその口元をほころばせ、影鞆と喜三郎が微笑み、菊乃は嬉しそうな顔を見せただけだ。


今更なのかもしれない。


「皆には申し訳なく思っています。

祖父に付いて、この島に渡って来た4人には特に。

我儘わがままを言って御免なさい。

でも、和也さんに付いて行きたいの」


紫桜がそう皆に謝ると、6人を代表して、源が答える。


「姫様、謝られる理由など何もありません。

我らは皆、自らの意思でここに来て、己の考えで、姫様をお守りして参ったのです。

それは我らにとって喜びでもあり、誇りでもありました。

我らが願うのは、常に姫様のお幸せのみ。

此度こたびの事、謹んで、お喜び申し上げます」


「・・有り難う」


これまで皆と過ごしてきた時間を思い浮かべ、涙ぐむ紫桜。


それを視界の端で認識しながら、和也は告げる。


「今後の事についても話しておく。

先ず、お前達はこれからもこの島に住み続ける気はあるか?

お前達を閉じ込めていた結界は既になく、もう少しで本国の艦隊がこの島に攻めてくる。

慕ってくれた紫桜もいなくなる上、残るのであれば、この島の管理もお前達に頼みたい。

どうする?」


和也は目で、1人1人に尋ねて回る。


「私はここに残ります。

親方様が守り、姫様と共に過ごしたこの地を、離れるつもりはありません」


源が答える。


「私も当然残ります。

源とここで子を育て、島を守っていきます」


あやめもそう答える。


「残ります」


志野が即答する。


「わたくしも残ります。

これからはこの島で、のんびりと暮らしていきたいです」


影鞆もそう答える。


「私は・・父上次第ですね。

勿論もちろん、本国との戦争が済むまでは、必ずここに居ますが」


喜三郎は、何か心にわだかまっているものがあるらしい。


「因みに、本国とのごたごたは、そう長くは掛からない。

そしてその後、1、2年くらいで、道場が再建できるだろう」


「!!!」


喜三郎が驚いて和也を見る。


「時が来たら、その時また考えると良い」


「私は、たとえ両親が本国に戻ったとしても、この島から出るつもりはありません。

死ぬまでずっと、ここに住み続けます」


菊乃が真面目な顔でそう答える。


「ここが良いんです。

御剣様と出会って、物だけではない、沢山の贈りものを頂いたこの島が。

泣いて、喜んで、優しく頭を撫でていただいたこの島が。

ここから離れる気はありません」


和也を含め、周りの皆が驚くくらい、熱のこもった言葉で答える。


「・・そうか。

では更に詳しい話に移ろう。

我が領有としたこの島だが、精霊王達の祝福により、人が普通に暮らす分には何の不安も苦労もない。

今まで入れなかった広大な森には、数々の山のご馳走が実り、川には、うなぎや泥鰌どじょう、鮎などの川魚も豊富だ。

森には更に、先程自分が放った鹿や猪もいる。

養魚場の魚の管理もお前達に任せるし、養鶏場の卵も好きにして良い。

但し、あそこの鶏だけは、手を出す事は許さん。

彼らには後でやって貰う事があるからな。

結界が張ってある故、自分の許可なく入れはしないが、念のために言っておく。

森に入れる以上、これまでのように薪に苦しむ事もないし、精霊の加護を受けた豊かな近海で、独占的に漁もできるから、最早生活には困るまい。

よって、この島の住人への税は、年間に稼いだ貨幣額の2割にする。

米やその他の作物からは取らない。

あくまでも、何か商売をしてお金を稼いだ額から、必要経費を引いた分の、その2割を徴収し、それを村の運営資金とする。

そのため、戸籍を作り、住民の1人1人をきちんと把握する事をさせる。

島の全土地は自分に帰属するが、今現在そこに住んでいる者達にはその土地の所有権を認め、相続も、島内に限って認める。

・・最後に、外貨獲得と、自分が認めた者達に一時ひとときの安らぎと癒しを与えたいがゆえ、この島を温泉保養地とする」


「・・温泉保養地、ですか?」


あやめが不思議そうに尋ねる。


「それが商売になるのでしょうか?」


彼女達が頭に浮かべているのは、俗に言う、湯治場の風景だ。


本国では、医者にかかれない貧しい人々が、自炊しながら、長期間、粗末な施設で湯に浸かる生活を繰り返している。


お世辞にも奇麗とは言い難い施設での寝泊りで、食事も持ち込みである事から、ほとんど費用が掛からない。


そんな事でお金になるのかと、そう考えている顔だ。


「お前達が思い浮かべているやり方とは違う。

裕福な者や貴族相手に商売をするのだ。

そんなはずがなかろう。

小奇麗な旅館を建て、そこに複数の浴場を造り、山海の珍味や豪華な料理で客をもてなすのだ。

接客にも気を配らねばならん。

例えば、こんな感じだ」


6人の頭の中に、とある星で毎年ランキングのトップに位置する有名旅館の日常を、ざっと見せてやる。


「・・こんなに凄い場所があるのですか?

でも、とても私達だけでは・・」


その接客と料理の、あまりのレベルの高さと、見た事もない乗り物や施設の豪華さに、皆呆然としている。


「無論ここまでは要求しないし、したとしても無理だ。

自分がお前達に求めるものは、もっとずっとちんまりとした、日に数組をもてなす程度の宿だ。

その宿には、この領主屋敷と、新たに自分が建てる2軒を充てる」


「ここを解放なさるので?」


皆が信じられないという顔をしている。


「ここの庭は風情があり、建物自体も趣深い。

露天風呂も少し手を加えれば、かなりの物になるし、足りない施設は自分が増築しよう。

紫桜が島を出れば、住む者のいなくなった家は傷みが進むし、管理も大変だ。

それなら、高級旅館として、極限られた客をもてなす予約制の宿にでもした方が、仕事上、日々手入れもするし、建物の保存にも繋がる。

それに、何も全部解放する必要はない。

お前達の大切な場所、思い出が詰まった場所は、非公開で立ち入り禁止にすれば良いのだ。

自分達も、偶にはここに客として来る。

ここは紫桜と、掛け替えの無い時間を過ごした場所だ。

自分とて、無闇やたらに他人に足を踏み入れさせはしない」


和也の説明に、胸を撫で下ろすあやめ達。


「御剣様は、この島に時々いらして下さるのですか?」


菊乃が、あやめ達とは異なる点に反応する。


「そう頻繁にではないが、年に1、2度くらいならな。

何しろここは、自分の島なのだから」


菊乃の気持ちを知ってか知らずか、自分にまた会いたいと願ってくれる彼女に、優しげな笑顔を向ける和也。


紫桜が隣で、やれやれとでも言いたげな表情をしている。


「嬉しいです。

私、頑張って働きますね!」


もう和也に会えないとでも考えていたのか、その顔は笑顔に溢れていた。


「先程の映像で分ったと思うが、温泉旅館では主に女将と呼ばれる女性経営者が主役で、男性陣は、どちらかというと裏方だ。

女将や仲居と呼ばれる女性達は、常に和服で接客し、その物腰にも、和服ならではの気品が求められる。

その点、普段から和服を着慣れているお前達は適役だ。

源とあやめの2人には、領主屋敷を改装した、王族や貴族、自分(和也)の大切な者を客とするこの宿と、この島の領主代理の地位を任せる。

志野には新たに自分が造る、一般人向けの高級旅館の経営と、海での乱獲を防止するための、村人に与える漁業権の管理を、菊乃には、養鶏場の管理と、できれば母親と2人で、自分が建てる、普通の者でも気軽に泊まれる宿の経営を頼みたい。

影鞆と喜三郎も、その身の振り方が定まるまで、他の者達を助けてやって欲しい。

・・ここまでで、何か分らない事はあるか?」


「宿で働いて貰う者の人選は、如何いかが致しますか?」


あやめが尋ねてくる。


「全てお前達の判断に任せる。

自分が結界を張ったが故に、今後この島には、悪しき者や邪心を抱いた者達は入って来れないが、働く意欲や能力は審査基準に入っていないので、お前達の目で見極めるしかない。

人材育成やその確保も、お前達の仕事の内だと思ってくれ」


「宿の収入や経費の管理、その報告は、どのように致しますか?」


志野が質問してくる。


「お前達に宿を割り当てるのは、その生活基盤を与える意味も兼ねている。

宿での収入は、利益の2割を税として納める以外は、全てお前達が懐に納めて構わない。

その報告は、年に1回、税の申告書として、この村に新たに設ける役所に出せ。

税と戸籍の管理には、その役所の人材を充てる」


「・・役所、でございますか?

そのお役目はどなたに?」


何故なぜか影鞆が、『役所』という言葉に反応する。


「自分の勘が確かなら、本国とのいざこざが片付き次第、そこから1人の女性がこの島に移住して来る。

その者は、この島の事をよく知る、本国で下級役人だった女性だ。

身一つでこの島にやって来るその女性に、役所の仕事を斡旋あっせんしようと考えている」


影鞆に、意味ありげに微笑む和也。


何故かそれに、照れた仕種を見せる影鞆。


2人が上手くいく事を願いながら、話を続ける。


「他に聞きたい事がなければ次に進むが?

・・ないようだな。

では、これをお前達に渡しておく」


和也はそう言って、6人の前に、三日月と藤の花の家紋が入った紫の袱紗ふくさを出現させる。


「これは花月家の・・」


源が呟く。


「中をあらためてくれ」


和也の言葉に、皆が袱紗を開く。


鈍い金色を放つ物体が、源、あやめ、志野、影鞆の前には3本、喜三郎、菊乃の前には2本積まれている。


「金塊?

しかも、本国の焼印がしてある」


驚く皆を代表して、志野が口を開いた。


「それは先程、本国の鉱山を潰した際に、その埋蔵量を全て頂いてきた物の一部だ。

源、あやめ、志野、影鞆。

お前達には、精鋭として命懸けで戦った事への報酬の他に、親を失った紫桜を保護し、育ててくれた恩に対する礼として、他の2名よりも1本多く包んである。

それ1本で1キログラム。

まあ、それなりの財産にはなるであろう。

受け取ってくれ」


皆が遠慮して手を出そうとしない中、菊乃が口を開く。


「御剣様、私はこんなに沢山のお金を頂けるほど、皆さんのお役に立っておりません。

精鋭として参加したのも2回だけ。

戦いでは、皆さんの後ろの安全な場所から、僅かな援護をしていたに過ぎません。

どうか私の分は、皆さんにお与え下さい」


折角の和也の厚意を無下にして申し訳ないと思いながらも、自分の働きに見合わないと辞退しようとする菊乃。


その彼女に、和也は、何時になく真面目な顔で告げる。


「菊乃、お前は勘違いをしているぞ。

報酬を考慮する際、戦いにおける個人の戦果は確かに重要ではあるが、それはあくまで個人で戦った時の話だ。

多くの仲間と共に戦う団体戦では、其々に役割があり、効率よく勝つためには、たとえ取るに足らない役割でも、それが大きな意味を持つ事が多々ある。

軍師は、武力で役に立たずとも、その英知で仲間を勝利へと導き、治癒師は、戦う力を持たずとも、傷ついた仲間を癒す事で、その兵力を保ち、勝利への可能性を高める。

足の速いだけが取り柄の兵だとて、囮として戦場を駆け回れば、敵の統率や注意力を乱し、味方の攻撃をより効果的なものとする。

そういう者達の力を、お前は軽く見るのか?

