夏の扉 編
第74話
「赤坂プリンスホテルなんて...豪華ですね」
「ランキング・テンとか夜はヒットスタジオとか...他局の強力な音楽番組に対抗するために、わざわざホテルの一角を借りてやってるんだろう...」
「観覧のお客さんは...ホテルに泊まりに来た人?」
「そういうことになるね」
6月の初め、我々は赤坂プリンスホテルにいた。というのも、つい1週間前から始まった新音楽番組『The ベストヒッツ'83』の公開収録のためだ。
この番組、驚くことに会場を赤坂プリンスホテルの大宴会場 クリスタルパレスを貸し切って行われている。決して特番とかそういった類のものでは無い、毎週放送されるいわばレギュラー番組だ。
無駄に金をかけまくってる感が半端ないこの番組、ランキング・テンに対抗しようと、毎週発表されるチャートなどを元に上位20名の歌手を余すことなく出演させている。
豪華絢爛なセットが組まれ。観客はホテルのディナーに舌鼓をしながら歌手の生歌に耳を傾ける。
確実に赤字になるであろうことは目に見えているものの、それでも実現させたテレビ局の気概には正直舌を巻くばかりだ。
早速、控え室に入り準備を進める。
ふと、楽屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
宇治正さんの返事によってドアが開いた。
「失礼します...少々よろしいでしょうか。あの
「あ、あの...はじめまして。ひ、平田 智美と申します。」
偉く緊張したこの女性。見覚えがあった。
今現在、期待の新人女優として注目されており、デビューにして初主演を飾る映画が最近公開されたばかりだ。港町の学園を舞台に、タイムリープというSFチックな要素を盛り込んだ恋愛映画らしい。
初スクリーンデビューにして、観客を引きつける演技を快演した彼女は今年で中学3年生だ。とても年下には思えないほどの活躍ぶり。俺が中学生の時なんて、部屋にひきこもって作詞作曲の難しさに頭を抱えていた頃だ。凡庸な田舎生活を送っていた俺に比べ、彼女はこの東京という大都会で単身、活躍している。
凄まじいとしか言いようがない。
「あ、あの...私、厳島さんのファンで...ぜひ握手なんかして頂ければと」
「えぇ、全然。そんなことぐらいならいくらでもしますとも」
彼女は俺の右手を小さな両手で握りしめると、ゆっくりと腕を振った。ちなみに、翌年彼女とは映画で共演を果たすことになる。興行収入はいくらか?それはまだ内緒にしておくとしよう。あまり期待しすぎないでくれ。
74
高速から降り、しばらく道なりに進んだ。真夜中ということもあるが、不気味に
「ほんとにこんな所に大磯ロングビーチがあるんですか」
「私も最初は疑ってたけど大丈夫、国府新宿の国道1号に出れば、ちょこっとウォータースライダーが見えるんだ」
当然、真夜中にウォータースライダーが見えるはずがなかった。
国道一号を進み、しばらくすると細い道を右折した。突き当たりを左折、そのまま道路脇に現れた坂道を登った。
「でっか...」
「ふぅ、到着...ようこそ、大磯ロングビーチへ」
広大な駐車場、そびえ立つ大きなホテル。昨年の夏、テレビの特番で見たあの場所が今、目の前にあった。
「もう、ほとんどの人が前乗りしてるんですよね」
「そうだね...ただ厳島くんほど忙しければ...まぁこの時間からでも不思議じゃないかと...」
いくら忙しいといえども、0時を過ぎて現場に前のりするのはなかなか稀有なようで、今頃駐車場に車を停めているのは周りを見る限り、我々だけであった。
車から降りホテルの入口に向かう。自動ドアが開き、涼しい空気が体を包み込んだ。
フロントの受付には、スタッフが1名だけ立っており、夜中ゆえか最小限の人数で運営しているようだった。
「厳島 裕二さんですね。お待ちしておりました...こちらお部屋の鍵になります。703号室ですね...荷物はどうされますか」
「あ、自分で運びます」
「左様ですか。何かご不明な点等ありましたらなんなりとご用命下さい」
フロントで受付を済ませ鍵を受け取り、荷物を肩から下げる。宇治正さんとはここでお別れだ。マネージャーや関係者は、タレントが寝る部屋とは別の階に部屋が用意されているらしい。
エレベーターで7階のボタンを押し上へ向かう。
『7階でございます』
無骨な機械音声と共にドアが開いた。カーペットの敷かれた廊下を進み自身の部屋を探す。
「702...702.....」
「ねぇ、いいじゃん」
「ダメだって...ここじゃダメ」
「じゃあ、部屋どこ」
ふと、男女の会話が聞こえたので道を引き返す。
「...薬局とかまだやってるかな」
「自販機で買えば?」
「ここら辺にあるかな...」
また道を引き返す。
「大丈夫...バレやしないって」
「本当に?記者とか狙ってそうだけど」
「大丈夫、ここからは見えない」
「...なんなんだ」
先程から行く先々で、年頃の男女が一夜限りの愛の契りを交わそうとしている。ずっと青春の塊だと思っていたオールスター紅白水泳大会は、こんなにもハレンチな裏側があったとは、幻滅どころではない。確かに、同年代の男女が修学旅行の如く同じホテルで宿泊し、あまつさえ見回りの教員とも言える役割がいないこの状況。そういった事が起こりうる確率はかなり高いが、こんなに見かけるものだとは思いもしなかった。
