第14話 「もうじきアンジェラスの軍が、我々の社にやってくる」
翌朝、泥の様に重い身体を、両手を使ってようやく起こした時には、既に彼の姿は無かった。
頭の芯がぼやけている。だが習慣とは恐ろしいものだ。起きあがると私は、すぐに端末の電源をONにして、現場の様子を訊ねていた。
すると朝時間一番に、ナガノはそこに居たという。私はシャワーを浴びると、いつもの様に服を身に付け、別室に用意されているだろう朝食を摂りに行った。
流通事情の良さから新鮮なはずの野菜も、何かひどく、紙でも噛んでいるかの様に味気ない。紅茶も濃いと胃に重いので、お湯とミルクで薄めずにはいられない。
それでも適度の柔らかさのパンを口に放り込んだり、果物を一切れ二切れと食べているうちに、次第に身体は元の軽さを取り戻し始めていた。
やがて来訪者を告げるチャイムが鳴った。
「おはようございます。……お珍しい、まだ食事中だったのですね。失礼しました」
ミス・レンゲは一礼する。だが私はその彼女の言葉に驚いていた。時計を見る。彼女は時間通りに来ていた。
その時やっと私は自分がいつもより長く眠っていたことに気付いたのである。
「ご気分でも悪いのですか? あまり顔色がよろしくありませんわ」
「いや、大丈夫だ…… それより、今日の予定は?」
「本日は、午前中は新軌道に関する部長会があります。昼には、チューブの製作担当のシュペア社の代表と会食……」
「会食か」
「食欲は如何ですか? もし何でしたら、メニューをあっさりめのものに変えますが」
「ああ、できるだけ、頼む。向こうの好みとはかち合わないかな?」
「それは大丈夫です。今日訪問のシュペア社の代表は、どちらかというとベジタリアンの傾向があると聞いています」
「それは助かった。正直言って、あまり今日は調子が良くない」
「はい、心がけておきます」
「で、午後は?」
私は最後にヨーグルトドリンクを取ろうとして、ふと考えて、それを止した。代わりに紅茶の何杯目かを注ぎ、やはりまたお湯で薄めた。
「君、ヨーグルトドリンクは嫌いか? ミス・レンゲ」
私はふと考えて、彼女に勧めてみた。何となくそれを見ていると、何かしら記憶がにじみ出してくるかの様だった。それはそれで悪くはないが、少しばかり今の状態には重いものがあった。
「いえ、好きですわ。いただきます。……できればジャムをいただけますか?」
彼女は私の前に座ると、ジャムのびんから赤いかたまりを一杯二杯、と白いどろりとしたドリンクの中に落とし込んだ。白い濃い液体の中に、赤が次第に薄まりながら溶け込んでいく。
誰の声だったろう。耳の中に、記憶がよみがえる。
「……で、午後は? ミス・レンゲ」
「はい」
彼女は薄桃色に染まったドリンクを一口飲み、とんとその場に置く。
「どうも急なのですが…… 社長、星間平等銀行から、サーディ会計士という方がお見えになるそうです」
「……SPBから?」
何だろう、と私は思った。
「何か心当たりは?」
「いや、それは無い。何かの間違いじゃないのか?」
「いえ、それは間違いが無いです。SPBの公式回線を使って、向こうが今朝がた早くコンタクトしてきました。ただ、交通事情によっては、今日の午後になるのか、明日になるのか、それとも明後日になるのかは難しいところですが……」
「うーん」
私はうなった。他と違い、この星間平等銀行というところは、無視できない金融機関なのだ。
正確に言えば、銀行の役割を持った人工惑星である。その一方で、守りに徹しきった要塞惑星でもある。ただし決して自分からは手を出さない。そこには、正当防衛の原則が厳しく敷かれている。
もっとも、誰も手を出そうという者はいないだろう。そこを攻撃したら、逆に自分の背中を撃たれるだけのことだ。
何処の誰でも、金額に応じた使用料さえ納めれば、どんな手段で得た金でも預かり、その顧客の秘密は厳守する。それは、現在覇権を握りつつあるアンジェラスの軍であっても、決して手出しの出来ない。一種の中立地帯とも言えた。
おそらくは、居住星域内で最も莫大な量の金を預かり……そして最も堅実な銀行であるとも言えた。
私も全く世話になっていない訳ではない。だがさし当たり、今現在は用は無いはずだ。一体何があると言うのだろう?