最後に敵将の首を取った者だけを称賛するのか?

侵略戦争でもない限り、その者達だって、大切な何かを守るために、1つしかない自分の命を懸けて、”自らの意志で”、そこに立っているんだぞ。

・・人には個人差がある。

その体格、性別、年齢は、本人ではどうする事もできず、生まれや経済力などの環境差は、同じ時間を努力に充てても、援助を受けられるものの多さで、より豊かな方を優位にしがちだ。

自分はな、なるべくなら、結果より、それに費やした努力を、情熱を評価したい。

その勝敗や順位として、結果に対する評価は既に出ている。

ならば、その者が払った努力を、費やした時間を、褒めてやりたいし、認めてもやりたい。

先を行く先達せんだつに追い付こうと、夏の焼けるような日差しの中を、冬の凍てつく風の中を、毎日何キロも走り、何時間も訓練に励んだ者に、よくやったと褒美を与える事は間違っているだろうか?

他の皆も遠慮するな。

それは、今までお前達が払ったものの代償だ。

今までの己の努力と熱意に、胸を張る事ができるのなら、堂々と受け取るが良い」


長きに亘る和也の言葉に、源が無言で平伏し、その後、袱紗を受け取る。


それを皮切りに、他の皆も同様にして受け取る。


最後に菊乃が、大粒の涙を流しながら受け取った。


「・・人に認めて貰える事が、褒めていただく事が、どうしてこんなに嬉しいのでしょう。

ずっと思っていました。

私はおまけでしかないと。

精鋭なんて言われても、皆さんのお力をお借りして、そのおこぼれを頂いているだけだと。

私も、精鋭の一員なんですね。

そう考えても、宜しいのですね?」


泣き笑いの表情を向けてくる菊乃に、和也は答える。


「当たり前だ。

たとえ他の誰が認めずとも、自分と、ここに居る皆が認めている。

菊乃、お前は精鋭だ。

この島を、村人の命を、自分の命を盾にして守った戦士だ。

領主である紫桜に代わって礼を言う。

有り難う」


いつまでも泣き止まない菊乃。


それは、何時になく熱く語った和也が、それに気付いて強制的に場を変えるまで続く。


「皆、腹が減ったであろう。

飯にしないか?

今日の昼飯は、ご馳走だぞ!」



 笑いと笑顔が絶えない食事会の後、皆が何度もお礼を言いながら帰っていく。


久々に父親に会える2人の足取りは、より軽やかだ。


それを見送り、紫桜と2人で彼女の私室に向かっていた和也は、その手前でいきなり彼女に唇を奪われる。


いつもの、優しく包み込むようなものではなく、和也の背と後頭部に手を回し、初めから激しくむさぼってくる、攻撃的な口づけ。


長く続いたそれは、やっと離した彼女の唇に、銀色の、濃い架け橋を作る。


「・・一体どうした?」


普段の紫桜らしからぬ行動に、その理由を尋ねる和也。


「別に。

ただちょっと、もやもやしただけ。

・・あなたって、本当に天然の女殺しよね。

菊乃、あなたに手折って貰わなければ、きっと一生独身よ。

どうするの?」


「?

何を言っているのか分らないが、彼女は良い子だ。

きっと、周りの男が放って置かないさ」


何らかの光景を思い出しているのか、そう言う和也は凄く嬉しそうだ。


紫桜が大きな溜息を吐く。


「言葉で言っても駄目なら、身体に分らせるしかないわよね。

部屋に入りなさい。

本気になった女がどれ程のものか、これからたっぷりと教えてあげる」


『いや、それはエリカで既に知っているが・・』


「今、誰か別の女性の事を考えたでしょう?

フフフッ、わたくしが、これからそれを上書きしてあげるわね」


問答無用で右手を取られ、部屋に引きり込まれる和也。


「お、お手柔らかに」


「それはこちらの台詞よ!」


その日は、それから誰も尋ねて来ないのを良い事に、時折挿む僅かな休息だけで、明け方近くまで、ひたすら女性の本気とやらを教え込まれた和也であった。



 (一方、その日の昼過ぎ)


「ただいま。

また・・会えたね」


ガシャン。


綾乃が、昼食用にと手に持っていた皿を落とす。


玄関先に、信じられない人を見たからだ。


「あなた・・」


「もう駄目かと思っていたけど、神様が助けて下さったんだ。

君も元気そうだね。

良かった。

・・本当に、良かった」


涙ぐむ男に、綾乃が抱き付いていく。


「御免なさい!

私の為に、苦労かけて御免なさい!」


泣きながら謝る綾乃。


「良いんだ。

やり方はともかく、君を助けた事を後悔はしていない。

君が元気なら、それで良いんだ」


「・・有り難う。

そして、お帰りなさい。

お腹空いてるでしょう?

今、ご飯作るわね。

御剣様のお陰で、ご馳走が沢山あるのよ?」


「御剣様?」


「神様よ。

とっても素敵な神様。

優しくて、人を思い遣る温かいお心を持った神様。

私がもう少し若かったら、『惚れてしまっていたかも』・・いいえ、何でもないわ」


「神様がこの島にいらっしゃるのかい?」


びっくりして聞き返す男。


「ええ。

だってここは、神様の島だもの」


そう告げる綾乃の顔は、とても誇らしげであった。



 「お帰りなさいませ」


薪を取りに外に出た女性は、少し離れた所からのんびり歩いてくる、1人の男に目が釘付けになった。


自分が見間違えるはずがないその相手を、着物の皺を直し、姿勢を正して、玄関先で待ち構える。


「今帰った。

何年もの間、苦労をかけたな。

元気そうで何よりだ」


武人らしく、簡潔な言葉の中にも、相手を思い遣る、優しい響きが混じっている。


「あなたこそ、ご無事で何よりです。

もう会えないかと、半ば諦めておりました。

嬉しゅうございます」


厳格な家で育った女性は、こんな時でも、感情表現は控えめだ。


「・・神に助けられたのだ。

他の何人かと一緒にな」


「やはりそうでございましたか。

あのお方は、何処までもお心が広い、まるで天そのもののようなお方ですから」


「うん?

会った事があるのか?」


「はい。

・・ここは神の島。

あのお方がお創りになられた、人の楽園でございますから」



 「・・何じゃこれは!!

あの島がこの国から独立?

ふざけておるのか?

これを書いた者達をここに呼べい!」


雪月花の皇宮から、天帝である白雪しらゆきの声が響き渡る。


雪月花。


最大の島である総州を中心に、主に4つの島々から成り、総人口は2000万を数える、大陸東の強国である。


代々女性が天帝として国を司り、天帝が神の子孫とされた事から、寺社における神事も盛んであった。


「かの者達は、貴女様に直にお目通りが適う身分の者ではありませぬが・・」


側近がやんわりとそうたしなめるが、彼女は聞く耳を持たない。


「構わん!

こんな不愉快な話、わらわが直に確かめねば気が済まぬわ」


程無くして、島に赴いた4人の内、上役の男と、報告書の記述における中心的な役割を果たした女性の、2人が参上する。


「お呼びにより、参上致しました」


2人は、がちがちに緊張している。


未だかつて、自分達のような下級役人が、天帝の御前に呼ばれた事はない。


報告書を提出する際、内容が内容だけに、必ず後で何か言われると思ってはいたが、まさか直々に尋ねられるとは夢にも思っていなかった。


ここでの答え方を間違うと、自分達は良くて鉱山送りだ。


最悪、命の危険すらある。


「報告書を読んだ。

妾は今、猛烈に腹を立てておる。

嘘偽うそいつわりは、己の死に繋がると考えよ」


御簾みす越しに、天帝からの声がする。


2人は、その場で平伏したまま答える。


「ははーっ」


「先ず、あの島が独立を表明したのは事実か?」


「恐れながら、事実でございます」


「宣言したのは誰じゃ?

紫桜か?」


「いえ、外の国から見えられた、御剣様なるお方でございます」


「この報告書には、その御剣なるものが神だと書いてあるが、一体これは何の冗談じゃ」


天帝からの怒気が、2割増しくらいに感じられる2人。


「恐れながら、島の結界を瞬時に破壊し、天上から、6人の精霊王を使役して、数々の奇跡をもたらしたあのお方を、他に表現する言葉が思い当たりませんでした」


御簾越しに、天帝が眉をしかめる。


「精霊王とな?

汝らは、何故それが精霊王だと分ったのじゃ?」


「御剣様が、そう申しておりました」


「先程から、何故汝らはその者を様付けで呼ぶ?

この国の、敵であるはずよの?」


「恐れながら、あのお方が神であらせられれば、恐れ多くも天帝様のご先祖様でおられます故」


「・・火狐が全滅したというのも誠か?」


「誠でございます。

最後に生き残った3体を、御剣様が異界へと転送致しました」


「では最後に、・・紫桜の婚姻、相手はその御剣とあるが、これも事実なのか?

妾を差し置いて、神と婚姻を結んだと?」


天帝からの怒気が最高潮に達する。


「お、恐れながら、事実でございます。

紫桜様ご本人より、確とお聞き致しました」


「・・そうか。

下がって良いぞ」


「ははーっ」


平伏したまま、後ろに身体を引き摺るようにして退出する2人。


その顔は、何とか命を繋ぎ止めたという、安堵に満ちたものだった。


2人が去った後、白雪は、煮えたぎる思いをどうにか抑え、紫桜の事を考えていた。


忌々しい親族であり、この国一番と称される美女。


幼少の頃より、その美しさは群を抜き、彼女の母親は、とんびが鷹を産んだと揶揄やゆされた。


天帝になる前の自分は、何かにつけて彼女と比較され、そのほとんどで、紫桜の方に軍配が上がったものだ。


もし彼女があの島に渡らなかったら、どちらが天帝になっていたのか分らない。


自分が天帝として即位して早3年。


国内に反抗勢力こそないが、未だに彼女を嫁にと希望する大貴族は多い。


自分が天帝になり、多少は溜飲が下がりはしたが、それでも子供の頃の屈辱は消えず、毎年提出される、彼女に関する報告書を読んでは、一喜一憂していた。


カリスマであった祖父が死に、父親もその後間も無く戦死して、自分が仕掛けた生活物資の交換比率の引き上げで、かなり追い詰めたはずだが、それでも音を上げず、毎年の報告書には、相変わらずお美しいと書いてある。


子供の頃に、数える程しか会っていない人物に、ここまでの執着をみせるのは我ながらどうかとも思うが、積み重ねてきた感情が、どうしても納得してくれない。


どう対処しようかと考えていた時、側近の1人が、火急の知らせだと言ってやって来た。


「申し上げます。

たった今、鉱山管理者達が、皆牢に閉じ込められているとの報告が入りました」


「何?

囚人共が反乱でも起こしたのか?

第一、どうやってその者達をここまで運んだのじゃ?

