油断

 展望台には相変わらず人の気配はなかった。不自然にも思える静寂の中、ふたりは三六〇度警戒しながら展望台から駐車場に下りる階段に向かった。機敏な琴音ことねとは違い及び腰のメグは、先程たっぷりと水を飲んだはずなのに既に喉がカラカラだ。しかし、予想に反して攻撃が仕掛けられることはなかった。


 助手席に乗り込むとメグは一気に解放感に包まれて安堵のため息をついた。


「気を抜いてはだめよ。魔法の気配が消えたわけではないわ」


「はい」


 メグは背筋を伸ばして座り直した。


「麓に降りたらどうすればいいですか?」


 一車線の坂道をぎりぎりのスピードで下っていく車に大きく体を揺さぶられながらメグは尋ねた。琴音の美しい横顔は一瞬たりとも厳しさを緩めない。


「あなたをバス停で降ろすから、バスがすぐ来るなら乗りなさい。そうでなくても十分ほどで迎えが来るはずよ」


「迎えですか?」


「ええ、天空たかあきが来るわ」


「え? 藤堂さんが?」


 あまりにも意外な名前に素っ頓狂な声が出てしまい、メグは慌てて口を押さえた。しかし、それで合点がいった。森からの電話の相手は藤堂だったということだ。それにしても何故藤堂が……


「天空なら信用できるからよ。それでも五割程度だけれどね」


 メグの心を読んだかのように琴音が答えた。


「五割ですか」


「私は誰も信用しない。それが身を守る最善の方法だと思うからよ」


「はあ」


 到底理解できない発想だが、ありとあらゆる面で秀でた琴音ならではの真理なのかもしれないとメグは思った。


「ひとつ聞いていいですか?」


「なに?」


「さっきに襲われた時、一条さんが『強い相手だけど、でも』みたいなこと言ってて、その続きが気になってたんです」


「ああ、それね。あの攻撃、あれはふざけてやってるだけで本気じゃないと思ったのよ」


「え? どういうことですか?」


「ヤツは奇襲をかけてきたわよね。あれ程の力があれば一撃で私たちを倒すことができたはずよ。でもしなかった」


「それはなぜですか?」


「さあ。なぜかしらね」


 琴音はそれきりまた黙ってしまった。



 麓の国道にあるバス停にメグを降ろすと、琴音の運転する車は明らかに法定速度を超えて今来た道を戻っていった。国道といってもほとんど車の通らない川沿いの山道で、バス停前の昭和を感じさせる雑貨屋は開いているのかいないのか入り口のガラス戸が閉まったままだ。時刻表を見るとバスは一時間に一本程度で、次は三十分待たなければならない。これなら藤堂の方が早いはずだ。


 とりあえず落ち着こう。


 メグは乾いた喉を潤すために店先の古びた自販機の前に立った。しかしどれも売り切れのランプが点いていて買うことができない。仕方なくペンキの剥げたベンチに腰掛けて藤堂を待つことにした。


 不意に背後でガラス戸がガタガタと音を立てた。振り返るとかなり高齢の老婆が左手にはコーラの瓶、右手には昔ながらの栓抜きを持って立っていた。曲がった腰を幾分か伸ばしてメグを見ると笑顔でコーラを持つ手を上げた。


「ごめんね、こんなのでいいかい?」


 恐らくは店内からメグの様子を見ていて持ってきてくれたのだろう。メグはその気遣いがとても嬉しくて、にっこり微笑み返した。


「ありがとうございます。おいくらですか?」


 老婆はメグの隣にぺしゃっと座るとコーラの栓を手慣れた様子で抜き、人懐こい笑顔と一緒にメグに差し出した。


「なあに、いいんだよ。その代わり、バスが来るまでこの年寄りの話し相手をしておくれよ」


「喜んで」


「さあ、おあがり」


「いただきます」


 メグはよく冷えたコーラをゴクゴクと音を立てて飲んだ。喉を滑り落ちていく液体が心地いい。やがてそれが十分に胃を満たした頃、メグの手から瓶が滑り落ちて転がった。


 意識を失ったメグをベンチに横たえると老婆はしゃんと立ち上がってメグを見下ろした。


「知らない人から物を貰っちゃいけないって、幼稚園で習わなかったかい?」

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