「そうか、じゃあとにかくそれは最優先させてくれ。あそこを疎かに扱ってはいけないからな……」
「はい。そう思いまして、社長のここ三日ほどのスケジュールは、時間の融通の効くものに組み替えました」
にっこりと笑ってミス・レンゲは宣言した。時間の融通の効く仕事……つまりは、普段滞りがちな、雑務とも呼べるデスクワークのことである……
*
一般社員の終業時刻を示すチャイムが鳴り響き、私はふう、とその時やっと一息ついた。午前の仕事、昼の会食、そして午後のデスクワークと、実にめまぐるしい。そしてこの忙しさは、奇妙に私を没頭させるものがある。
正直言って、ありがたかった。単純……とまではいかなくとも、とにかく目の前にあるものを一つ一つ片づけていけばいい、というのは今の私にとって、ひどく気楽なことだった。
ミス・レンゲの心遣いもあり、昼食はさっぱりとした野菜が主体のものだったし、午後の休憩の時間には、野菜とフルーツのミックスジュースがついた。
「ありがとう、ミス・レンゲ」
どういたしまして、と彼女は答えた。
「どういう事情かは存じ上げませんが、社長が気落ちしてらっしゃると、私も気分が滅入りますので」
「そんなに判るものかな」
「まあ、それなりに」
あっさりと彼女は言う。やはりこういう所が、私の母親並の時間を女として生きてきた者の年季なのだろう。
私の母親は…… 結局私という人間がよく判らないようだった。放っておけば、同族企業でのポストが約束されているというのに、わざわざ遠くの星域まで行って、なおかつ右も左も判らないであろう職種につく私が全く理解できなかったようである。
「ミス・レンゲは…… どうして結婚しなかったんだ?」
「それは、社長としての問いですか? それとも個人的な問いですか?」
「と言うと?」
「前者なら答えられません。後者なら結構です」
「では後者だ。君は私にそうそう身を固めろとか勧めないだろう?」
だから気に入っている、という部分もあるのだが。
「そうですね」
彼女は首を傾げる。
「別にそうせずにいよう、と思っていた訳ではないのですがね…… 気がついたら、こうだったんですよ」
「では、好きな人とか居なかったのか?」
「そうですね……」
彼女はそしてまた首を傾げる。
「昔、結婚してもいいかな、という人は居たのですが、その時、そのひとはちょっと離れた星域への転職が決まっていたのですよ」
「離れた……?」
「アザマル星系は御存知ですか?」
「ああ、あれはかなり辺境だな」
「私のその時の相手は、キリール系の言語が達者でしたので、それが公用語になっている、そちらの方面の支社へと行くことになっていたのですよ。ですが私は一緒に行く気は無かった…… それで終わりですね」
「何故?」
「それはそうです。私はその時の仕事が好きで、中断させる気は無かったからです」
実に当然のことの様に彼女は言う。
「無論そのひとのことはとても好きでした。ですが、私は私のしたいことがありましたから、彼のためにそれを投げ捨てるのは嫌でしたし……」
「その相手は、それでも、とは言わなかったのか?」
「言いはしましたね。でも、私ですから」
押し切ったのだろうか。それともさらりとかわしたのだろうか…… いずれにせよ、何となく予想がついた。
「そのしたいこと、を投げ捨ててもいいと思う程の相手ではなかった、ということか?」
「どうでしょう」
彼女は視線を落とす。
「それは、その時の私に聞かなくては判りません。ですが、おそらく、私はそれが誰であったとしても、そうだったろう、と思います」
「どんなに好きでも?」
「はい」
「そういうものだろうか」
「あくまで、私のことですが。……それで縁があれば、必ずまた会えるとは思ってましたし…… 無ければ、それまでです。たとえどれだけその相手が好きだったとしても、私はきっと、自分のその時したい仕事を置いてついて行ったとしたら、後で必ず耐えられなくなるでしょう。それだけは自分のこととしてよく知ってましたから」
なるほど、と私はうなづいた。