定期船の運航は、まだ先のはずじゃな?」


「それが、管理の兵達と共に、囚人達も何十人か入れられておりまして、牢の側にこのようなものが落ちていたとの報告が・・・」


側近が、うやうやしく1枚の紙を差し出す。


『鉱山はわれが管理地として頂いた。

邪魔な兵と、まだ罪を償いきれていない囚人は返す。

因みに、鉱山の金は全て我が慰謝料として頂いたので、既に埋蔵量はゼロである。

他称、お前達の先祖より』


それを読んだ白雪の、紙を持つ手が震える。


「ふ、ふざけるでない。

わが国の島を、2つも勝手に奪っただと。

しかも、我がご先祖達を愚弄するとは・・・許せん。

断じて許せん!

戦の用意をせい!!

あの島を完膚なきまでに攻め滅ぼすのじゃ!!」


「・・神と戦うおつもりなのですか?」


「そのような者、偽物に決まっておる。

大方おおかた、集団幻覚でも見せられたのであろう。

そうでなければ、紫桜など、嫁にするはずがないわ!」


「・・紫桜様のお取り扱いは、如何致しますか?」


「首に縄でも付けて、ここに連れて参れ!!!」


あまりの剣幕に、側近達が皆平伏して、承諾の意を表明する。


「見ておれよ。

妾を愚弄したらどうなるか、思い知らせてやるわ」


皇宮内がにわかに慌しくなる中、白雪は1人静かに、暗い思いに囚われているのであった。



 「か、身体に力が入らない」


「無理をするからだ。

あまり運動は得意な方ではあるまい?」


「あなたのせいでしょう!

それに、もう『人』ではないのだから、それなりに体力だってあるわよ」


「自分はただ、女の本気とやらを教わった礼に、男の意地を見せたに過ぎん。

文句を言われるとは心外だな」


自分の腕を枕代わりにして、至近距離から見つめてくる紫桜に、苦笑しながら告げる和也。


「文句じゃないわ。

抗議よ。

あなたを拒むなんてありえないのだから、もっとゆっくり・・ね?

初心者なんだから、慣れるまでは少しハンデを下さいな」


白魚しらうおのような美しい指で、和也の逞しい胸に悪戯しながら、そう甘えてくる。


「お前には口では敵わないからな。

ちょうど良いと思うが」


「意地悪」


もう何度目になるか分らない口づけをしようとした紫桜が、不意に真面目になった和也の表情に気付く。


「どうしたの?」


「天帝とやらが決断したようだな。

雪月花が攻めてくるぞ」


「・・そう。

また戦いが始まるのね」


「そんな顔をするな。

前にも言ったが、そう長くは掛からん。

それに、これは必要な戦いなのだ。

かの国が、生まれ変わるための・・な」


「あなたが出るの?」


「いや。

精鋭達で十分だ。

そのための『神兵』だからな」


「大丈夫?

本国の正規兵は、中々強いわよ?」


「お前はまだ、『神兵』の本当の力を知らないからな。

真の力を発揮させれば、その効果は、この間の比ではないぞ」


そう告げて、不敵に笑う和也であった。



 「もう直ぐ、島の領海へと差し掛かります」


「ふん、あの島は我が国の領土だ。

よって、領海などは存在しない」


部下からの報告に、今回の討伐隊の司令官を任された将軍の1人が鼻で笑う。


「恐れ多くも天帝様のご先祖を語るなど不届き千万。

紫桜様以外は皆殺しにしてくれるわ」


「・・無抵抗の者もですか?」


「当たり前だ。

あの島の住人は、皆『穢れし者』達ばかりだ。

これを機に一掃してくれるわ!」


副官と思しき男からの質問に、何を当然の事をとばかりに吠え立てる。


「そんな事より、さっさと砲撃の準備に取り掛かれ。

各艦にも伝令。

沿岸からの一斉砲撃の後、上陸して生き残りを抹殺せよ」


「全艦砲撃用意」


旗艦の司令官からの命令に、10隻で構成された討伐艦隊の大砲が、一斉に島に向けられる。


「ん?

何だあれは?」


着弾地点の状況を確認すべく双眼鏡を覗いた兵が、海上に小さな物体が点在している事に気付き、疑問の声を上げる。


「・・う、海の上に、人が立っている」


目を凝らした兵が見たものは、島を守るようにその周囲の海上に立つ、6人の黒装束であった。


陽光の中でさえ、黒装束のその身から、蒼い燐光がゆらゆらと漂っている様がはっきりと分る。


水中に浮かぶその足元は少しも水に浸かる事なく、完全に水の上に立っていた。


突如、島から艦隊に向かって蒼い風が吹き荒れる。


その風を浴びた者の中から、蒼い光に包まれて、姿を消していく者が出始め、兵達に動揺が走る。


「申し上げます!

兵の約3割が突如消滅致しました!」


伝令の兵が、血相を変えて、艦底の待機所から駆け上がって来る。


「はあ?

そんな事があるか!

大方、戦が嫌で何処かに隠れとるのだろう。

最近の兵共は平和ボケして軟弱でいかん。

もっとビシバシ鍛えるためにも、各地に戦火を広げるべきなのだ。

天帝様はお優し過ぎる」


「申し上げます!

只今、砲撃班から、海上に不審な人物が立っているとの報告が」


「水の上に人が立てる訳がなかろう!

寝惚けているのか?

顔でも洗って来いと伝えろ。

・・どいつもこいつもたるんどる。

帰ったら、訓練を今の3倍にしてやる。

こんな戦、とっとと終わらせるぞ。

全艦、砲撃開始!」


その声を合図に、10隻の艦船から、数十にも及ぶ砲弾が島へと向けて放たれた。



  和也によって張られた島の結界に、敵の砲弾が次々とぶち当たっては、爆音を響かせながら消滅していく。


その様を間近で見ながら、源が呟く。


「・・奴らは御剣様が張られた結界の事を知らんよな?」


「そうだね。

知らないだろうね」


あやめがそれに答える。


「てこたぁ、皆殺しにでもするつもりで撃ってきてやがるよな?」


「この数だと、そうなるね」


「・・じゃあ、向こうが同じ目に遭っても、文句は言えんよな?」


「あたしも今、そう考えていた所さ。

ねえ志野、あんたもそう思うだろう?」


「そうですね。

戦えない、戦いたくない者にまで、問答無用で刃を向けるなら、仕方ありませんね」


「時には、こちらの力を見せ付けねばならぬ事もあります」


影鞆も同意する。


「菊乃、あんたは無理に参加しなくても良いよ。

人をあやめるのは気が咎めるだろう?」


あやめが彼女を心配して、そう声をかける。


「いいえ。

私だって精鋭の1人です。

誰かがやらねばならない事なら、それから逃げる真似はしません」


「大分良い面構えになってきたな。

じゃあ、・・いくぜ!」


源の身体が纏う燐光が、一段とその蒼さを増す。


同様に、他の者達が放つ燐光も、一斉にその深みを増していく。


源が海上を物凄い速さで疾走すると、皆がそれに続いた。



 「何か来ます!」


砲撃の効果が全くなかった事に、口を開けて驚いていた司令官に向けて、見張りの兵から声がかかる。


慌ててそちらに目を向けると、海上を凄まじい速さで疾走してくる6つの人影が視界に入る。


「矢を放て!」


兵達が甲板の上から放つ矢の雨を、最小限の動きで叩き落し、各船に取り付く6人。


「うらあ!」


「はっ!」


源の拳が船体に大穴を開け、喜三郎の居合いが横一文字に深く切り裂いていく。


弓を放とうとする者達を菊乃の気弾が打ち抜き、甲板の上に上がったあやめと志野、影鞆が、群がる兵を容赦なく鎧ごと切り捨てていく。


そのあまりのスピードに、兵達からは彼らの残像しか見えない。


「ぐはっ」


「ひっ」


刃を向けてくる者達を容赦なく切り捨て、敵の司令官の前に辿り着く志野。


「貴様、一体何者だ?

恐れ多くも天帝様に弓を引く逆賊め。

名を名乗れ!」


全身を黒装束に包み込み、目元しか見えない彼女に向けて、司令官が怒鳴りつける。


「これから死に行く者に、名乗る必要などありません」


「ふざけるな!

金が欲しいならくれてやる。

俺の部下になれ。

今回は特別に手柄も立てさせてやるぞ?

あの島の住人を根絶やしにしてくるんだ。

俺が奴らを切ると、大事な剣が穢れるからな」


そう言って笑おうとした男の体が、2つに分かれる。


「そこの者、貴方も死にたいですか?」


船室の陰に隠れていた男に、志野が声をかける。


「・・いや。

信じては貰えぬだろうが、私には戦う気がない。

この戦には真の意味での大義がない。

私には、無抵抗の者に、刃は向けられない」


志野がじっと男の目を見る。


「・・この船は沈ませずにおきます。

他の船の、生き残った者達を連れて、本国に帰りなさい」


他の船を制圧した皆のもとへ戻ろうとした彼女の背に、男から声がかかる。


「かたじけない」


「礼には及びません。

私達とて、殺戮さつりくを好む訳ではないのですから」


一瞬で姿を消した彼女を見送り、物言わぬむくろとなった司令官を見つめる男。


「・・どうやら本当の神は、あちらのようですな」


そうつぶやくと、他の生き残りを探しに、艦底へと降りていくのであった。



 「何じゃと!!

今何と申した!?」


白雪が驚愕して大声を上げる。


今しがた、側近から討伐隊の帰還報告を受けたばかりである。


「島に討伐に向かった艦隊が、ほぼ全滅致しました。

10隻の内、9隻は撃沈され、その残骸がこの島の浜辺に打ち上げられております。

残り1隻は見逃して貰えたようで、生き残った兵達を乗せて、先程戻りましてございます」


「そんな馬鹿な事があるか!

奴らは海戦用の船さえ持ってはおらんのだぞ!」


「・・生き残った兵達の話では、6人の黒装束が海上を縦横無尽に走り、素手で船の装甲を打ち破り、目にも留まらぬ速さで兵達を鎧ごと切り裂いたそうです」


「・・冗談を言っておるのか?」


「いえ、残念ながら、真実でございます」


「・・直ぐに第二次艦隊を送り出せ。

今度は倍の20隻で向かわせるのじゃ。

紫桜をここに連れて来た者には、望む報酬を与えると伝えよ。

必ず奴らを殲滅するのじゃ!!」


「もし今度敗れる事があれば、我が国は海戦力の半分を失う事になりますが、それでもですか?」


いささか感情的になっている白雪に、側近の1人がやんわりと現状を把握させようとする。


「それでもじゃ!

天帝である妾が、『穢れし者』共に後れを取るなど、あってはならんのじゃ!」


聞く耳を持たぬ彼女に、側近達が疲れたように、担当の部署に指示を伝えに行く。


それから数日後。


果たして結果は、・・側近達が危惧した通りであった。



 二度目の敗戦が伝わる前夜。


天帝を補佐する4人の側近達の頭の中で、不思議な声がする。


真夜中の、皆が寝静まった部屋の中、その声は、小さいながらもしっかりと彼らの脳内に響いた。


『心して聞くが良い。

今度もまた、天帝が島に艦隊を派遣しようとしたら、お前達が必ず止めよ。

もしどうしても聞き入れない場合は、彼女を捕らえて島に送ること。

大丈夫だ。

何も国を新しく作り変えるつもりはない。

彼女にはこの島で1年の間修行させ、人の上に立つための、心構えや考え方を学ばせるつもりだ。

それが終われば、無事に国に帰そう。

その間のまつりごとは、彼女に代わり、お前達がやれ。

もし必要な指示があれば、その都度伝える。

以上の事をしかと守れよ?

