第二十六話 人の意識を信じられない人々
キヨトは、時間にして、数十秒間あっけに囚われていた。
それほど、トオリの言ったことはあまりにも常軌を逸していた。
「そ、それは・・つまり、自殺するってことですか!」
キヨトの頭がようやくトオリの言ったことを理解した時、椅子から立ち上がり、叫んでいた。
ラウンジにいる客は、キヨトが口走った物騒な言葉に、何事かと目を細めている。
だが、今のキヨトにはそんなことを気にしている余裕はない。
トオリが言ったことが、本当なら、それはつまり、サエも・・・
「そんなバカなことを!じゃあ・・サエも自殺しようとしているってことなんですか!」
トオリは、キヨトの取り乱した様子とは正反対に涼しい顔をしている。
「自殺・・・というのは、正確ではありませんよ。確かに、何も知らない人間からすればそう見えますが・・・事実は元の世界に戻るだけです。」
「それは!でも・・・トオリさんの言ったことは単なる妄想じゃないですか!この世界が仮想世界だなんて、そんな馬鹿げたことを信じさせて、自殺させるなんて!どうかしている!あなたは、カルト教団みたいに来世に楽園があると嘯いて、心が弱っている人たちを・・・サエのような人を洗脳しているだけだ!」
トオリの冷静な態度に、キヨトはついに我慢できずに、声を荒げる。
だが、それでも、トオリはまるで、堪えている様子はない。
ただ、キヨトをじっと見据えている。
そのトオリの様子が、キヨトにとってはますます勘に触った。
トオリが、感情を露わにして、反論してくれたほうがまだよかった。
これでは、まるで、キヨトが駄々をこねている子供で、トオリがそんな子供をあやす大人のように思えてしまう。
キヨトは、沈黙を続けるトオリにむかって、さらに言葉をぶつける。
「あなたが言うことが本当で、この世界が、仮想世界だというのなら、ここにいる俺は何なんですか。俺には、あなたの言うような記憶はないですよ。」
そうだ。
トオリの言っていることは致命的に矛盾しているのだ。
この世界が仮想世界だと言うのなら、俺のこの記憶は何だというのだ。
トオリの言う未来の世界の記憶などない。
俺だけじゃない。
ここにいる多くの人間が、この世界を唯一の現実として、何も疑わずに、生きている。
「・・・なんとか言ったらどうなんですか。」
「それは・・・答えようがない。正直なところ、僕にもわからないのです。この世界の人々には三種類いる。一つは、元いた世界の記憶を消して、この世界に来た人々、ただ・・・この人々も徐々に記憶を取り戻してはいますが・・・そして、僕のように記憶を保持した状態で来た者、最後は、ライブラリーを元に当時の人間の振る舞いを正確に模倣してつくられたアルゴリズム、つまりAI・・・」
「それなら・・俺は、記憶がなくなっていると・・・」
「いや・・・それは・・・」
トオリの目を見て、キヨトは思わずゾッとしてしまった。
トオリの美しい目の中には、はっきりとある感情が宿っていた。
憐憫・・・同情・・・
そんな感情が・・・
「あ、あなたは・・俺がAIだとでも言うんですか・・俺はAIなんかじゃない。間違いなく感情のある本物の人間ですよ。」
トオリは、諦めきった顔を浮かべて、首を振る。
「僕にはわからないのです。キヨトさん、あなたは確かに本物の人間のように見える。だから、おそらく、記憶を望んで消した人々の一人なのでしょう。
だけど、僕には確信までは持てない・・・それほど、僕たちがいた世界のAIの振る舞いは本物の人間と外見上は判断がつかない。もちろん、三十年後の未来でも意識を持ったAIなどは存在しません。
しかし、人に本物の人間だと思わせるために、意識は必要ない。ただ、その人が日々の生活でどう振る舞うかの膨大な生体データがあればそれでいい。実際、僕の両親は、僕の脳のアルゴリズムを精巧に模倣したAIと数時間話しても、本物の僕と見分けがつかなかった。だから、僕にはあなたが、本物の人間だと自信を持って、お伝えすることができないのです。」
キヨトの頭は、先ほどから頻繁にめまいが起きていた。
真っ昼間の高級ホテルのラウンジにいるはずなのに、まるで真っ暗闇の夜の森林の中をさまよい歩いているような・・・深い海の底でダイビングをしているような・・・そんな奇妙な感覚に襲われていた。
確かにこの場に自分はいるのに、まるで、地に足がついていない。
キヨトは、まるで幻想的な夢の中にいるような気分だった。
トオリが言っていることがあまりにも馬鹿げている。
だから、本来ならば、単に頭のイカれたカルトの戯言だといつものように笑ってしまえばそれで済むはずなのだ。
それなのに、こんなにも、心が揺さぶられ、強烈なめまいに襲われている理由は何故なのか。
理由は、はっきりしている。
キヨトは、トオリの言っていることを本心では信じてしまっているからだ。