「……で、その相手とはその後は」
彼女は首を横に振った。
「音信不通です。おそらくは戦地に巻き込まれたのではないかと。彼は決してそういう生き残りが上手い方ではなかったし、そこまでして私に会おうとするか、は怪しかったですから」
それでは生き残り方が上手ければいいのだろうか。そこまでして彼は私に会おうとしてくれるのだろうか。
思考が堂々巡りを始めたので、私は頭を一度軽く振る。考えても仕方の無いことは、考えるべきではないのだ。
「あ」
ふと彼女は声を上げた。失礼します、と言って、スーツの胸ポケットから小型の通信端末を出す。胸の辺りで震えたのだろう。
「……ええ…… はい、判りました。そうお伝えします」
ぴ、と音をさせて彼女は回線を切る。
「何かあったのか?」
「どうやら、今朝申し上げました、SPBの会計士ですが、やはり到着が遅れるそうです」
「何かやっぱり、交通の面に問題があるのか?」
「いえ、どの航路も順調なのですが、ただ、途中のファニュ星域でどうも加速モードのアンジェラスの軍の船とすれ違う可能性があるので、その手前のポイントで休憩を取ってから来る、ということらしいです」
「ファニュですれ違う? 加速モード、ということは、アンジェラスの軍が、こちらの星域に近づいているということか?」
「……まだこのウェストウェストに来るとは限りませんが、その可能性は高いと思われます。確認致しましょう」
「頼む」
ひどく嫌な予感がした。ミス・レンゲの出て行った後、私はふと思いつき、端末に手を掛け、現場の番号を入力しかけた。だがその手を途中で止め、別の番号をデータの中から探した。
だがその相手はなかなか出てこない。ヴィヴィエンヌは一体何処に居るというのだろう。私は続けて、劇団の方へと連絡を取ってみた。
『ヴィヴィエンヌ・コルベールですか? 本日はまだ来ていませんが……社長ですか!』
劇団の係の者はひどく驚いた口調に変わった。
「何か、彼女から聞いているか?」
『え…… ええ。彼女から、もし社長から通信が入ったら、あの…… 直通の端末に、とこの番号を……』
おそらくは私から直接通信が入るということを普段考えていないのだろう。ひどく焦っている様子がよく判る。私は係の者からその番号を聞きながらデータに打ち込んだ。
私は余分なことは言わずに、ありがとう、とだけ係の者に言うと、すぐに打ち込んだばかりの番号に掛けた。
『……こちらコルベール……』
「ヴィー?」
『……! 私に用ができたんですね?』
彼女は私が誰なのか問わない。声に聞き覚えがあるから、というのもあるだろうが、おそらく彼女は自分に掛けてくるのは私だけだろう、と踏んでいたのだろう。
「アンジェラスの軍が、ウェストウェストの方面に向かっているかもしれない」
『……ええそれを、私も不確定な情報として、こちらで聞いてました…… ですがなかなか伝えるタイミングが……』
「君、今何処に居る?」
『本星です。伯がどうやら、軍と接触するらしいのです。ですが、一応、向こうはこちらへ先に来る様なのですが……』
「……正確な予定は? まだ判らないのか?」
『申し訳ないのですが、私も抜け出す算段を考えなくてはなりません。……ええ、あと一度です。社長。正確な時間が判ったら連絡します。そうしたら私は逃げます』
「……判った」
私は彼女に直通の回線を教えると、端末を切った。そして次に、一度はためらった現場への番号を再び入れた。
ところが、回線はつながらなかった。
回線を切るボタンを押しながら、不安が胸の中を走り抜けるのを感じた。
頭からすうっと、冷たいものが肩から下に突き抜けていく様な感触がある。私はミス・レンゲを呼び戻した。
「急用ですか、社長」
「ああ。今現在、遊園地の現場にどれだけ回線が通じる?」
「現場に、ですか?」
彼女は訝しげに私を見る。が、無駄なことは言わずに、すぐに全ての回線の番号を引き出し、担当者の名前までそこにつけた。