従わない時には、国が滅ぶと心得よ』


翌朝、目を覚ました男達の枕元に、1枚の紙が置いてある。


そこにはこう書かれてあった。


努努ゆめゆめ、疑う事なかれ』


4人は真っ青になり、皇宮に出仕するや否や、先ずお互いに連絡を取る。


そして、皆同じ言葉を聞いた事を確認し合うと、今度は内密に軍の将軍達を呼び集めた。


彼らにとって都合が良い事に、天帝を盲目的に支持し、自分達の話に耳を傾けなかった将軍達は先の戦いで戦死するか二度目の討伐隊を指揮しており、この場には、神との戦に反対する者や、消極的で、真に国の未来を考える者達ばかりが集まっていた。


志野に命を助けられた男も、失われた将軍職の補充としてその地位に就き、その場にいた。


いつもは飄々ひょうひょうとして、あまり己の心中を他人に見せない側近連中が、何時になく真面目な顔をして話し出したその内容に、場が一時騒然となるが、聞かされた彼らにも、神を信じるだけの理由があり、程無くその支持を取り付ける事ができた。


彼らが信じるだけの、その理由とは・・。


先の戦いで、送り出した兵の内の100人近くが、突然兵舎に戻って来た。


まるで転移してきたかのように、いきなりその場に現れたのだ。


それに驚いた自分達の部下が彼らから話を聴くと、戦いになる直前に蒼い風が吹き、それに包まれるようにしてここまで帰って来たという。


俄かには信じ難かったが、実はこの場に来る少し前にも、部下達から再度、同様の報告を受けていた。


戻って来た人員は、前回と全く同じ人物と、新たに加えた内の何割かだ。


よって、二度目の討伐結果も、薄々分ってはいた。



 「どうしたのじゃ?

顔色が悪いようじゃが、・・まさかまた、負けたと申すのか?」


いつもよりかなり遅い時間に自分の許にやって来た側近達の、その顔色が皆一様に悪い事に、白雪が怪訝な表情で尋ねる。


呼んだ覚えのない将軍達が数名、彼らの後ろに控えている事も気にかかる。


「恐れながら、今回もほぼ全滅致しました。

戻って来れたのは、僅かに3隻のみ。

それさえも、敵の温情によるものです。

残りの船は、皆残骸となって、前回と同じ場所に打ち捨てられておりました。

・・此度こたびの戦における被害は、これで艦船26隻、兵の死亡が約500人、負傷兵はその何倍にも上ります。

敵に情けをかけられて、この数字なのです。

・・ご決断の時です。

今直ぐ戦を止め、島に和議を申し込む事を具申致します」


その場に居並ぶ全員が、その言葉と共に平伏する。


「・・・ならん。

ならん、ならん!

絶対に嫌じゃ!!

妾が紫桜に頭を下げるべきだと申すのか?

ふざけるでない!

妾はこの国の天帝なるぞ。

恐れ多くも神の子孫たる妾に、間違いなどない。

あってはならぬのじゃ!」


「・・どうあっても、戦を止めるおつもりはないと?」


「当たり前じゃ!

必ず攻め滅ぼしてくれるわ」


「・・では、致し方ありませんな」


平伏していた者達が、皆、ゆらりと立ち上がる。


側近達の後ろに控えていた将軍達が、ゆっくりと自分に近付いてくる。


「何じゃ?

無礼であろう。

無闇に妾に近付くでない!」


自分の言葉を無視して、近付く事を止めない者達に、恐怖を覚える白雪。


到頭その者達の腕が自分を捉え、玉座から引き摺り下ろされる。


「ええい、離せ。

離すのじゃ!

貴様ら一体誰に刃向かっているのか分っておるのか?

一族郎党とも極刑は免れぬぞ。

今ならまだ特別に許す。

だからさっさと離せ!」


「恐れながら、陛下にはこれから1年、あの島に行っていただきます。

そこで帝王学を学び直され、真にこの国の天帝として相応しいお方になられた時、またここへお戻りになれるでしょう。

それまでどうかお達者で。

我ら一同、陛下のお帰りを、心よりお待ち致しております」


「妾があの島に?

・・嫌じゃ。

絶対に嫌じゃ!

妾は穢れとうなどない。

誰か助けてたもれ!

嫌じゃーっ!」


広大な皇宮に響く白雪の声が、次第に遠ざかっていく。


「・・これで良かったのでしょうか?」


側近の1人がそう洩らす。


「国が滅ぶと言われれば、従う他あるまい。

我らは陛下を信じて、お留守の間のこの国を、しっかりと守っていかねばならぬ。

陛下、どうかご無事で・・」


側近達は、既に見えなくなったその背に向かって、静かにこうべを垂れるのであった。



 「着きましたぞ。

船を降りて下され」


港近くに停泊した軍船から移動用の小船に移され、正門前の岸に着いた白雪。


将軍の1人に付き添われ、どうにかここまで辿り着いたが、2日前とは異なり、その顔にはまるで生気がなく、虚ろな表情で項垂うなだれたままだ。


「・・まるで妾が罪人のようよな。

天帝ともあろう者が、随分と落ちぶれたものよ」


どうにか小船から立ち上がり、よろよろと浜辺に降り立つ白雪。


島の正門に到着した2人を、源とあやめが出迎える。


「お役目ご苦労。

ここからは、我らが預かろう」


源が、白雪にではなく、将軍にそう声をかける。


「宜しくお頼み申します」


本国の将軍とは思えないほど、深く頭を下げてそう告げる男。


正式な和議はまだ結んでいないが、既に決着がついている戦いの勝者が与えた温情に、最大の敬意で応えようとしている。


本来なら、殺されても文句は言えないのだ。


ましてや、自分達が仕掛けた戦なら、尚更なおさらである。


「心配せずとも、無闇に虐げたりはしません。

天帝としての身分は隠して過ごさせるので、それなりの扱いにはなりますがね」


あやめが男にそう伝える。


「それからこれを、陛下の側近の方々からお預かりして参りました。

今回のご迷惑料として、紫桜様にお納めいただきたいとの事です」


そう言いながら、男は、老舗しにせの和菓子屋の名前が入った、大きめの木箱を差し出す。


それを受け取ったあやめは、その重さに思わず眉をしかめた。


「・・分りました。

必ずお渡し致しましょう」


「宜しくお願い致します。

・・では、私はこれにて」


将軍が、1人で船へと帰って行く。


それを目で追いながら、それまでの遣り取りを黙って聞いていた白雪が、ぽつりと洩らす。


「妾をどうするつもりじゃ?

慰み者にでもするつもりかえ?」


「ガキがナマ言ってんじゃねえ!

おめえなんかじゃ起たねえよ!

・・痛てっ」


「言葉に気をつけな。

それが女性にとって、どんなに酷い意味を持つのか、ちゃんと分って言ってるのかい?

本当に死ぬより、心を殺される事の方が、その何倍も辛い事だってあるんだよ?」


源の頭を叩いたあやめが、白雪の目を見て、一言一言いちごんいちごん、その胸に刻みつけるように言ってくる。


「・・い、今のは、妾の失言であった」


『へえ、言われているほど、悪いではないようだね』


「そんなに怯えなくても大丈夫だよ。

あんたには、ここで下働きでもして貰うさ。

とりあえず、屋敷まで行くよ。

紫桜様がお待ちかねだからね」


「妾を雑用に使うつもりか?

妾は天帝なるぞ!」


「ここでのあんたは、只の使用人さ」


白雪の精一杯の強がりを軽くなして、屋敷まで連れて行く。


「先ずは着替えないとね。

そのなりじゃ、色々と都合が悪いからさ」


屋敷に入るなり、別室で着替えを余儀なくされる白雪。


「これを着な」


渡された着物を見て、首をかしげる彼女。


「どうやって着るのじゃ?」


今まで、全ての着替えをお付の女官にして貰っていた彼女には、普通の和服すら着ることができない。


「はあーっ。

そこからかい」


あやめは、その前途多難な状況に、深い溜息を吐くのであった。



 「紫桜様がお見えになります。

頭をお下げなさい」


「何故じゃ?

妾は天帝なるぞ。

妾の方が格上であろう。

・・痛っ」


パアンという派手な音をたてて、白雪の頭が叩かれる。


「な、何をするか。

妾に手を上げるなど、言語道断。

お母様にすら、叩かれた事はないのだぞ?」


「言って分らないのなら、その身体に教え込むまで。

ここでの貴女は、只の使用人です。

それにこれはハリセンといって、新人教育用に使われる事もある、とある世界の公式用具だそうです。

紙でできているので、その派手な音ほど痛くはないはずです」


志野が真面目な顔をしてそう告げる。


「早く頭をお下げなさい。

もう2、3発欲しいのですか?」


その言葉に、渋々頭を下げる白雪。


「く、屈辱じゃ。

妾が頭を下げるなど、何たる屈辱じゃ」


パアン。


頭を下げながらぶつぶつ呟く白雪に、もう1発ハリセンが飛ぶ。


「黙りなさい」


「くっ」


屈辱を噛み締めている白雪に、涼しげな声がかかる。


「人の上に立つ者ほど、他人に頭を下げる事の重要性を覚えておいた方が良いわよ。

・・随分お久し振りね。

頭をお上げなさいな」


紫桜が謁見の間に入ってくる。


「貴様!

よくも・・・」


積年の妬みのはけ口を求めて、その口が暴言を吐こうとするが、彼女のあまりの美しさに、しばし言葉を忘れて魅入る白雪。


『・・何じゃこれは。

こやつは本当に人か?

・・美し過ぎる。

いや、最早そのような段階はうに過ぎておるわ。

これは人が生み出せるような美しさではない。

魔物だ。

紫桜という名の魔物がる』


「どうしたの?」


自分の顔を見たまま黙ってしまった彼女に、不思議そうに尋ねる紫桜。


「・・そちは本当に『人』かえ?」


「あら、中々鋭いわね。

でも答えはノーコメントよ」


自分の美しさを人外だと言っている相手と、和也の眷属として人から外れた事を言っている彼女とでは、その本質的な所で、会話が嚙み合っていない。


「ノーコメントとは何じゃ?」


「フフッ、都合が悪い事は言いたくないという意味らしいから、貴女のような立場の人は、覚えておくと何かと便利よ」


艶やかに笑う紫桜に、つい見蕩みとれそうになって、慌てて頭を振る白雪。


そして彼女が着ている大振袖に気が付く。


艶のある漆黒の生地に、艶やかな朱色の鳳凰が映える極上の品。


天帝である自分でさえ、ここまで素晴らしい着物は持っていない。


「その着物、何処で手に入れたのじゃ?」


「旦那様から頂いたのよ。

素敵でしょう?」


嬉しそうにそう言う、彼女のその言葉に、大事な事を思い出す。


「そうじゃ!