だから、2年経っても、忘れることができずに、ずっとサエとトオリの影を追っていた。
2年前にサエと過ごした際に感じたあの不可思議な雰囲気、そして、今再び現れたトオリの異様な言説・・・
何がここまでキヨトの心を捕らえて離さないのかは、キヨト自身にも、それは明確にはわからない。
それは、言語化、記号化することが出来るほど、はっきりしたものではなかった。
ただ、サエやトオリの言っていることが、単なる嘘や妄想だとは到底思えなかった。
「あ、あなたは、いったい何を言いたいんだ・・・」
キヨトが、頭をふらつかせながら、なおも反論しようとすると、トオリが、唐突につぶやく。
「キヨトさん。安心してください。あなたをAIだと思っている訳ではありません。ただ確信が持てないだけです。
実際、元の世界の記憶をあえて消して、この世界に来た人間は多くいます。サエも一部記憶を消しています。その方が、この世界に適応しやすいという判断からです。
キヨトさん、あなたも、そう判断して、自ら記憶を消しただけなのかもしれない。」
「もう・・あなたの御託はたくさんだ。サエに・・・サエに会わせてください。俺が、彼女を説得します。」
「それは僕にとっても望むところです。僕だって、サエにはまだこの世界にとどまっていてほしい。僕はまだ当初の信念を完全に諦めた訳ではないんです。サエにも、諦めてほしくはない。」
「そんな・・話はどうでもいいです!サエは今どこにいるんだ!」
キヨトは、なおも戯言を繰り出すトオリの両肩に掴みかかる。
「落ち着いてください。サエは部屋にいますよ。今から一緒にいきましょう」
近くにいたホテルの客室係が、近くでどうしたものかと様子を伺っている。
これ以上、騒ぎ立てするようなら、介入しようという腹づもりなのだろう。
キヨトは、そんな客室係を横目に、わずかに残っている理性を働かせて、なんとか心をなだめすかせる。
「・・・わかりました。案内してください。」
キヨトとトオリは静かに立ち上がり、エレベーターホールへと向かう。
エレベータに乗り込むと、トオリは、最上階のボタンを押す。
「高いところが好きなんです。僕もサエも。」
そうキヨトの方を向いて、微笑する。
その拍子抜けするようなトオリのマイペースな態度に、キヨトは思わず怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られた。
だが、そんなことをしても、しょうがないと思い直し、せめてもの憤りをぶつけるために、トオリを睨みつける。
エレベーターが最上階につくと、なおもゆったりと歩くトオリを追い越して、
「部屋は?」
と、トオリを急かせる。
「慌てないでも大丈夫ですよ。」
トオリは、涼しい顔をして、後ろを歩いている。
キヨトは、そんなトオリを無視して、「キーを貸してください」と、半ば強引に手に持っていたルームカードキーをひったくる。
カードキーに書かれた番号を確認して、駆け足で、部屋の前まで行き、扉を開ける。
キヨトは、目の前に広がる光景に思わず息をのむ。
そこにあったのは、映画の中でしか見たことがないような豪華な部屋だった。
広さも、キヨトが住んでいるマンションの部屋以上だ。
部屋の中の装飾は高級ホテルの名にはじない重厚な調度品ばかりが据え付けられていた。
キヨトは、その予想外の部屋の豪奢さに一瞬圧倒され、動きを止める。
だが、すぐに思い立ち、「サエさん!」と、大声を上げながら、部屋の中に入っていく。
リビングルーム、寝室、バスルーム、どこにもサエの姿はない。
トオリが、足早に、中を探し回っていると、ようやくキヨトが部屋に入ってきた。
「いないですね・・・おかしいな・・・さっきまでは確かにいたはずなのに・・・」
トオリは、ここにきてようやく少し心配しだしたのか、顔を曇らせている。
「・・・サエは・・・大丈夫なんですよね・・」
「・・・彼女はあなたともう一度会いたがっていましたから・・勝手に、帰還はしないはずです。」
そんなことをトオリから言われても、ちっとも安心できない。
トオリが何と言うと、結局のところサエは、自殺をしようとしているのだから。
「じゃあ・・彼女は・・どこに行ったんですか!」
募る不安に耐えきれなくなり、キヨトは、トオリにキツく当たる。
トオリは、ひとり考え込み、やがて何かに気づいたように、「そうだ・・あそこか・・」と、つぶやく。
「サエがいる場所に心当たりがあるんですか?どこですか!」
「ええ・・さっきも言いましたが、サエは高いところが好きなんです。だから、時々非常階段を登って、屋上に行っているんですよ。」
「そこに案内してください!」
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