部屋に向かうためにはこの、パックマンのゴーストのような、どこにいるかも分からぬ男女の雰囲気をぶち壊さないように避けて通らねばならない。
ただどこへ行ってもゴーストが居り、八方塞がりである。どうすればいいか...悩みに悩んだ結果、俺は大胆不敵な作戦を強行した。
かつて、小学校や中学校で必ず注意された、またはされている人を見かけたことがあるだろう。
これは正しく禁忌、良い子は真似してはいけない。
俺はその場で手首と足首を軽く解すと。荷物をグッと持ち上げながら、息を吐いた。
足に力を込める、タイミングを見計らい今か今かと待つ。
あと少し.....そして一気に一歩目を踏み出す。
傍から見れば、かなり滑稽だろう。
そう、俺は17歳にして。禁忌とも言うべき『廊下を走る』という行為を強行したのだ。もちろん、702号室が並んでいるであろう真っ直ぐな廊下だ。間違いは許されない、通り過ぎることも、途中で立ち止まることも。気配を悟られず、素早く移動しなければならない。
きっと、伊賀の忍者が御屋敷に忍び込む時はこのような気分だったのだろう。極力自身の影を薄くし、音も立てずに走り続けた。
やがて、俺は702号室に到着した。
肩を上下に動かしながら、深く呼吸をした。
部屋の扉を開け、ベッドにもたれた。こんな全速力で走ったのはいつぶりだろうか。
普段からやらないことは、無理してするもんじゃない。
俺は疲弊した体を、シャワーで洗い流し。解けるようにベッドで眠った。
目が覚めると、窓の外には雪が降っていた。季節は7月だ、異常気象にも程があった。結露で曇った窓を、指で擦り外を眺める。ホテルから見えるプール越しの海は、かなり荒れており、薄暗い中、白波がたっているのが視認できた。
部屋のドアを開け廊下に出る。早朝なのか人の気配はなく、起きているのが俺だけだと悟った。ホテルのアメニティである布製の薄いスリッパを履き、とりあえず徘徊することにした。
ベッドに戻って二度寝をするのも良かったが、早起きは三文の徳と言うように、早朝ゆえの些細な
しばらく歩き、眠気が覚めてきた頃合で部屋に戻ることにした。気がつけばホテル内の朝食会場まで足を運んでいたことに、人間の食欲が突き動かす本能的な行動がいかに強力であるかを実感した。
難しい言い回しをしているが、いわゆる腹が減っていたので吸い寄せられるように食事に向かったということだ。
あいにく朝食会場は扉が固く閉ざされており、一昨日来やがれといった状況だった。来たのが早すぎたのだろう。
自室に戻る道中、偶然にも出会ったのは中川さんだった。当たり前と言えるが、すっぴんだった。
普段見る、化粧で飾られた顔とは違って、ナチュラルかつ本来の魅力的な可愛さが全面に押し出されていた。どちらかと言えば化粧をした顔より、すっぴんの方が親しみやすく好きだと感じた。
彼女は可愛らしい声で小さくお辞儀をしながら言った。
「おはようございます」
「おはようございます...」
テレビ等の仕事をする前に、共演者と挨拶をすることは常日頃行われる当たり前の行為だが、ホテルで出会った彼女との挨拶はどこか、プライベートで出会った、友人同士の、親しき仲に礼儀が垣間見える挨拶だった。
「結構、早く起きるんだね」
「うん...でも厳島くんもこんな時間に」
「まぁ、自分はショートスリーパーだからね」
「そっか...私は結構長く寝ちゃうな...」
「いいと思うよ、短く寝るよりかは健康的で」
「そうかな...」
彼女は、首を微かに傾げた。髪がふんわりと揺らいだ。
「そういえばさ...」
「ん?」
「入院中、お見舞い行けなくてごめんね」
「あ、いやいや別に気にしなくてもいいよ。その気持ちだけで十分有難いから」
「そっか...ねぇ」
「ん?」
「涼子ちゃん...今泉 涼子ちゃんが、お見舞いに来たってホント?」
「う、うん...ほんとだけど」
不安げに俯く彼女を見下ろしながら、俺はどうにか慰めようと話題を転換した。
「そう言えば...」
「厳島くん...」
話題の転換は見事に失敗した。
「私の気持ち...とか。その...ほら...涼子ちゃんが...い、言ってたと思うんだけど」
「...うん」
「その...ほんとに...私。.....なんて言えばいいのか分からないけど...ずっとドキドキしてて」
「...」
「あの...手、握っても...いい?」
「...もちろん」
俺は手を差し伸べた。彼女は緊張した様子でゆっくりと右手を近づける。髪で隠れた顔が、少しだけ紅くなっているのがわかった。
目が覚めると、窓の外から朝日が差し込み、セミの鳴き声が早朝の夏風に運ばれてくるのを感じた。
「...」
身体中がじっとりと汗で濡れていた。心臓の鼓動が強く頭の中に響いていた。息は荒く、顔が熱くなっているのを感じた。
俺はベッドが体を起こすと、シャワーを浴び、今度こそ朝食会場に向かった。
ちなみに、渡された台本を見てみると出演者の中に中川朱美の名前は無かった。
俺はようやく、彼女と手を繋ぐ直前までの記憶が夢であることを悟ったのだった。
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