そちは神と結婚したと聞いたが、誠なのか?」


「ええ。

本当よ」


「その神とやらを、妾に会わせるが良い」


「・・何故?」


「そなたの夫となれば、妾にとっても親族となる。

顔を拝んでおく必要があろう」


「嫌よ」


「何?

何故じゃ?」


「下手に会わせて、貴女が彼に惚れでもしたら面倒だもの」


「・・何を申しておる。

妾が男なぞに惚れるはずがなかろう」


「わたくしだって、彼に会うまでは、ずっとそう思っていたわ」


紫桜が白雪を見る目が、まるで恋敵を見るかのように狭められている。


「コホン。

姫様、お話が大分脇に逸れております」


志野がわざとらしい咳をして、注意を促す。


「・・そうね。

御免なさい」


普段冷静な彼女も、和也がらみの事では、ついむきになってしまう。


「最初にこちらから、この島で暮らす上での注意点を言うから、聞きたい事があれば、その後にお願いね。

・・先ず、貴女が天帝である事は、島の皆には内緒です。

その事を知っているのは、わたくしと、ここに居る者を含めた精鋭の6人だけ。

他の者には、たとえ精鋭の家族であっても、秘密にしておきます。

貴女が始めた事ではありませんが、罪を犯した者はともかく、その家族まで、『穢れし者』として島送りにされるのですから、この島にも当然、その事を恨んでいる者が居るでしょう。

和也さんのお陰で、この島では故意に人を害する事はできませんが、念のため、隠しておきます。

島で使用人として働く姿を皆に見られる貴女にも、その方が良いでしょう?

それと、住む家は、ここの離れを貸してあげます。

あまり広くはありませんが、その分掃除も楽ですから。

お風呂は、外の共同浴場を使いなさい」


「なっ・・」


パアン。


何か文句を言おうとした白雪の頭に、志野のハリセンが飛ぶ。


「・・凄い音ね。

頭大丈夫?」


「わ、妾を愚弄するでない」


右手を頭に当て、涙目でそう言う白雪。


「中身ではなく、単に外側の状態を聞いたのだけどね」


苦笑いする紫桜。


「他には、下働きとしてのお給料は払いません。

これはお仕事ではなく、貴女への、罰と修行のためですからね。

・・あ、ご飯は3食、お腹一杯食べてね。

3杯目だからといって、そっとお茶碗を差し出す必要はないのよ、フフフッ。

お休みは、週に1日だけあげる。

・・そんな所かしらね。

何か聞きたい事ある?」


「妾に、下々の者と一緒に風呂に入れと申すか?」


「ええ、そうよ。

ちゃんと男女別だから安心して」


「この高貴な身体が、『穢れる』ではないか」


「・・そう思うなら、別に入らなくても良いのよ?

ただその場合は、あまり皆に近付かないで頂戴ね。

夏は特に、臭うから」


「き・さ・ま~っ!」


歯噛みして、うなり声をあげる白雪。


「聞きたい事はそれだけ?」


「和也とは誰じゃ?」


「わたくしの旦那様」


「妾は何時帰れる?」


「とりあえず1年は居て貰うつもりだけど、それも和也さん次第ね」


「妾が留守の間、本国は本当に大丈夫なのかえ?」


「ええ。

それも和也さんが責任を持って対処して下さいます。

・・もうないわね?

それじゃあ、あやめさん、志野さん、あとは宜しくね」


「はい」


「畏まりました」


こうして白雪の、島での1年生活が始まったのだった。



 「お待たせ」


自室に戻った紫桜は、窓辺で空を眺めている和也に向かい、そう声をかける。


「どうだった?」


「考えていたほど、悪い娘ではないみたい。

ただ、ちょっと世間知らずで、苦労をしてこなかったというだけだと思うわ」


「そうか。

・・悪いが少し出かけてくる。

2日くらいで戻るから、それまでここで待っていてくれ」


「良いけど・・もしかして、他の奥さん達の所?」


「ああ。

ちょっと顔を出してくる。

お前の事も、話さなくてはならないし」


「・・直ぐ行かなくては駄目なの?」


「いや、急ぐ必要はないが・・何故服を脱いでいる?」


「だって心配なんですもの。

他の人の所に行ってしまったら、わたくしの事なんて、忘れてしまうのではないかって。

だから、せめてわたくしの匂いを付けて、他の奥さん達に自己主張させて貰うわ」


「そんな事を気にする必要はない。

彼女達は、自分が複数の妻を持つ事に賛成してくれているし、会えば分るが、皆其々に素晴らしい女性達だ。

何れ会わせるが、きっとお前とも仲良くやっていけるだろう」


「・・そう。

でも、今はまだ駄目。

気持ちが納得してくれないの。

だから、少しだけでも・・相手をして下さいませんか?」


この1か月足らずで、かなり密度の濃い時間を共に過ごしてきたせいか、寂しそうに目線を逸らしてそう言ってくる。


彼女にそんな表情をされて、断れる和也ではなかった。



 (同時刻、和也の居城にて)


「あら?」


エレナと共に、広大な居城の中を散策する事を日課の1つとしていたエリカは、数日振りに訪れた謁見の間に、新しい椅子が増えているのに気が付いた。


淡いピンク色の椅子。


その背もたれには、桜の花びらが刻んである。


「まあ!

旦那様に新しい妻ができたのですね。

お会いするのが楽しみだわ」


いやみではなく、本当に嬉しそうにそう口にするエリカ。


「・・エリカ様は、ご主人様に妻が増え続けても、お気になさらないのですか?」


エレナが、何かを含んでいるような物言いをする。


その表情にも、少し不満そうな彼女の心中が表われている。


「貴女の言いたい事は、何となく分るわ。

でもね、その事で彼に文句を言っては駄目よ」


「何故ですか?

女性なら、いいえ、誰でも、好きな人を独占したいと思うのは、普通の事ではないのですか?」


まるで、自身のエリカに対する想いを肯定して欲しいかのように、その言葉に力が籠る。


「貴女は罪を償った後、旦那様のメイド長として、ここに仕えるのでしょう?

あの方を、疑ったり、悪く言ってはいけないわ」


「私だって、大恩あるご主人様を、エリカ様と同じくらい大切に思っております。

ですが、エリカ様を悲しませる事に対してだけは、文句くらいは言いたいです」


「わたくしは、悲しんでなんかおりません。

彼の周りに素敵な人が増えていくのを、心から喜んでいます。

・・良い機会です。

少し話をしましょう」


エリカは和也の玉座の隣に移動し、その背もたれを愛しげに撫でながら、言葉を紡ぐ。


「わたくしは、この世界が和也さんの為だけに生み出した、彼専属の『癒しの器』。

彼のする事、彼の表情、彼の声色、その全てがわたくしの琴線に触れ、魂を激しく振るわせる。

凄く極端な話をすれば、わたくしには、彼以外どうでも良いの。

彼がいなければ、世界の全てが色褪いろあせ、その存在に意味などなくなる。

お母様やお父様、エレナ、貴女でさえも、彼が居てこそ、大切だと思えるの」


「そんな・・だって、あの方にお会いする前は、普通にお暮らしになられていたじゃありませんか。

ご主人様の事を、ずっと待ち焦がれていた訳ではないでしょう?」


エリカの口から語られる、その衝撃的な内容に、愕然がくぜんとするエレナ。


「そうね。

ここまでになってしまったのは、旦那様にお会いしてからね。

でも、初めからその兆しはあったでしょう?

決して国から外へ出ず、他の誰にも心惹かれる事なく、異性に対する興味など、まるで持てなかった」


言われてみれば、確かにその通りだ。


そんなエリカ様が、僅か数日でご主人様とあんなご関係になられた事に、あの時は気が動転し過ぎて気付かなかったが。


「これはまだわたくしの想像でしかないけど、きっとね、多くの世界に、”あの人の為にだけ”、存在する誰かが居るような気がするの。

その封印が解かれるのを、無意識に待ち望んでいる誰かが。

その時代に巡り会えなければ、何度でも転生を繰り返し、病や老いに命を散らしていきながら、彼を待ち続ける誰かが」


エレナは、その果てしなく、壮絶な輪廻を思い描いて身震いする。


「ですがそれでは、エリカ様がご主人様を愛する事は、初めから決まっていたという事になります。

エリカ様は、・・それで宜しいのですか?」


人生を共にする伴侶を、自らの意志で選べない悲劇。


それはとても辛い事ではないか。


彼女の目が、そう告げている。


「人の心は、とても不思議なものだわ。

どんなに長く、どれほど激しく愛し合ってきても、ほんの些細なきっかけ1つで、想いが冷めてしまう事もある。

その始まりがどうであれ、芽生えた気持ちをどのように育てていくかはわたくし次第。

わたくしだって、機械ではないのよ?

もし本当にわたくしが嫌だと感じたり、不快に思ったりした相手なら、こんなに激しい想いは抱けない。

彼の何もかもを無条件に肯定するようなわたくしであったなら、貴女から見ても、然程さほど魅力的には映らないのではなくて?」


「・・エリカ様は、ご主人様の何処に、それ程までに惹かれているのですか?

そのお力ですか?

それとも容姿なのですか?」


「全てよ。

悪戯のしがいのある所、わたくしに甘えてくれる所、時折見せる鋭い眼差し、果てしなく優しいその心。

その手で触れられ、その声で囁かれ、その腕に抱き締められただけで、もう何も考えられないわ。

だから今、とっても幸せなの」


「・・・。

分りました。

エリカ様がお幸せなら、私に異存はございません。

ご主人様には、何人でも妻を娶っていただきましょう」


「貴女だって、・・良いのよ?」


「お戯れを。

私はご主人様にお仕えできるだけで、十分幸せですから」


「フフフッ、もしそうなりたかったら、相談に乗るわよ?」


「エリカ様!」


「お茶が飲みたいわ。

沢山喋ったから、喉がカラカラよ。

お願いしても良い?」


「はい、勿論でございます。

食堂へ参りましょう。

美味しいお菓子もご用意致します」


「有り難う。

勿論、貴女もご一緒に、ね?」


「はい!」



 「随分久し振りの気がするな」


たった1人で過ごしていた頃は、時間など、有って無きが如しであったが、人と接するようになり、無意識に、彼らの感覚に合わせているせいかもしれない。


「お帰りなさいませ」


謁見の間に転移した和也を、エレナが出迎える。


「ああ、ただいま。

自分が戻るのがよく分ったな?」


待ち構えていたような彼女に、少し驚く和也。


「そろそろお戻りになる頃だと思っておりましたので、暇な時間はいつもこちらで待機致しておりました」


「・・そこまでしなくても良いぞ。

エリカはどうした?」


「今はお昼寝の最中でございます」


「そうか」


『自分が島を出たのは、既に夕方近かったが、こことは時間の流れが大分違うからな』


「とりあえず、ご入浴なされては如何ですか?」


エレナが自分に近付いて来て、そんな事を言ってくる。


「ん?