「通じるかどうか確認してくれ。いや半分私がやろう…… 嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感、ですか?」
「そうだ、嫌な予感だ」
彼女は室内の端末を一つ別に引き出すと、多重回線を開いた。一つの端末で、多数の回線が一度につながる。分割された画面には、それぞれの場所が映る訳だが。
「……え? どうしたことでしょう…… 社長?」
彼女はとりあえず開かれた3×3の画面の中をひたすら荒れ狂う砂嵐を見て私を呼んだ。だが私の方も同じだった。一度に立ち上げたそれは、全て同様の結果を見せていた。
「これは…… 一体どうしたことでしょうか?」
「今朝がたは大丈夫だった。私が直接回線に出たんだ。だが……」
「一番近いコロニーに連絡を取ります。お待ち下さい」
彼女は建設中の遊園地コロニーに最も近い、住宅地コロニーへと回線を開く。そこは遊園地が出来た時には、最寄りの駅になるはずの場所である。
「……社長、こちらは大丈夫です。回線は通じます」
「出たのは誰だ?」
「ビトウィン支店の通信オペレーターですが…… 誰かに回しますか?」
「いや、まずそのオペレーターから、遊園地へとつながるか試させてくれ。それが駄目だったら、支店長のムリャーマに代わってくれ」
「かしこまりました」
彼女は言われた通りに回線の向こう側のオペレーターに指示をする。五分と経たないうちに、彼女は私の方を向く。画面の中のオペレーターの女性の姿は、見覚えのある男の姿になる。結果が出たのだ。
『……な、何か緊急事態でも』
人の良さそうな中年のムリャーマ支店長は、何が何だかさっぱり判らない、と言った様な顔で画面の向こう側の私の姿に驚いていた。
まずこんなビトウィンのような居住区コロニーの支店長が、ダイレクトに私に回線を開かれることはまずない。支店長クラスは、こちらの営業部長の下に位置するので、命令が直接届けられるということはまず無いのだ。
「君に頼みがある」
『た、頼みですか?』
思わず及び腰になっているのが丸わかりだ。舌打ちをしたい様な気持ちにさすがにかられる。だがそれを顔に出してはいけない。
「何か今、電波障害がある様でね、遊園地コロニーと通信ができない様なんだ。そこが一番最寄りのコロニーであることだし、一つ連絡船を送ってくれないかな」
『連絡船、ですか?』
「そうだ。チューブで行くことができれば一番速いのだが、まだ工事中だろう?」
『あ、でしたら、資材運搬用の車両を動かしましょう』
おや、と私は思う。意外に頭の切り替えは良さそうだ。
「できるのか? 今の時点で問題はないのか?」
『動かせる車両があるかどうか、は担当と相談してみましょう。ですが、一応上り下りと複線にはなっていますし、資材運搬は今の時点ではそう頻繁な訳ではないのでおそらく可能であると思います』
最初の驚きは何処へやら、この支店長はあっさりと判断を下した。
「よし判った。できるだけ速く、向こうの状況が知りたいんだ。」
『了解致しました』
私は回線を一つ切ると、次にチューブの時刻表を担当している管制部へとつないだ。確認のためだった。現在まだ、ビトウィンと遊園地の間のチューブは、軌道こそできているが、正式稼働はしていないから、ダイヤには組み込まれていないはずだ。
「……社長……」
ミス・レンゲはやや不安気な声を立てる。それでも彼女は秘書の分を守ってなのか、それが何なのか訊ねようとはしない。私も言いたくはない。自分の不安が、言葉にしてしまったら最後、現実になってしまう様な気がして、どうしてもそれを口にすることができない。
だがここで現実であるとしたら。私は私の予想できるその事態に対して反応が遅れることになる。対処の遅れは、多くの損害の元となる。私が私の立場である限り、そこから目を逸らす訳にはいかない。
迷っている暇は、無いのだ。
「……ミス・レンゲ」
「はい」
「もうじきアンジェラスの軍が、我々の社にやってくる」
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