そんなに汚れてなどいないはずだが」


「エリカ様とは別の、女性の匂いが致します」


「!!」


「新しいお后をお迎えになられたようですね。

結構な事ですが、女性は、他の女の匂いには敏感でございますよ?」


エレナが表情を変えずにそう告げる。


「・・分った。

これからは気を付けよう」


内心の動揺を隠しながら、足早に浴場へと向かう和也。


最近は和風ばかりだったから、敢えてローマ風呂の方に入って行く。


広い浴場で、湯に浸かる前にかけ湯をして、身体を洗おうとした将にその時、その背後で扉が開く音がした。


「失礼致します」


振り向いた和也の視線の先に、身体を洗う、小さなタオルを手にしただけの、全裸のエレナが立っていた。


「・・何をしているのだ?」


自分の身体を洗いに来たであろう事は、何と無く理解できるが、一体何故彼女がそうしようとしたのかが分らない。


「お身体を洗いに参りました」


「それは理解できるが、何故そうしに来たのかが分らない。

エリカに頼まれているのか?」


「いいえ。

私自身の意思でございます」


そう言いながら、こちらに近付いて来て、手にしたタオルに石鹸を泡立て始める。


それが終わると、和也の背後に回り、そっと左手を和也の肩に添え、右手で静かに背中を洗い始めた。


代謝機能がないので、身体を擦る事にはあまり意味がないが、一種の様式美である。


「ご主人様」


手の動きを止めずに、エレナが聞いてくる。


「何だ?」


「ご主人様は、お后様達の中で、どなたが1番お好きなのですか?」


「彼女達に順位を付けるのは失礼だ。

自分は、妻になってくれた皆に感謝しているし、同じように愛してもいる。

男女の関係が多様化した世界もあるから、『男だから』とか『女のくせに』などと言うつもりは毛頭無いが、彼女達の為に、自分はその力を惜しまない。

1人が多くの女性を娶る以上、個別に割く事のできる時間は確かに減るが、互いに時間に制限のない身故、補える事も多いと信じる。

・・いや、正直に言うと、エリカだけは、自分にとって少し他の者とは違うかな」


エレナの手が、和也の腕を取り、同様に洗い始める。


「お前があいつの味方だから言う訳ではないが、エリカだけは特別だ。

あいつだけには、自分と離れる権利を与えない。

できればそんな事はしたくはないが、もしあいつが自分に愛想を尽かして、自分から離れようとしたら、力を使ってでも、彼女の心を繋ぎ止めてしまうかもしれない。

それがどんなに酷い事かは分っているが、それを抑える自信がない。

口ではいつも、大層な事ばかり言ってはいても、自分なんて、所詮はその程度でしかないのだ」


言ってて情けなくなったのか、苦笑いしながら下を向く和也。


「ご主人様はハーレムをお望みなのでしょうか?」


何時の間にか前に回ってきていたエレナが、和也の胸にタオルを当ててくる。


「信じて貰えぬかもしれないが、意識的にそうしている訳ではない。

ただ、妻は1人だからと固執して、それまで培ってきた相手との関係を、真摯にその想いを伝えてくれたにも拘らず、無に帰すような真似をするのは胸が痛む故、できればしたくはない。

だからといって、勿論、来る者拒まずという訳でもないがな」


「・・お子は、どうなされるのですか?」


エレナが和也の両足を洗い始める。


「エリカと以前に話し合った事もあるが、当分の間、少なくとも数億年程度は考えていない。

妻達の中に、仮に欲しい者がいるとしたなら申し訳ないが、彼女達から与えて貰える愛情だけで十分に幸せを感じるのでな」


その時、背後にまた人の気配を感じる。


「お帰りになっていらしたのですね。

わたくしも呼んで下されば宜しいのに」


全裸のエリカが、タオルで胸元を押さえながら入ってくる。


「昼寝の最中だと聞いたのでな。

退屈していなかったか?」


「はい。

エレナと2人、とても楽しい時間を過ごしていましたわ」


エレナが和也の髪を洗い始める。


エリカはそれを微笑みながら見つめた後、かけ湯をして、一足先に浴槽に身体を沈める。


「先に伝えておかねばならない事がある。

また新たな妻を娶る事になった。

何れお前にも会わせるが、名を紫桜という」


シャンプーが目に入らぬよう、目を閉じながらそう伝える和也。


「どんな方かしら。

お会いするのが楽しみだわ」


「それから、この星の他にも、あちらの世界で自分の島を持つ事にもなった。

温泉保養地にするつもりだから、お前達も楽しむと良い。

それで、その準備も兼ねて、もう少しだけあちらの島に居るつもりだ。

お前達には申し訳ないが、今暫く、ここで過ごしていてくれ。

エレナも頼む」


「はい。

この世界は大き過ぎて、まだまだ全然、探検できていませんわ。

わたくしたちの事はお気になさらずに、やるべき事をなさって下さい」


「畏まりました」


エレナが返事をしながら、仕上げに和也の身体全体に湯をかけていく。


「エリカ様、お待たせ致しました。

こちらへどうぞ」


浴槽に入って行く和也を見送ると、今度はエリカにそう声をかけるエレナ。


「わたくしは、朝にシャワーを浴びたから、今は良いわ」


「いけません。

これからご主人様にかわいがっていただくのですから、隅々まで磨き上げませんと」


「いや、今日はそのつもりはないのだが・・」


「ご主人様、妻を何人お娶りになられても結構ですが、その代わり、妻の方々には、皆等しくご寵愛を授けるべきでございます。

それが、男の甲斐性というものでございますれば」


「・・自分がエリカを抱いている間、お前はどうしているのだ?」


「勿論、お隣のお部屋で控えております」


「音は遮断できても、さすがにそれは・・」


「わたくしも、エレナに聞かれていると思うと、少し恥ずかしいわ。

・・どうせなら、一緒に旦那様に愛して貰う?」


エリカがエレナをからかうように言う。


「い、いえ、ご遠慮致します。

私などが、エリカ様とご一緒になどと、そんな恐れ多い事」


「じゃあ、今日は他の事を致しましょう。

旦那様には、この星のお勧めポイントなどを案内して貰うなんてどうかしら?

3人で、お散歩でもしましょうよ」


エリカが、真っ赤になって俯くエレナにそう声をかける。


「分りました。

腕によりをかけて、お弁当の準備を致します」


そう言って、恥ずかしさを隠すかのように、己の身体を洗い始めるエレナ。


そんな光景を笑顔と共に見つめながら、エリカが和也の耳元で囁く。


「わたくしになら、気を遣う必要はありませんよ。

たとえ他の女性の香りを纏っていたとしても、怒ったりしませんから」


「!!」


内心の動揺をひた隠しにして、今日は徹底的にエリカ達を接待しようと心に誓う和也であった。



 「ふう。

下々の仕事というのは、結構しんどいの」


その日の仕事を漸く終えた白雪は、与えられた自室で一息吐く。


晩秋とはいえ、慣れない仕事に精を出し、半日も動き続けた身体は汗だくで、風呂に入らずにはいられない。


『穢れし者』共と一緒に入るなどぞっとするが、背に腹は替えられぬ。


着替えを持ち、教えられた道を、てくてく歩く。


川沿いに見えてきた共同浴場は思っていたよりずっと奇麗で、更衣室の中に入ると、広々とした空間に、真新しい棚と籠が並び、小さな洗面台の横には、女性が身だしなみを整えるための、櫛や鏡が備え付けられていた。


「ほう?

無用心ではあるが、中々に奇麗ではあるの。

更衣室の扉が無施錠なのが気になるが、こういう場所では致し方ない」


因みに、和也により、女湯の扉は女性しか開けられないように魔法が掛かっている。


着替えを籠の1つに入れ、ゆっくり服を脱いでいく。


年の頃は17。


毎日、女官達によって磨き抜かれてきた肌には、シミ1つないが、胸の膨らみが少し慎ましいのが、本人としては悩みの種だ。


手ぬぐいと石鹸を手に、浴場への扉を開ける。


「おお!」


目の前に広がる絶景に、手ぬぐいで身体を隠す事も忘れて見入る。


夕焼けが川沿いの木々を優しく照らし、その美しい紅葉をより引き立てている。


澄んだ水が流れる川のせせらぎは耳に心地良く、火照った身体に気持ちの良い風が、時折吹き抜けて行く。


地中から延々と湧き出る源泉はちょうど良い温度に保たれ、溢れたお湯が、洗い場の底石を常に清潔に保っている。


「どうしたの?

入らないの?」


不意に声をかけられ、一瞬身体を硬直させる白雪。


慌てて周囲を見回すと、20人程度が入れそうな湯船の端に、小さな女の子が浸かっていた。


自分の事を興味深げに眺めてくる。


彼女はその不躾な視線に耐えられず、慌しくかけ湯を繰り返し、少女とは反対側の、湯船の端に腰を下ろす。


すると、あろう事か、その少女がこちらに近付いて来た。


「あまり近くに寄るでない!」


白雪が不快げに少女を牽制する。


「・・どうして?」


少女が驚いたように尋ねてくる。


「『穢れ』が移るではないか」


「!!

・・私、穢れてなんかないよ?」


「嘘を吐け。

この島の住人であるなら、罪人の家族であろう。

その身には、『穢れた血』が流れておるのだ」


「そんな事ないよ。

御剣様がそう言ってくれたもん。

他の人と何も変わらないって」


「・・そやつは嘘を吐いたのじゃ。

お前を悲しませないようにな」


不意に、少女が下を向く。


「悪い事をした人は、皆悪い人なの?」


「何を当たり前の事を。

その通りじゃ」


「でもお父さんは、私とお母さんの為に、ご飯を取ってきてくれたんだよ?

それがなかったら、私、死んじゃってたかもしれないんだよ?

自分の為に取ってきたんじゃないのに、それでも悪い人なの?」


「きちんと働いて、真っ当な生活をしていれば、そこまで金に困りはせん。

普段怠けているから、そうなるのだ」


少女が顔を上げる。


その目に強い意思を宿して。


「お父さんは怠け者なんかじゃないよ!

毎日毎日、晴れの日は一生懸命畑を耕して、雨の日はお母さんと一緒にわらじを作って、必死に働いてたもん!」


「なら何故そこまで貧乏なのじゃ?

そんなに働いておるのなら、少しくらいは金も貯まるはずであろう?」


「お役人が、半分以上持って行ってしまうんだよ。

お父さん、いつも言ってたもん。

こんなに取られたら、食べていくのにも精一杯だって」


「そんな訳なかろう。

国の法律で、税は3分の1が最高だと決まっておる」


「嘘じゃないもん。

だからあの時だって、食べる物がなかったんだから!」


何かを思い出しているように、少女の目に涙が滲む。


その迫力に少したじろぎながらも、白雪はどうにか言い返す。


「たとえそうであったとしても、盗みは犯罪じゃ。

故に、お前の父親は悪い人間、『穢れし者』よ」


「・・それは、私とお母さんは、あの時死んでしまった方が良かったっていうこと?

何も悪い事してないのに、貧しい人は、生きていたら駄目なの?

お国の偉い人達は、毎日お腹一杯ご飯を食べられるのに、私たちは、一生懸命働いても、1日に一度しかご飯を食べてはいけないの?」


堪えていた涙が溢れ出し、それでも手を強く握って、父親の名誉のために戦う少女。


白雪は、到頭その迫力に押され、逃げるように浴場を出る。


大急ぎで服を着て、屋敷への道をひた走る。


身体も、髪さえまだ洗ってなかったが、自分の中に生まれつつある疑惑から逃げるように、夢中で走り続けた。


屋敷に着いて、自分の部屋に引き籠もろうとした彼女を、和也と離れて、独りで居た紫桜が見咎める。


「・・どうしたの?

お風呂に行ってきたにしては、酷い恰好ね。

髪もぼさぼさよ?」


「妾に構うでない」


「・・今日は特別に、わたくしの露天風呂を使わせてあげる。

旦那様もいない事だし、一緒に入りましょう」


「はあ?

こら、手を離せ。

妾は独りになりたいのじゃ」


「良いから来なさい。

島主の妻の命令よ」


人を超えた力を持つ紫桜に、有無を言わさず、露天風呂まで引っ張っていかれる。


ちゃんと身体を洗いたかった事もあり、渋々服を脱ぎ始める白雪。


何気なく、隣で服を脱いでいる紫桜に目がいった。


「な、何じゃそれは!」


「急に何よ。

そんな大声を出して、びっくりするじゃない」


「その乳じゃ!

何でそんなに大きいのじゃ。

おかしいではないか!」


「・・失礼ね。

確かに普通の人より大きいとは思うけど、そこまで驚く程のもの?」


「当たり前じゃ。

そんなものを見せられて、驚かぬ奴などおらんわ!」


「旦那様は驚かなかったわよ?

よく視線を感じはしたけれど」


「そやつはおかしいのじゃ。

男でこの乳に反応しないなど、最早枯れておるのではないか?

・・痛っ」


「わたくしの旦那様を侮辱したら怒るわよ?

それに、そんな事全然ないし」


白雪の頭を軽く叩いて、浴場へと案内する。


「おお、こちらも風情があって良いの」


「でしょう?

旦那様との、思い出の場所なのよ」


「・・もしや、2人で入っておったのか?

・・破廉恥じゃ。

破廉恥なのじゃ!」


紫桜の反応に、顔を真っ赤にして叫ぶ白雪。


「夫婦なのだから、別に良いでしょ」


「そうなる前から一緒に入っておったのであろうが!

・・だから、そのようないやらしい身体になるのじゃ」


赤い顔をしたまま、湯船に入らず、身体を洗い始める白雪。


紫桜は、かけ湯をして、先に湯船に入り、座って彼女を見つめる。


「・・それで、何があったの?」


その言葉の響きが思いのほか優しく、先程からの会話で、適度に緊張の解れた白雪は、自分の心の迷いを、つい、口に出してしまう。


「・・妾は、間違っておるのか?」


「何を?」


「妾は、おばあ様やお母様の事を、誇りに思っておる。

天帝として、雪月花を治めてこられたお二人が作られた制度に、間違いなどないと考えておった。

故に、罪人の家族を『穢れし者』としてこの島に送る事にも、何の躊躇ためらいも感じなかった」


かけ流しの湯が流れ落ちる音に、何処からか聞こえる虫の音が加わり、顔を出し始めた月が、2人を静かに照らし始める。


「じゃが先程、小さな女子おなごに言われたのじゃ。

『何も悪い事をしてないのに、貧しい人は、生きていたら駄目なの?』と。

正直、妾は、この国は、あ、いや、雪月花は、貧しい国ではないと思っておった。

日に一度しか飯を食えぬ者がいるなど、考えもしなかった。

役人は、皆きちんと法を守って働いているのだと、そう信じておった。

一生懸命働いても、収穫した分の半分も残らないとは、思いもしなかったのじゃ!

・・妾がお母様を大切に想うのと同様に、下々の者達にも、其々に大切な者がおろう。

その者達が飢えて苦しんでいる時、盗みを働いてまで助けたいと思う事は、正しいとは言わぬが、間違っているとも思えぬのだ。

死なせてしまうくらいなら、たとえ罪を犯してでも、助けたいと考える事は、それ程悪い事なのか?

それは、その者のせいではなく、そうせざるを得ない状況に追い込んだ、国のせいではないのか?

おばあ様がお作りになられた制度に、間違いはないと思いたいが、あの時の女子の言葉が、妾の胸に突き刺さって抜けぬのじゃ。

・・教えてたもれ。

妾は、間違っておるのか?」


心に浮かんだ言葉をそのまま口に出した事が恥ずかしいのか、下を向いて紡がれる言葉が、次第に小さくなっていく。


紫桜は、おもむろに湯船から出ると、彼女の背後に回り、その小さな背中をそっと包み込む。


「!!」


「じっとして」


怯えたように身体を竦ませ、もがこうとする白雪を、優しくさとす。


そして、その耳元で囁くように言う。


「祖母や母親を大切に思い、その意思を尊重しようとする貴女の考えは、間違ってはいないわ。

でもね、貴女が人の上に立つ存在であるならば、正しいとも言えないの。

その言葉や行動が、他人の命を奪い、生活を変えてしまう程の影響を与える立場にあるなら、闇雲に親の言う事を信じては駄目なの。

時代と共に、人の考えや暮らしは変わっていき、過去に正しかったものも、今では不正だと見做される事もある。

十分だと思えた環境も、ふと周りを見回せば、それでは満足できない事も多い。

指導者に必要な素質は、時の流れに臨機応変に対応できる心の柔軟性と、己の間違いを認められる謙虚さだと、わたくしは思う。

人間だもの、道に迷い、判断を誤る事もあるわ。

その時は、周りの声に、耳を傾けてごらんなさい。

貴女の心が何て言っているか、よく聞いてみなさい。

・・貴女は決して悪い人じゃない。

無能な指導者でもない。

貴女を支えてくれる、皆の意見を聴いて、自分の心に素直になれば、たとえ今脇道に逸れていたとしても、やがて本当の道が見えてくるはずよ」


「・・そなたは妾を恨んではおらぬのか?

大分生活に苦労したであろう?

火狐共との戦いで、大切な者達を失ってきたであろう?

立場上、人を死に追いやる判断に、苦しんだであろう?」


そう言いながら、涙を流し続ける白雪に、そっと頬ずりする。


「別に恨んでなんかいないわ。

むしろ、お礼を言いたいくらいよ。

だってそれらの事が、旦那様をわたくしの許へと導いてくれたのだから」


「・・済まぬ。

本当に、済まなかった。

妾が・・間違っておった。

ううっ」


「・・そう。

そう思えたのね?

なら、これから頑張っていきましょう?

今の貴女なら、きっと良い国を作っていけると思うわよ」


肌寒く感じるはずの風が、何故か暖かく2人を通り過ぎ、泣き続ける白雪の身体に、紫桜とはまた別の温もりを与えていく。


「さ、頭を洗ってあげる。

旦那様に頂いた、とっても良い香りがするシャンプーがあるの。

良い子の白雪には、特別に使わせてあげる」


「・・子供扱いするでない」


「フフフッ、そうよね。

1つしか違わないものね」


それから暫く、2人だけの、穏やかな時間が過ぎていくのであった。



 「はい」


「何じゃこれは?」


風呂から出て、自分の部屋へと戻った白雪に、紫桜が1通の手紙らしき物を持ってくる。


「貴女の側近の方達から、わたくしに、”食べられない”お菓子と一緒に送ってきた物よ。

本当は隠しておいた方が良いのかもしれないけれど、今の貴女になら、見せても良いと思ったの。

貴女を心配する気持ちが、随所に溢れているわ。

良かったわね。

貴女、皆に愛されてるわよ」


それだけ言うと、紫桜は直ぐに立ち去る。


受け取った手紙を開く。


見覚えのある筆跡は、確かに彼らのものだ。


何枚かの紙に、自分をここに送った経緯や、その後の自分を心配する言葉がびっしり書いてある。


「そんなに心配しておったなら、普段から、もっとそれらしい素振りを見せぬか。

小言ばかり言いおるから、そなた達の気持ちに、今まで気付かなんだぞ」


手紙を箪笥たんすの引き出しに、大事そうに終う白雪。


その後、明日からの修行に向けて、早めに床に就く。


心温まる、幸せな、その余韻と共に。



 それから数年が過ぎた。


あれから、心を入れ替えて下働きに励んだ白雪は、直ぐに島の人気者になった。


あの少女とも、その後同じ風呂の中で再会し、気まずげにうつむく彼女に、自分の方から声をかけ、仲直りする。


忙しい仕事の傍ら、喜三郎の母から料理を学び、綾乃からは裁縫を教えて貰って、菊乃とは友達として、軽口が叩けるまでになる。


彼女が1年の修行を終え、雪月花に戻る際には、村人が盛大にお祝いをしてくれた。


国に戻り、側近や将軍達に平伏して迎えられた白雪は、皆にこれまでの事を詫び、今後も協力して国を豊かにしていこうと語りかける。


天帝として政に戻った彼女は、先ず真っ先に、罪人の家族まで罰する制度を改め、今まで『穢れし者』と蔑んでいた者達に、国を代表して謝罪する。


彼らの名誉を回復すると共に、役人達の間に横行していた不正を厳しく取り締まり、その任官や出世には、本人のやる気と能力以外、如何なる要素も不要とする規則を徹底させる。


また、皇宮全体を見直し、過度な贅沢や行き過ぎた儀式や儀礼を簡素化し、財政の健全化を図りながら、国民への税負担を軽くした。


かの島とは、正式に和議を結び、島の名を『神ヶ島』として、その独立を承認する。


和也によって、雅な温泉旅館が数軒建てられ、島の施設が整えられると、瞬く間に人気リゾートとなった神ヶ島に、偶の休みが手に入ると、嬉しそうに予約を入れる白雪である。


紫桜は、あれから数ヶ月後には島を離れ、和也と共に世界を渡り歩く旅路に就くが、その後も時々、和也や他の女性達と、領主屋敷を改築した『花月楼』に顔を出しては、思い出の露天風呂を楽しんでいる。


すっかり懐かれた白雪からは、『お姉様』と呼ばれ、『わたくしに”その気”はないわよ』と牽制しながらも、満更でもなさそうである。


春には麗らかな日差しが植物の新芽を育て、夏には適度な気温が人々の想いを育み、秋や冬には、滋味豊かな食材と美肌効果の温泉が、訪れる者達を優しく出迎える。


1年を通して笑いが溢れ、心安らかに過ごせるこの島は、その後大陸に住む者達の憧れとなり、一部の心卑しき者達には決して見つけられない事からも、幻の島として、末永く語り継がれるのであった。



 余談ではあるが、ここで、一部の者達のその後を少し紹介しておく。


「喜三郎、お前は雪月花で道場を再建するが良い」


「父上はどうされるのですか?」


「わしはこの地で妻とのんびり暮らすよ。

希望者がおれば、子供達に剣を教えても良い」


和也によって、無実の罪で鉱山送りになった補償として、その年数分の寿命を妻と共に延ばされ、更に、以後、肉体が衰える事なく、命尽きるまで足腰に不安を抱える事なく過ごした彼ら。


村の広場で子供達に剣術を教えた彼は、その習得において礼節を特に重んじた。


「武道としての剣は、礼に始まり礼に終わる。

剣を向ける相手への礼儀を忘れるでない。

心のやましさ、卑しさは、そのまま剣筋となって現れる。

剣と共に心を磨くのじゃ」



 「御免下さい」


「はい・・これはこれは。

本日は如何致しました?」


「大根を煮たのですが、沢山作り過ぎてしまって・・。

宜しければ、如何です?」


「これは嬉しい。

大根の煮物は、大好物なんです。

有難く頂きます。

あ、宜しければお礼にお菓子など如何です?

雪月花の船和から、美味しい芋羊羹を買ってきたのです。

お上がりになってゆかれませんか?」


「まあ!

では、遠慮なくご馳走になりますね」


白雪が国に戻り、和議が結ばれて国交が正常化すると直ぐに、1人の若い女性が島に移住してきた。


元役人であった、あの女性である。


その際、住居の選定から、新設された島の役所での仕事の紹介など、色々と世話を焼いて貰ったのが縁で、この女性は、影鞆と随分親しくなっていた。


元々、毎年彼が火狐と戦う姿を見てもいたので、顔馴染みでもあった分、話し易かったせいもある。


それまで、役人として上下関係に厳しい世界で働いてきたこの女性は、島の重鎮の1人でもあるのに、物腰が穏やかで、下の者にもきちんと気配りができる影鞆に、直ぐに好感を抱いた。


その後、お互いに何かと理由を見つけては、相手の家を訪れる関係が続いている。


影鞆の春は、もうそこまで来ていた。



 「いらっしゃいませ」


「やあ、今回もお世話になります」


和也が創造した数軒の温泉旅館の内、花月楼に次ぐ高級旅館として、各国の貴族や富裕層を相手にする旅館、『蒼風』。


その女将として、何人もの従業員を管理する志野。


その旅館には、開館当初から熱心な客がついた。


以前、海上の戦いで、志野に命を助けられた、あの将軍である。


彼は、白雪をこの島に連れてきた人物でもあった。


忍装束の上からしか見た事がなかった志野を、修行を終えた白雪を迎えに来た際に改めて彼女から紹介され、以後、長期の休みが取れると、足繁く宿に泊まっているのだが、志野からは、まだ常連客の1人としてしか見られていない。


武人として、女性へのアピールに不慣れなせいもあるが、志野自身が、あまり男性に興味を持っていないのも災いしている。


別に男嫌いという訳ではないが、どうやら他に、気になる者がいるようである。


旅館で働く従業員からは、『紫桜様が、旦那様を伴って島にお越しになられた際は、女将の機嫌がかなり良くなる』との専らの噂である。



 「どうして振り向いてくれないんだ。

こんなに何度も追いかけてるのに。

僕の何処がいけないというんだ。

君は僕だけのものだ。

他の奴に渡すくらいなら、いっそ・・」


「な~にしてるのかなぁ?」


「ひっ」


暗闇の中、いきなり背後からかけられた声に、男は手にしていた刃物を反射的に突き出す。


パリン。


「ひいっ」


男が突き出した刃物が、源がかざした2本の指に挟まれる。


彼がその指を軽くひねると、その刃物は、呆気なく折れた。


「駄目だよう、兄ちゃん。

彼女だって、自分の人生を楽しんでるんだ。

振り向いて貰えないからって、彼女の人生を台無しにする権利は、兄ちゃんにはないぜ?」


暗闇に溶け込むような、漆黒の忍装束を身に着け、左目に眼帯をした源が、諭すように言う。


「男ならな、背中で女を惚れさせな。

自らの生き様を、声なき言葉で語る、背中で勝負しな。

相手の気持ちを考えず、一方的に自分の気持ちを押し付けるだけじゃあ、女は振り向いてくれないぜ?」


折った刃物を男の前に放り投げ、立ち去ろうとする源。


「あ、そうそう、言っとくが、・・二度目はないぜ?」


その言葉と共に、素人でも分る程の、強烈な殺気がその男に向けられる。


片目だが、その眼光だけで男を射抜くような、凄まじい殺気の渦。


「あ、あああ」


尻餅をついた男が、言葉にならない声を上げ、生存本能だけで、頭をかくかく上下させる。


「さて、そんじゃ帰るか。

あんまり待たせると、また文句を言われそうだしな。

ガキが生まれてから、小言が増えていけねえよ」


買物でも頼まれたのか、小さな紙袋を手にしながら、そう言って闇に消えた源の顔は、明らかに嬉しそうであった。


後に残された男は、その後暫く動けなかった。


そして以後、邪心が生じそうになると、決まって源のあの”眼”が思い出され、男の邪な心を打ち砕いていく。


そうして男は、ゆっくりとではあるが、まともな道を歩んで行くのであった。



 和也は、白雪が修行で国を空けている間、源達精鋭に、ある役割を与えていた。


それは、雪月花の治安維持である。


彼らの神兵の能力に、雪月花領内と自らの島の全域を自由に転移できる機能を加え、その眼にも特殊な力を与える。


人として許す事のできない者は赤く光って見え、これから罪を犯しそうな者は光が点滅して見える。


その点滅の速度は、犯そうとする罪の程度により異なり、それが速ければ速いほど、重い罪を犯そうとしている事を教えていた。


温泉旅館の準備の傍ら、新たな仕事を押し付ける詫びとして、転移能力だけは、普段から自由に使えるようにしてある。


よって源のように、その往復に船で2日は掛かる雪月花の店までちょっと買い物に行くような時に、非常に重宝され、彼らにも好評であったので、治安維持の役目を終えた今でも、そのままにされていた。



 「菊乃、今晩7時に雪月花の皇宮前広場に集合じゃ!」


和也によって、精鋭が経営する3旅館には、魔法による映像通話が可能な設備が取り付けられ、そこと主要な場所とを繋ぐ事で、各旅館が予約を受け易いようになっている。


セレーニア王宮に先ず真っ先に繋げ、あちらにも送受信設備を設け、更に予約日当日になると、専用の転移魔方陣が現れ、移動時間のロスなく宿へと赴けるようにしてある。


エルクレール王宮(キーネルの即位後)、雪月花皇宮(白雪の復帰後)、それに自分の眷属になる権利を与えた者達の自宅(各自が和也よりリングを授けられ、島の旅館がオープンした後)には、同様の設備が何時の間にか設置され、そこにはこう張り紙がしてあったという。


『神ヶ島温泉新装オープン!

初回特典として、何と3割引!!

温泉の効能は、美肌効果と子宝に恵まれること、内臓疾患全般。

家族風呂もあるよ』


「もう、予約以外には使わないでと何度も言ってるじゃありませんか」


「仕方がなかろう。

緊急事態なのじゃ。

今夜、地方代官の屋敷で、贈収賄の不正が行われるとの投書があったのじゃ」


「それなら喜三郎さんがそちらに居るじゃありませんか。

彼だけでお釣りがくるでしょう?」


「天帝のお庭番は男女各1名ずつと相場が決まっておるのじゃ。

1人では恰好がつかないではないか」


「今日はセレーニアのお友達の方々から大事な予約が入ってて、仕事が終わったら、皆で御剣様ファンクラブの会合を開く予定なんですよ」


「大して時間は掛からん。

国の大事ぞ。

一体どちらが重要なのじゃ?」


「そんなの、ファンクラブの会合に決まってるじゃありませんか」


「貴様!

・・満岩堂の芋きん2箱」


「う、人の好物を出しに使うなんて・・。

分りました。

でも、直ぐに終わらせますよ?」


「分っておる」



 (2時間後、雪月花領内の、とある代官屋敷にて)


「お代官様、今月の分でございます。

どうぞお納め下さい」


「うむ」


菓子折りの箱を開け、中に入っている黄金色の食べられないお菓子を確認する代官。


「お代官様のお陰で、米の価格を吊り上げ放題でございますれば」


「〇〇屋、おぬしも悪よのう」


「恐れながら、お代官様ほどでは・・」


「「うわっはっは」」


その時、何処からともなく笛の音が聞こえる。


「んん?

一体何処から吹いておる?」


代官が立ち上がって、庭へと通じる障子を開く。


すると、屋敷を囲む土塀の上に、1人の人物が立っていた。


「何奴じゃ」


その言葉を待っていたかのように、門の扉が開かれる。


そして、扇子で顔を半分隠した女性が、供を1人従えて入ってくる。


「・・何時の世にも、悪は絶えない。

民が飢えに窮しておるのに、米価を吊り上げ、私腹を肥やすとは何事か!

神に代わって、仕置き致す」


「何だお前は?

無礼であろう。

ここが誰の屋敷か分っておるのか?」


「無礼なのは其の方じゃ。

・・妾の顔を、見忘れたか!」


女性が、顔を半分隠していた扇子をどかす。


「な~に~っ。

・・知らんな」


「何じゃと!

・・しまった。

こやつ程度では、妾への直接の目通りは適わんかった」


「者共、出会え、出会え!

この狼藉者共を捕らえるのじゃ。

抵抗するなら、切り捨てて構わん」


「・・喜三郎、菊乃、後は頼む」


喜三郎が一礼し、数歩前に出て、腰だめに剣を抜く仕種を見せる。


「もう、しょうがないなあ」


菊乃はそう言うと、笛を大事そうに終い、代わりに飛び苦無を幾つか取り出す。


そうした2人の身体から、蒼い燐光が漂い始めた。


「・・漆黒の忍装束に纏いつく蒼き燐光。

か、神ヶ島の神兵!!!」


「は、ははーっ!」


刀を抜いていた代官の部下達が、一斉に平伏する。


「どうしたのじゃ?

早く奴らを捕らえぬか!」


「無理でございます。

彼らは神の力を得た戦士。

その力は、たった1人で何隻もの軍船を沈める程と聞いております。

只の人間が敵う相手ではございません」


「そ、そんな馬鹿な。

ではあのお方は、て、天帝様・・」


よろよろとひざまずいて、平伏する代官。


「抵抗せぬなら、財産犯でもあるし、あまり厳しい罰は与えぬ。

追って沙汰を申し渡す故、暫く屋敷で謹慎しておるが良い」


「は、ははーっ!」


「うむ。

これでまた、この国は良くなっていくのじゃ。

2人共、ご苦労であった」


「約束、忘れないで下さいね」


「分っておる」



 「お兄ちゃん、家族風呂があるって・・」


「ん?

そうらしいな」


「一緒に入れるね」


「いや、それは不味いだろう」


「何で?

だって、家族が入るためのお風呂だよ?」


「それはそうだけど、しかし・・」


「ね、一緒に入ろ?

いつもお世話になってるし、背中流してあげる」


「良いのかなあ?」


「大丈夫だよ。

だって、神様が送ってこられたんだから」



 「ほう?

子宝に恵まれるとな。

・・そういえば、久しく休みを取っておらぬな。

偶にはのんびりするのも悪くはあるまい、のう?」


「その間の事は、誰に任せる?」


「マリーが居れば、何の問題もあるまいて。

・・エリカに妹弟ができると良いの」



 『一緒に入りたい』


『駄目』


『一緒に入りたい!』


『駄目、絶対』


『・・寂しいの、我慢してるのに。

本当は今直ぐ、会いに行きたいのに。

・・御剣教は、混浴を奨励してますとでも布教しようかしら』


『・・エリカやマリー達と一緒なら』


『本当?

それで良いわ。

大好き!』

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